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外交・防衛

2013年03月24日(日)

医療介護も大事だが、外交防衛、経済金融の次に位置するのが現実だと思う。
平和ボケしてる私は、歴史を勉強する機会が少なし、すぐに忘れてしまう。
平河総合戦略研究所のメルマガから西村真悟氏の文章を転載させていただく。
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私の素朴な疑問だが、何故、西村真悟議員が
「維新の会」なのか、よく分からない。


以下、西村的歴史観に興味のある方へ。

平和があってこその、医療介護であると思っている。


 
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◎西村真悟  <台湾のこと> 

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 二月二十八日が過ぎた頃より台湾のことを書きたいと思っていたところ、先日、産経新聞が、台湾政府が、尖閣諸島に関して中共と対日共同行動をとらないこと表明した旨報道していた。

 そこで、台湾の、二月二十八日に関することと、尖閣に関すること、そして山岳民族である高砂族に関して簡潔に述べておきたい。

 

 我が国が戦争に敗北して連合国に降伏して「終戦」となったのは、昭和二十年九月二日だ。

 ここから、我が国の歴史教科書は、きっと「言論統制」を受けているのだろう、足並みをそろえて、嘘を子供たちに教え始める。

 「すなわち、日本の敗北によって、世界に平和が訪れた」、と。

 

 これは嘘だ。

 日本の敗北と日本軍の武装解除によって、アジアが動乱のルツボとなった。

 それを為したのは、ソビエト、コミンテルン、中国共産党、中国国民党、イギリス、フランス、オランダである。

 まず北から、

 平和な満州は暴力と無秩序に支配され、それをもたらしたソビエト軍と共産パルチザンという匪賊の集団は朝鮮半島に雪崩れ込んできた。

 次に、万里の長城以南では、日本軍によって守られていた秩序が崩壊し、中国共産党と中国国民党の内乱が始まった。さらに、中国国民党は、台湾に進駐して恐怖と暴力によって支配を始め、台湾の豊かな物資を大陸の内戦に投入して台湾を疲弊させる。

 イギリスは、ビルマとシンガポールを回復してアジアへの武力支配を開始し、さらにオランダとともにインドネシア独立運動を弾圧し、数年にわたる独立戦争がインドネシアで始まる。フランスも、仏領インドシナの支配を開始するがベトナムなどで独立戦争が勃発する。

 以上の通り、日本軍の武装解除によって、中国大陸では内戦が勃発し、結局共産党が支配権を握り、以後、総数八千万人ともいわれる人民が共産党に殺され粛正される大惨害が始まる。

 朝鮮半島では、共産主義者とアメリカを中心とする連合軍の確執が始まり、後の凄惨な朝鮮戦争の原因が作られる。

 東南アジアいまのアセアン地域では、イギリス、フランス、オランダの植民地支配を回復しようとする軍隊に対する独立戦争が勃発する。

 

 そして、台湾では。

 進駐した国民党軍による強権的支配のなかで、民衆の不満が爆発する昭和二十二年二月二十八日を迎える。

 きっかけは、街頭でたばこを売っている婦人を国民党の警官が拳銃で殴ったことであったが、台湾人の不満が爆発した。

 これに対して、蒋介石は殺戮を以て応える。

 以後、蒋介石は、戒厳令を布告して日本時代の指導的地位にあった者や、教師、医師などのインテリ層を中心に「粛正」を進め、総数不明ながら三万人以上の台湾人を殺戮する。

 これを「白色テロ」という。

 台湾の戒厳令は、これから四十年間も続けられることになるが、「白色テロ」はこの間続けられていた。

 そして、このきっかけとなった昭和二十二年二月二十八日の日付けをとって、ここから始まった「白色テロ」を2・28事件と呼んでいる。

 

 さて、では、この2・28事件で国民党に殺された数万の台湾の学生、青年、知識人そして善良な人々は、どこの国の人だったのか。彼らの国籍はどこだったのか。

 結論・・・彼らは日本人だった。

 

 このことを踏まえて、私は二年前に、台湾の高雄で人々と会食して話をした。高雄中学(旧制)の同窓会の皆さんが集まってくれた。すべての人が、「白色テロ」によって複数の肉親を殺されていた。

 「尖閣の漁場は、日本人が開拓した日本の漁場だ。

 そして、その日本人の中に、

 台湾の日本人も含まれていることを、日本人は決して忘れない」

 と私は言った。

 皆、シーンとなって聞いてくれた。

 

