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應典院「いのちと出会う会」第100回記念講演

2010年11月23日(火)

應典院で毎月開催される、「いのちと出会う会」の
第100回記念講演で、講演させて頂きました。
身に余る場を頂き、現在の私が持てる力を出し切ってきました。
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石黒大圓さんが主宰する、この勉強会。
應典院という「場」が引きつける力もある。
第100回という節目に、今日の大きなご縁を頂いた。

・地域
・共助
・おせっかい
が、今日のキーワード。

石黒さんも私も喪失体験が、すべての出発点。
私は狂っているかもしれないが、
石黒さんの実践は素晴らしい!のひとこと。

大阪駅周辺のホームレスに寝袋を配るボランテイア。
ホームレスに「拝にながら」、人間道を実践している。
こんな人はなかなかいない。

秋田住職には、多くの示唆を頂いた。
本当に凄い方だ。
医療界でも引っ張りだこになりつつある。

日本一の口笛奏者の「もくまさあき」さんの
口笛も、講堂に響いた。

今日の感動に、感謝したい。
また知り合えた方々にも感謝。

石黒さんの口上を、引用させて頂きます。

 

「いのちと出会う会」開催趣旨について 
代表世話人 石黒大圓 

 


「いのちと出会う」は私の個人的な体験から誕生しました。 平成元年から9年までの間に妻子を病いで失い、「2人の人生は何だったのか」「2人の苦しみは何か意味があったのか」「次の世で2人は元気に暮らしているのか」などの、問いがかけめぐりました。 

 

應典院寺町倶楽部実行委員にさせていただく前に、枚方で「終末期医療」などについて学ぶ学習会に参加していました。 この会を主宰されている南吉一先生は、会場の「在宅ホスピスあおぞら」を基地として「終末期患者の在宅ケア」の支援を開業医としてされていました。 またこの「あおぞら」で「大阪生と死を考える会」の会長の谷荘吉先生にもお会いしました。

 

そしてこのような生と死や終末期の問題について、市民が考える会を大阪でもやりたいと考えるようになりました。 そして應典院での秋田住職との出会いから、生と死を考える会・天王寺支部として、秋田住職の命名で「いのちと出会う会」という例会が誕生したのです。 

 

このようにして平成12年に「いのちと出会う会」は始まり、最初は医療や生と死の問題について考え、参加者相互が分かち合うことが多かったのですが、この会を通して私が釜が崎や野宿者支援に関わりだしてから、話題提供者の幅が広くなってきました。 そして国内外で社会活動をされている方々も話題提供者としてお招きすることが多くなりました。

 

昔、死を語ることはタブーでした。しかしキューブラ・ロスの著書「死の瞬間」が出版され、「東京・生と死を考える会」のアルフォンス・デーケン教授の「死の準備教育」などによって、死を語ることが市民権を得ました。 もう死について考えない、縁起が悪いという時代ではありません。 人は死に向き合った時に真に自分の人生の意味や生きがいについて振り返り見るのではないでしょうか。
                                
現在では死は病院死が圧倒的になってしまい、日常生活で大事な死を見る機会が隠されています。先のJR事故を見ても、人生いつ何が起こるかわかりません。 まさかの時の人生での危機管理の心構えとして死を考えることは、自分の人生観や死生観を築く上で大事だと考えます。 まさに愛しい人の死と向き合うことで、自分自身と向き合うことになるのです。 

 

そして「死」を見つめることは「生」を見つめること。 いかにこの人生を意義あるように輝いていきるかを考えるのが「生と死を考える」意味だと思うようになりました。 そのために次第に「死」よりも「生」に軸足を置くようになってきました。

 

今後も應典院というすばらしい精神的価値を発信している宗教施設で、末永く「大いなるいのち」についても、皆様とともに考えていける場を提供していきたいと思っております。

 


 

 

長尾和宏先生ご講演「地域でつなぐ、いのちの絆」趣旨説明

「いのちと出会う会」の話題提供者の方々のお話の多くは、最後の結論として「お陰様」や「恩返し」に行き着いています。 生老病死の苦難を乗り越えられた時に、多くの人々の支えによって生かされたという発見から、「お陰様」の気持ちやお世話になった人々に「恩返し」をしたいという行動に結びついています。 その結果、その人の人格がひとまわりも大きく変容しています。

 

さらにそこから広がって世間の多くの人々にも支えられて、ここまで生きて来られたことへの発見があり、昔から言われる「報恩感謝」の思いから、見ず知らずの人々へも、そのご恩を返ししていきたいとの思いにつらなってきておられます。

