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4月1日(水)

2009年04月01日(水)

新人男性訪問看護師さんと在宅医療事務さんを同行して訪問診療しました。深夜は顔知らぬ男性看護師とメール便。

 今日は年度はじめ。今日付けで、大病院から赴任したばかりの新人男性訪問看護師さんと新人在宅医療事務さんを連れて訪問診療しました。事務から渡された地図を頼りに、紹介状も保険証も何もない患者さん宅を探します。あるのは、末期がんであることと住所だけです。家を見つけると今度は駐車場所の検討に入ります。もちろん下町の住宅街にコインパーキングなんてありません。一応駐禁除外票を持っていますが、尼崎では何の効力も持たないことは実証(?)済みです。

 この3ヶ月、完全に警察との決戦モードに入っています。クリニックを挙げて犠牲者が多発していますから、もうあとはありません。もう1回捕まれば本当にブタ箱に入るかも知れません。ブタ箱に入ったら「長尾先生を助ける会を結成してマスコミの注目が集まって、駐禁問題がクローズアップされて解決しよう。そしたらヒーローになれる」なんて仲間から言われていますが、そうやすやすと捕まる訳にはいきません。相手(緑のおじさん2人組)は本当に蚊のようにすぐにフワーとどこからともなく飛んで来ます。3分間の勝負です。なんて初日からショームない解説をするからら院長はなめられるのでしょう。

 解説しながら在宅を回るうちに、気が付きました。底辺にいるひとたちに政治の歪がはっきりと出ていることを。制度の狭間にしっかり落ちた人々の真実の姿と無力感を。ついついブログに書こうとしたら、ある訪問看護師さん(男性)からメールがきました。
 今夜の彼とのメールのやりとりを一部紹介します。彼はいつも現実をしっかり見ています。お互い顔も知らない男同志が深夜にこんなメール交換をしているのは怪しいでしょうか。(長文になりますが)

 
●長尾先生へ
特にホームヘルプで、本来、自立支援、要介護化予防をする必要がある要介護者に、過剰な特に家事支援をしている場合があると聞きます。この、比較的低要介護度の層への介護特に家事援助には大きな問題があります。「してあげる」ことで廃用を増長させ「本物の要介護者にしてしまう」ことです。この部分は、ある意味で不適切な保険給付である場合もあると考えます。そのような現状は、正す必要があると思います。ステレオタイプに弱者切捨てとばかりいえないと思うのです。

 介護保険法改正で介護予防に向けてシステムが変わりましたが、現実には要となる保健師不足もあり、実際のケアプランは実は今までと変わっていないことの方が多いようです。おそらく、今回問題になる多くはその部分かと想像します。数年前から、要介護化するパターンとしてそれまでの「脳血管障害モデル」つまり脳梗塞などによる麻痺による障害、「認知症モデル」そしてこれは類型としては上がらないようですが、足などの骨折による寝たきり化、が知られていましたが、数年前から、「廃用モデル」が重視注目されているようです。廃用とはご存知の通り、本来は能力があるのに、やらない(怠ける)ことで能力を失ってしまう、いわば退化です。

 歳を取れば、一部の意欲ある高齢者でなければ、「しんどい」と楽しようとしたくなります。しかしそれを介護保険で「いいですよ、助けてあげます。楽してください」と「してはいけない」のです。廃用モデルに属する人たちには、安易に家事援助などをするべきではないと考えます。そのような人たちに必要なのは、誰かが援けて外へ引っ張り出し、あるいは家の中、周りででもとにかく「動く」ことをして頂くこと、です。その意味で、本当にどこまでの「介護」が必要かは吟味が必要と思います。

 蛇足ですが、デイサービスはこの段階の軽度要介護者の方々にとって、本来重要なのですが、認知症モデルの方を前提としたシステムが主流のためか、知的には問題の少ない廃用モデルの方々は拒否されることも多いようです。一部で、知的に正常な方々のためのデイも始められていますが、まだまだ、という制度システム上の問題もありそうです。

 ・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・

 つまり、社会の底辺に居る人たちほどよりケアが必要にも関わらず、しかもケアしても改善があまり見込めないにも関わらず、その受け皿が実は公的には十分ではないということです。
端的に、入院していた方で、特養でも老健でもない、ある程度は動ける、少しの手助けがあれば生活できるが家族が無い、要介護度も動けるから低い、金も無い、そのようなレベルの人を収容する、軽費老人ホームや養護老人ホームが、圧倒的に不足している感があります。

 「たまゆら」が生活保護の「行き場の無い」人たちを多く受け入れていたのは既に衆知です。病院や介護施設の中には、役所が安定して支払いしてくれる生保の人を一定数確保する方針の施設がある一方で、多くは「お荷物」扱いするのが現実と感じます。

 私は生活保護者や低所得者の多い病院におりましたが、この法人は、低所得者や生活保護患者はてはホームレスでも差別無く受け入れていました。しかし、彼らの中には、アルコール中毒や粗暴な人も少なくなく、だからこそまともな労働や社会生活ができず生活保護になったというような人も少なからず居ます。それが「お荷物」たる所以です。

