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人が戻らないと復興は無い
2011年08月12日(金)
南相馬は、まだまだ、これからという感じ。
しかし、復興の足音は確かに聞こえる気がする。
8月9日(火)双葉郡内の様子について
福島県の尾形です。
9日にプライベートで双葉郡浪江町の薬局の友人の手伝いのため、20km以内に入り3月末以来久しぶりに状況を目にしてきたのでその状況をレポートしたいと思います。
ルートは、国道6号線を楢葉町の入り口の検問から入り、北上し浪江町まで往復するものでした。
サーベメーター(~30μsV/h)の感度のものを携帯していきました。
私個人としては、かねてから心配していた薬局や医療機関等から危険な医薬品や医療機器、薬物の盗難等の実態はあるのかを確認したいという目的もありました。
第一印象は、ずいぶん多くの車両と人々が動いているなあというものでした。それも、一般の人々に見えました。自衛隊や警察の車両をほとんど目にしなかったからです。
最初に到着した浪江町は町の中心が原発から北へ8~10km以内にあります。1mの高さで0.4~1.0μsV/h、やや西へ数km行くと10~15μsV/hとかなり放射線量はばらつきがありました。町は地震で破壊されたままで、3月からほとんど変化はありませんでした。電線も垂れ下がったまま、道路もいたるところでぼこぼこ陥没しており危険です。倒壊、半壊の家などもそのままです。薬局や病院、診療所のほぼ100%が何者かに浸入され物色された形跡がありました。しかし、目的は家電や現金らしく、医薬品や薬物の持ち出しは無かったように見えました。これは、他の町でも同じでした。
浪江町の復興を考えると、建物やインフラの破壊はすさまじく、そのまま使用できる可能性はほとんど無いと思える程のダメージがありました。農協の倉庫の農薬を心配し確認したところ、鍵がきっちり掛かっており、盗難の形跡はありませんでした。肥料、飼料倉庫は扉が開いており、糞だらけでおかしいと思い、真っ暗な建物内部を見たところ、そこで20頭くらいの牛たちがそれらをえさにして生活していました。孔子もいたように見えました。浪江町の請戸地域は海寄りで、漁港をはじめとする街並みは壊滅され跡形も無く、がれきもかたづけられてありました。
双葉町は原発から2~4kmのところに町の中心があります。3件ある薬局は全て何者かに破られ、浸入された形跡がありました。双葉厚生病院は、3月末には満車だった駐車場も数台となり、電気も消され施錠されて片付けの跡がみられました。双葉町と大熊町の境に第一原発は立地しているのですが、入り口の6号国道上で車内の放射線量を測定したところ、勢いよく針が振り切れました。30μsV/hオーバー、あの勢いはその2~3倍程度はありそうに思えました。
原発から3~6kmのところに大熊町の中心があります。こちらは、病院、診療所は無事で、薬局は3件のうち2件が盗難の形跡がありました。(写真)放射線量は18~25μsV/hでした。県立大野病院は、新しいためか外見上は全く無傷でしたが、西側数キロのところでダチョウを繁殖させている牧場があったためか、敷地内にダチョウの成鳥が散歩しておりました。
実は原発の南側1~2kmところに医薬品や化学薬品の工場が4件、農薬の工場が1件あるのですが、近すぎて立ち入り禁止のため現状を見ることはできませんでした。
富岡町夜ノ森地区は7~10km程度のところにあります。線量は12μsV/h前後。
富岡町中心部は、更に数km南にありますが線量はほぼ同じ程度でした。この町は、病院、診療所、薬局のいづれも無事で、浸入の形跡はありませんでした。しかし、JR常磐線の駅は海から数百メートルと近いために壊滅しておりました。(写真)
この町の南外れに、双葉農協のメインの配送センターがあります。状況は、3月という最も取り扱い量が多い時期に被災したため、農薬等倉庫のシャッターの外側にも多くの肥料や飼料がパレット積みで重ねられたままになっており、閉じられたシャッターを塞いだかっこうで、浸入の形跡などはありませんでした。
今のところ現状では、危惧した物の盗難は無かったと思えました。
それからもう一つ、大熊町には精神科単科350床の双葉病院があります。マスコミではひどい取り扱いがされ、事実と異なることが判明してもなお、汚名は払拭されていない悲惨な病院です。隣に100床の老人保健施設も併設しており、置き去りに近い状況が数日続いた施設です。私が、相双保健所へ行った3月14日頃だったと記憶しますが、自衛隊とバス数台でそこの患者を連れてきて、放射線のスクリーニングをしていたのを思い出します。いまいまの患者が数人いて、保健所の医師は移動を止めようと必至でしたが、当時受け入れ病院等病床が地域には無く、そのまま見送った方々は報道のとおりの結末となってしまいました。電気が無い、多くの職員も動ける患者と避難して戻れない中、少ない人手
で5階建ての病室から動けない高齢で病状の重い100人以上の方々を1階まで降ろし、救助を待っていた光景が目に浮かび、涙が止まりませんでした。(写真) 何とかみんなの力で一日も早い立て直しを実現したいものだと強く思います。
今後、警戒区域が小さくなっていくでしょう。しかし、そこに人々が戻らなければ、復興はありえません。戻れる環境をいかに計画的に整備していくかが大きな問題です。そのためには、情報が、万人に信じられるものであることが大前提です。そのために、何をする必要があるのか、多くの方々の英知と努力によって、緻密に、短期、中期、長期的計画が策定され、着実に実行していくことが一刻も早く望まれます。そして、それらは常にリアルタイムでベクトルの掛からない情報が開示され続けていく必要があるのです。
尾形眞一
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