 

今、地域の絆がうすくなって無縁社会と言われ、多くの「いのち」が孤独死やイジメ、無差別殺人、虐待、家庭内殺人などによって理不尽な最期をとげています。 それだけではない。 「いのち」そのものの存在理由が問われる時代になってきています。

 

また「いただきます。ごちそうさま」さえ言えない教育のなかで、人間以外の「いのち」にさえ目を向けない風潮に疑問を持ちます。

 

戦前の女性詩人、金子みすゞ の詩のなかに「大漁」というものがあります。
「朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰯(おおばいわし)の 大漁だ。 浜は祭りのようだけど。 海のなかでは 何万の鰯(いわし)のとむらい(葬式)するだろう。」

 

この世の繁栄の一方で、その裏では悲しんでいる多くの人や生き物がいる。 しかしその悲しみがわからない人もいます。 コンビの一つひとつの食品のなかに、どれだけ多くの人々の「おかげ」と「ご恩」、そして生き物の「いのち」によって我々は生かされているか、がわからない人々が増えています。

 

「ありがとう」や「感謝」の反対語は「当たり前」と言われます。 自分の幸せは自分の努力の結果として獲得したものであり、今得ている幸せは「当たり前」だ、「感謝」など必要ないという人々。 さらにマザーテレサが言われたように「愛」の反対語は「無関心」です。 「愛なき世界」が身近な人にさえ関心を示さない無関心世界「無縁社会」を生んでいると思います。
 
私は家族の死を経験して終末期医療の学習会へ参加し、「人生の最期の時期が幸せなら、過去の自分の人生すべてが幸せと感じられる」と語る患者が多いことを知りました。 また私の個人的なことですが、ホームレス支援に関わることで同じように「人生の最期を冷たい路上で死ぬのではなく、畳の上で死なせてあげたい」との思いに至りました。

 

このような考え方に無理解を示す人が多くなっています。 これは「人のことはどうでもいい、私だけ、私の家族だけが幸せであったらそれで良い」という戦後教育や戦後の繁栄が生んだ自己チューの成れの果てと思います。

 

せめて病人や老人を、その人生最期の瞬間において、長尾先生などが献身的に支えておられる在宅医療によって救ってあげてほしい。 末期患者が白い病室のなかで白いカテーテルの管だらけになって一人寂しく亡くなっていくのではなく、家族が患者の手を握って、ひとときのこの世での別れを告げられる温かい医療となってほしいと思います。

 

末期患者が最期を過ごすホスピス施設の多さが、その国の心の豊かさを示しているといわれます。同じように献身的に患者の介護をする家族や在宅医療を志す医者の多さが、この日本という国の心の豊かさを世界に示すバロメーターです。

 

今、言われている日本のなかの無縁社会において、いかに人々の縁をつなぎ合わせるか。 私たちの心の中に「感謝」「ご恩」「愛」の気持ちを再生させることが緊急の課題と思います。 その温かい思いやりを失った日本は没落していくのみです。 

 

人はいったん断ち切られた心の絆を再び結び合わせられた時、その人の魂は復活するのではないかと思います。 その意味で医療現場の立場から、地域での温かいネットワーク作りや介護に奔走されている長尾先生の活動は注目に値します。

 

これからの時間、長尾先生がいかに地域の中で温かい絆を作り上げておられるか。 病人や老人に日々関わって来られた経緯や成果をお聞きしたいと思います。



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この記事へのコメント

なつかしい「生と死を考える会」

ブログを拝見すると、ほんとうに長尾先生が講師として招かれるにぴったりの会のようでしたね。想いが通い合い、心に残る記念講演会だったこととお喜び申し上げます。
私も、カソリックだったためデーケン教授(イエズス会司祭でもある)が会を始められた頃上智大学の講座に通っていました。ある程度通ってその後ご無沙汰していましたが、今全国で活動が実を結んでいるのを知り、懐かしく思いました。

地域の暖かい絆で支えあって「有難う」を交わしながら「再見」とお別れできたら倖せですね。
ただ孤独死なさった方を、可哀そうと第三者が決めつけるのは、違うと思う。
その死の瞬間に、その方がどう思ったか、神様がどう受け入れたか、誰も真実を分かりはしないのです。その方の尊厳を脇から評価したくない。外的状況はどうであっても、倖せな死であったかもしれないと思う・・・少しスピリチュアル的過ぎるでしょうか?

Posted by 梨木 at 2010年11月24日 07:07 | 返信

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