 この度、台湾政府から「尖閣に関して中共と共同行動をとらない」という方針が示されたが、日本政府こそ、日本と台湾の歴史的絆を基に、尖閣周辺の漁場を日本人と日本人であった台湾人とで譲り合うという方針を率先して示すべきであったと思う。

 

 台湾の山岳地帯に、数万年前から各部族に分かれて住んでいた人々のことを総称して高砂族という。

 この人々は、今でも日本人だと思っている。

 

 この人々は、日本が大東亜戦争を戦うにあたり、高砂義勇軍としてニューギニア戦線やフィリピン戦線で勇戦奮闘した。

 このとき数万年にわたって部族に分かれていた彼らが初めて日本人として一つになった。

 ニューギニア戦線は、「地獄のビルマ、天国のジャワ、生きて帰れぬニューギニア」といわれた過酷な戦場だった。

 このときの、彼らの戦いぶりに遭遇して、アメリカ軍は彼らが山岳地帯に立てこもる台湾に侵攻するのを諦めたのではないかと私は思っている。

 

 そこで、現在、

 日本と台湾との歴史の絆を回復するために、再び重要な要(かなめ)の存在となるのが高砂族だ。

 昨年私は、二度にわたって台湾の山に高砂族を訪ねた。

 今年百歳になられる元関東軍特務機関員である門脇朝秀さんに同行して訪ねたのだ。

 今年、私は、未だ台湾を訪ねていないが、

 門脇さんは、二月二十七日から、台湾の山に高砂族の頭目を訪ね、今日あたり、日本にいるより「気が休まる」という南の潮州に着かれたころだと思う。

 尖閣に共に上陸した記録担当の稲川和男さんは、潮州には行かず、明日あたり東京に戻るだろう。 

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◎西村真悟  「我が国のかたち、天皇陛下の御臨席」

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 昨日の東日本大震災二周年追悼式についてさらにお伝えしておきたい。

 それは、

 「天皇陛下の御臨席」

 ということである。

 

 ここに、我が国の戦前と戦後の一貫性、太古からの姿がある。

 この一貫性とは、天皇と国民の絆に顕れている。

 そして、この絆は、二年前の被災地に、また、昨日の追悼式に顕れていた。

 

 世界は、二年前の東日本巨大地震と津波のすさまじい被害に驚いたが、さらに驚いたのは被災地の日本人の姿だった。

 この世界が驚く被災地の日本人の姿と「天皇の御臨席」は不可分だった。

 

 日本人は、天皇との絆のもとに秩序を維持する民族である。

 このことは、昨日の追悼式にも顕れていた。

 参列した世界各国の外交官は、日本人以上に明確に感じ取ったはずだ(けがらわしい支那が、参列していなくてよかった)。

 

 天皇は、我が国の苦難の中における最高の危機管理者であり統治者である。それは、

「神聖にして侵すべからざる」存在である(大日本帝国憲法第三条)。

 事実、昨日もそうであった。

 

 追悼式は、天皇皇后両陛下御臨席、次に官房長官の開式の辞そして国歌斉唱と発災同時刻の黙祷で始まった。

 天皇皇后両陛下の御臨席は、午後二時四十分頃。

 

 式に出席する衆参議員は、午後一時三十分に国会正門前に集合してバスに乗り会場に向かった。会場到着は一時四十分頃。総理や閣僚もその頃到着し着席。多くのご遺族や多数の在京各国外交官も着席。

 そして、天皇陛下のご到着まで四十分間、深い静寂のなかで全員が御臨席まで待機していた。

 その間、まことに充実した時間だった。

 この静寂の時間によって被災者の霊と式場が一体化した。

 

 そのうえで、式場は最高の祠祭者であり危機管理者である統治者即ち天皇陛下をお迎えしたのである。

 この式場の秩序と静寂は、かつて「ことある時」に示された日本人の姿と同じ「底」から生み出されている。

 