 そしてそのような人の中には、特に大きな病気や認知症が無いにも関わらず、自立生活が困難になる人が一定割合で出てくるという印象があります。要は年齢が若ければその日暮らし、乱れた生活でも生きていられたのが、高齢化すると行き倒れて病院に運び込まれたり、近所の人が見かねて救急車呼んだりする。生活そのものが荒んで、人の世話なくて生きられないように
なってしまう。つい先日も、そういう人がいました。これはいわゆる要介護化とは別物ですが、世話が焼けるという意味では、誰かが面倒みるしかない。人たちです。そういう人が「たまゆら」には少なからず居たのではないかと思います。そうでなければ、火元とされるタバコ、介護を受けるような人が喫煙するというのは不自然ですから、やはりある程度本来自立生活すべきだが、それができない、上記のような人が居たと推測するのです。

 そのような人は、通常の特養などには馴染まない(ある程度動くことはできるし要求は色々してくるから)が、世話は必要。ある意味で既存の介護システムからはこぼれる人たちです。

 私は「たまゆら」の理事長には実は同情する部分もあります。わずかな生活保護費から彼らの衣食住をまかないタバコまで与え、小遣いまで渡していたと聞きます 勝手に連れてこられたとしても、自力で生活ができなくなっていた人を、それでも暮らしが成り立つようにしていたなら、責めるばかりは酷とも感じるのです。もちろん、多くは無い報道から知ったことだけでの話しですが。

 ・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・

 収入や社会的地位が、親の収入や社会的地位と相関するという現象があるのは、良くご存知かと思います。貧困の連鎖です。同様に、誰か現象として命名したかは分かりませんが、低所得
低教育水準の人ほど、健康に問題を起こしやすく要介護化する傾向が知られていたと記憶しています。

 しかし残念ですが、どれほど回りが努力しても、本人の意思を無視できない以上、それらの人々を改善するには限界があります。となれば、必要なのは、最終セーフティネットとしての収容
施設です。これは何も生保の人に限らず、一部高齢者で、「頑張って自立しようという、意欲の無い」人たち、そういう人たちの受け皿としての意味も当然、あります。私は在宅医療、在宅ケアを推進しようという視点の人間ですが、上記のようなことがあるので、同時に要介護者の全数収容可能な施設備。が必要と考えています。

 端的には、要介護状態でも自<律>できる人家族に見守ってもらえる(だけのことを人生においてしてきた人)は在宅を選ぶことができ、そうでない世話してもらいたいだけの人は、多少
とにかく確実に入れて「最低生活」は保障される程度のものは国として用意する。という発想です。

 昔の親は子供に「言うこと聞かないと、しっかりしないとサーカスに売り飛ばすよ」と自律を促していたと思います。その世代が今の高齢者のはずです。その世代が自ら自<律>を忘れるなら、自身が「姥捨て山」に棄てられてしまう、それはある意味で身から出た錆ということもあるような気がします。

 とはいえ、文明国家ですから、まさか本当に棄てるわけにはいきません。でもそのツケを家族に背負わせて介護地獄、介護殺人、介護心中になるのは、絶対おかしいのです。だとしたら必要なのは、「姥捨て山の前の古寺」と思います。

 今年の桜は思いのほか咲き遅れているようです。
 

 超高齢化する日本の未来にも春が至り花咲けば、と思います。智恵を蓄積した世代が増えれば社会も円熟するはずが、どうも逆に荒廃している気がします。それを正す存在が必要です。・・・

 
I看護師さんへ、長尾より
前半は同感です。後半も今日一日中、私が感じていたことで、今まさにブログに書こうとしていた内容なので、シンクロニシテイというか、怖いくらいです。

 尼崎の在宅医療から見る現場の一部は悲惨です。うば捨て山のように感じます。馬小屋のような部屋に老人が捨てられているように見える時があります。底辺をたどればこの国がどういうトレンドなのか一目瞭然です。老老、認認、独居がむしろ普通になってきています。子供もお金が無いから親を施設に入れられない。在宅医療を選んでもお金がないから介護サービスは最低限のみしか選べません。そんな中、我々はどないせいと言うのでしょうか?やはり底辺にすべてのしわ寄せが来ています。

 いっそ国営の収容所でも作ればいいのにと、毎日思います。悠長に「自宅がいい」とか何とか言ってられないレベルにきています。訪問看護はヘルパー事業所と競合し、介護保険制度の欠陥を痛いほど感じます。しかし、これを叫べど誰も本気に聞いてくれません。

 収容所に集めた方が国は(本人も家族も)助かるように思います。収容所に入りたくなければ、年をとっても努力したら、なんて酔わないととても言えませんが、そんな気になる時もあります。

 ついでに言うなら、介護認定委員会の意味がよくわかりません。先週はこの研修だけで、5時間費やしました。人間が介入するからおかしくなるわけで、機械に判定させるのが最も公平ではないのでしょうか。ゴルフのハンデイキャップと全く同じ論理です。無用な介入させておいて「標準化」とは論理的におかしいのでは?この制度(委員会)廃止だけでも何百億円が節約できるはず。しかし誰も本気で言わないこの不思議。

 根本がおかしい。
 制度もおかしいが、精神がおかしい。
 日本人の強さと奥ゆかしさはどうなったのか。
 
決して政治のせいだけではない。
 行くところまで行かないと誰も気付かないのか。



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