 その同じ「底」から生み出された姿を、三つ記しておきたい。

 「底」とは、「ことあるとき」に顕れる日本民族の血に根ざす原始無限流動の力だ。

1(二年前の東日本被災地)、

 東日本被災地の学校の屋上に「SOS」を発見し、そこに着陸したアメリカ軍救援ヘリの女性機長の話。

「私はためらいながら着陸した。何故なら、アメリカを含む世界の國では、例外なく被災地に着陸した救援ヘリには被災者が殺到し収拾がつかなくなるからだ。

 しかし、その学校に着陸してみると、一人の老紳士が静かにヘリに近づいてきた。そして、三百人の被災者が居るといった。

 救援物資を渡すというと、整然とバケツリレーでそれを受け取った。物資の奪い合いなど全くなかった。

 暫くすると、彼はもういいと言った。まだあるからとさらに渡そうとすると、彼はきっぱりと断って、他の被災者に渡してあげてくれと言った。

 この日本人の姿は、アメリカ軍の公式記録に記載される」

 

2(昭和十九年、ビルマ戦線)、

 「日本軍の潜入攻撃の大胆さと、最後まで戦う勇敢さは驚嘆すべきものがあった。

 第三十三師団の部隊は、如何に弱められ、疲れ果てても、なおかつ本来の目的達成のために猛攻を繰り返してくる。第三十三師団のこのような行動は、史上その例を見ざるものであった。

・・・この企画を遂行した日本人の最高の勇気と大胆不敵さは、疑う余地なく、日本軍に比肩すべき陸軍は、他の如何なる國にもないであろう・・・」(英印軍第14軍司令官W・スリム中将)

 

3(昭和二十年、フィリピン戦線)、

「戦場であいまみえた仲でなければ、相手の偉大さは分かりません。あなた方日本軍の精強に私たちは驚嘆しています。

 さきにヨーロッパ戦線で日系市民志願兵で編成された第442部隊が樹てた偉大な業績は米軍内の驚異の的になっています。

 私たちはこの戦場で、その実際を身を以て痛感しました。・・・」(フィリピン戦線で日本軍と交戦した米軍師団長が降伏の処理を済ませた第十九師団長尾崎義春中将と参謀長に語った言葉)、以上二編、「日本兵法研究会」、家村和幸主催より。

 

4(昭和二十二年、昭和天皇佐賀県行幸のおり)、

 行幸先の道で、ソビエトに日本共産化を洗脳され日本赤化の為に速く帰国させられたシベリア抑留者が「引き揚げ者」という標識を掲げて集まり天皇の戦争責任を問責しようと待ちかまえていた。

 昭和天皇は、その「引き揚げ者」の前で深々と頭を下げられ、次のように言われた。

「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だっただろうと思うとき、私の胸が痛むだけではなく、このような戦争があったことに対して深く苦しみを共にするものであります。

 皆さんは外国において築きあげたものを全部失ってしまったことであるが、日本という國があるかぎり、再び戦争のない平和な國として新しい方向に進むことを希望しています。

 皆さんと共に、手を携えて新しい道を築きたいと思います」

 

 昭和天皇のこのお言葉に接し、引き揚げ者一団は泣いた。

 そして、その中の一人が、陛下に次のように言った。

「天皇陛下様、ありがとうございました・・・

 天皇陛下様も苦しんでいらっしゃることが今分かりました。

 今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。

 天皇陛下様と一緒に私も頑張ります」(「天皇さまが泣いてござった」しらべ かんが著、教育社より)

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◎西村真悟   「我が国の欠落と「新しい平和」をつくった指導者」

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 昨夜は、大手町のサンケイプラザで開催された「正論の会」で、話をさせていただいた。その概要をお伝えしておきたい。

 

 冒頭に、医学が健康を維持するために「病気」を研究して克服しようとするように、我が国を再興するために「国家の病根」を克服しなければならないとし、そのために、まず、

!)子供達にウソを教えないこと、

!)昭和二十年九月から、GHQ(占領軍最高司令官司令部)が我が国に実施した言論弾圧により日本国民を洗脳するための「検閲リスト」を改めて点検し、今もその検閲が「GHQなき検閲」として生きていることを確認しよう、

と述べた。

 

!)とは、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」を書いたのは日本人ではなく、GHQの外国人であるということ。

 それを義務教育で「日本人が書いた」と教えるのはウソを子供に教えることである。国家の憲法に関しウソを教える国に未来はない。

!)については、NHKや朝日新聞に代表されるマスコミは、今もGHQの検閲事項を守って報道している。彼らが守っているGHQの代表的検閲事項は次の通り。

 日本国憲法をGHQが起草したことの広報を禁ずる

 中国に対する批判を禁ずる

 朝鮮に対する批判を禁ずる

 

 以上を実行しながら、政治は何を具体的な使命として自覚すべきか。

 

 それは、「国民を守る」ということである。

 

 実は、日本は国民を守らない国家に成り下がっている。

 北朝鮮に拉致されて放置されている数百名の日本国民は身を以てそのことを訴えている。

 

 従って、この観点から、二年前の東日本巨大地震への自衛隊の「救出救命作戦」も点検すべきだ。

 人命は、災害から七十二時間以内に助け出さねば守れない。従って、

!)なぜ、災害地に、直ちに習志野空挺団二千人を空挺降下させて人命救助にあたらせなかったのか。

!)気仙沼沖の大島は孤立して地震後二週間以上救援されずに放置され、沖縄のアメリカ海兵隊が強襲揚陸艦によって大島に上陸して救援活動を初めて実施した。それは四月に入ってからだ。

 しかし、自衛隊にも直ちに島に上陸して活動を行う能力があったはずだ。

!)救援基地となった仙台空港の滑走路を直ちに修復して離着陸を可能にしたのは沖縄のアメリカ海兵隊特殊部隊だが、自衛隊の工兵隊にもその能力があったはずだ。

 以上の項目について、

 能力があってもしなかったのか、能力がないからできなかったのか。

 仮に、?は前者で??が後者だとすれば、速やかに自衛隊に??の能力を与えるべきではないか。

 この能力は、たんに災害救助にとどまらず、早急に獲得すべき海洋国家防衛のための不可欠の能力ではないか。

 

 次に、「国民を守る」という国家防衛の基本、すなわち、我が国の防衛ラインはどこか、ということ。

 驚くべきことだが、我が国においては、この「防衛ライン」が間違っている。

 会場の人に聞く。我が国の防衛ラインは、次のうちのどこか。

!)我が国の海岸線

!)海の上

!)大陸側にある敵基地の背後

 会場から、鴨緑江(朝鮮と満州の境を流れる大河)と答える人がいた。これは正しい。

 明治初期、我が国がそれまでの鎮台兵を陸海軍に編成したとき、鴨緑江を防衛ラインに想定したと聞いている。

 

 とはいうものの、海洋国家として、朝鮮半島を含む南北に広がる大陸を望み、我が国の防衛ラインは???のどこか。

 まず、現在の我が国が想定している防衛ラインは?なのだ。

 従って、陸上自衛隊は本土内部で防衛戦争をすることになっている。よって、海を渡り大陸側で戦うことを想定していないので気仙沼沖の大島に救援に行かなかった。

 また、航空自衛隊の飛行機も大陸側で戦って帰還することを想定していない。

 

 しかし、言っておく、

 はじめから国内に戦場を想定して防衛しようとする軍司令官および彼に命令を発する最高指揮官(総理大臣)は、軍法会議で処刑されるであろう。

 なぜなら彼らは、国内を東日本の巨大地震被災地と同様の戦場にするからだ。彼らの任務は国家の防衛であり、まさに国内を戦場にしないことが防衛であるからだ。

 

 我が国の防衛ラインは、?でも?でもない。?だ。

 我が国と同じ海洋国家のイギリスの防衛ラインも?だ。

 スペインの無敵艦隊を打ち破ったキャプテンドレイクは、

 イギリスの防衛ラインは大陸の敵基地の背後だと言った。

 

 海洋国家は、「国土」を戦場にしてはならない。

 国土を戦場にするときは、既に惨憺たる敗北を喫しているときだ。昭和二十年八月の国内の焼け野が原の惨状が、国土を戦場にする状況だ。

 つまり、国土を戦場にすることは「防衛の失敗」で、責任者は軍法会議で処刑されるべき状態である。

 

 しかるに、我が国の政治は、

 国土を戦場にする「防衛」しか想定していない!

 いかなる反国家的、背信的政治であろうか!

 

 従って、我が国が、もしこのまま有事に入るとするならば、

まず第一に為すべきは、国土を戦場にすることを想定している最高指揮官や軍司令官を「除去・駆逐」することが「有事対処」の第一歩とならねばならない。

 そうでなければ、始まる前から負けることになる。そして残るのは、国内における二年前の東日本の被害地の数倍の惨害だ。

 

 中共と北朝鮮の軍備拡張と示威行動を観れば、

心ある、また常識のある政治家なら、

我が国が、真の祖国防衛の戦略を樹立すべき死活的必要性に迫られていると判断するはずだ。

 政府、安倍内閣は、千年に一度の地震による津波を想定してその予想される大被害を国民に発表するのもいいが、

 まず、その発表以上の大惨害を自ら国土に招き寄せることを想定している非常識な「先守防衛思想」から決別するべきではないか。

 

 尖閣の状況に注目すれば、

何故、いつも定期航路のように領海を侵犯されるままなのか。

また、領海侵犯の映像だけが映し出されるのか。

 尖閣の防衛ラインを敵基地の背後とするならば、注目すべきは、領海侵犯を繰り返す船を出航させてくる大陸側の港ではないか。

 我が国は、この敵基地から領海侵犯船が出港することを抑止する圧力をかけてもよいし、そこを重点的に警備すべきである。

 

 また、防衛ラインを大陸側敵基地の背後とするならば、我が国の自衛隊の装備にコペルニクス的転換を実施しなければならない。

 

 まず、全陸上自衛隊を海を渡る陸軍つまり海兵に転換する。

 強襲揚陸艦を整備する。

 航空自衛隊の戦闘機は大陸に行って帰還しなければならないし、爆撃機は渡洋爆撃機つまり戦略爆撃機でなければならない。

 そして、海上自衛隊と航空自衛隊は、南シナ海、東シナ海、日本海そして西太平洋と北太平洋の制海権と制空権を確保しなければならない。

 さらに、敵の核弾頭ミサイル基地は、チベット大陸にもある。

 従って、高精度の長距離、中距離、短距離の各巡航ミサイルをハリネズミのようにいやというほど保有する必要がある。

 そしてこの装備転換を開始すれば、我が経済の総需要がアップしデフレからの脱却もなる。

 

 さて、先の時事通信で「賢明な指導者」と「勇気ある指導者」が各々何をするかを書いた。

 そこで、私の頭に浮かぶ「勇気ある指導者」を次に紹介したい。

 それは、鎌倉幕府執権北条時宗、

そして、関東軍板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐だ。

 

 1268年、蒙古の使者が来航した。強圧的な通商を求める使者である。このとき、十八歳の北条時宗が幕府執権となる。

 そして、時宗は、蒙古との確執必至と判断し、瀬戸内海の水軍と北九州の御家人に動員令を下す。

 その後、時宗は、蒙古からの使者を敢然と斬殺する。

 1274年、蒙古軍四万(内、戦闘員二万五千)来襲。水際で迎撃する日本軍一万。

 はじめに来襲してきた対馬では、六十八歳の地頭宗助国が八十旗を率いて古茂田浜に上陸した雲霞のような蒙古軍に突撃し玉砕する。

 その報が狼煙で太宰府から鎌倉に伝わり執権時宗の基に「いざ鎌倉」と日本が一丸となる。

 迎撃は徹底的な水際で行われ、蒙古軍は騎馬を使えず、また日本の弓の強度と射程距離が蒙古を上回っていたので、蒙古軍は二万千の損害を被って壊滅する。

 1281年、蒙古の東路軍四万と江南軍十六万の合計二十万が襲来してきた。

 迎撃の日本軍三万が勇戦奮闘して、蒙古勢の上陸をなかなか許さない中を台風が蒙古の船を襲い、蒙古軍は十万五千の損害を被り壊滅し敗走する。

 この元寇という国難に勝利できた由縁は、十八歳の執権北条時宗が瓶のような肝っ玉を持ち、蒙古の使者が来た時点で「戦争を決断」したことである。

 そのとき彼が動員令を発せず、「平和を長く維持」しようと蒙古との対話に努力しておれば、鎌倉幕府のとき我が国は滅ぼされていたであろう。

 

 次に、その蒙古の故地の二十世紀初頭の満州。

 清朝が滅びた後、支那大陸は蒋介石の北伐によって内戦状態になったが、ソビエトのスターリンに指導されたコミンテルンは、「暴力と無秩序」の中から共産主義革命を成功させる戦略にしたがい、中央政府の統治が及ばない満州において、朝鮮半島出身者を含む日本人襲撃殺戮と南満州鉄道へのテロを繰り返した。破壊された満鉄の車両は三千両に達する。

 コミンテルンは、昭和二年、反共姿勢を示す満州の軍閥張作霖を爆殺したが、その子張学良は、父親の三十万の軍隊を率いて反日行動を繰り返した。それに加えて総数不明のロシア人、支那人そして朝鮮人からなる共産パルチザンが日本人と満鉄襲撃を繰り返した。

 これに対して、満州の治安を守る関東軍は一万人しかいない。

 従って、張学良の三十万の軍隊と共産パルチザンの組織的な統制のとれた日本人一斉攻撃が為されれば、関東軍は包囲殲滅され数十万の日本人は虐殺される危機に直面していた。

 人数の多い方が先手を取れば、我が方の敗北は必至であった。

 そこで、関東軍の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐は、先手を取って、昭和六年九月十七日に南満州鉄道を爆破して一挙に奉天の軍閥拠点を制圧し、以後、翌年三月までに全満州を平定して満州国を建設した。

 

 世界が驚くべき軍事的手腕である。

 現在の超大国アメリカがイラクで難渋した例を見れば、板垣大佐と石原中佐の手腕がいかなるものかがわかる。

 

 その結果、満州に初めて秩序と繁栄がもたらされ満州は昭和二十年までに豊かな大地に変貌することになる。

 この満州の豊かさを一番享受したのが支那人である。

 満州事変後に、彼らは百万単位で国共内戦の南から万里の長城を越えて満州に移住してきた。

 もし、板垣大佐や石原中佐が、少人数故に無理をせず、膨大な兵員を要する満州の軍閥やパルチザンと共存の道を模索していたら、満州の日本人や善良な住民は殲滅されていたであろう。

 彼らが「戦争を決断」したから満州の平和がつくられたのだ。

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◎西村真悟  北方領土に関する日露連携の世論誘導工作と「正論」

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 北方領土に関する、とんでもない世論誘導が行われているのを感じる。

 その誘導のために、まず、我が国の北方領土を、「北方四島」と呼ぶことを常態化させる。

 その上で、四=二+二、だから、

北方四島の日露の「引き分け」は、二と二の折半になるとくる。

 

 では、具体的に「引き分け」で我が国が確保する二島とは何か。それは、歯舞と色丹だ。

 昨年と一昨年、ロシア大統領メドベージェフは、我が国の国後に不法上陸してきて国後・択捉の開発を指令している。

 そして、現大統領のプーチンは、この前大統領の行動を前提にして「引き分け」と言っているのだから、「引き分け」でロシアが取るのは国後と択捉で、日本が取る二島は、当然、歯舞と色丹となる。

 また注意すべきは、この「引き分け」は、日本国内にある「二島返還論」に呼応したものである。

 

 しかしながら、このロシアの「引き分け」と日本の「二島返還論」は、例えば等しい大きさの四つの碁石を、二と二に二等分するように見せかけて、これが「引き分け」、「折半」だと錯覚させようとしているに過ぎない。そのために「北方四島」という呼び方を利用しているのだ。

 つまり、トリックである。

 従って、引き分けや二島返還と結びついた北方四島の呼称が要注意なのだ。

 

 しかし、国後、択捉、歯舞群島そして色丹は、決して四島ではない。歯舞群島は、水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島と多楽島からなる。

 しかもその面積は、

国後は、1490平方キロメートル

択捉は、3180平方キロメートル

色丹は、255平方キロメートル

歯舞群島は、100平方キロメートル

 ちなみに、沖縄本島の面積は、1208平方キロメートルだ。

 従って、「引き分け」と「二島返還論」は、

国後と択捉という沖縄本島を四つ合わせた面積の日本の国土をロシアが獲得し、

歯舞群島と色丹という沖縄本島の四分の一の面積の国土を我が国が返還を受けるということになる。

 領土の喪失、実に甚だしいものがあるではないか。

 

 しかしながら、日本国内の二等返還論者も、引き分け論のプーチンも、このことを承知の上で、トリックの「譲歩案」としてこの論を提唱している。

 しかも本年に入り、急速に北方領土の内の大半は、ロシアに差し上げること致し方ないとの風潮が表面にでてきて、プーチンの「引き分け」に打てば響くように呼応して二島返還論者が勢いづいてきた。

 柔道を愛する親日家のプーチンが「引き分け」と言ったではないか、今がチャンスだ、このチャンスを逃してはならない、と言う訳だ。

 総理大臣の特使とやらの御仁の、国後と択捉の間の線引き論も、この風潮に乗って思いついたか、誰かに耳打ちされたものだ。へぼ将棋ではあるまいに。

 この御仁の線引きは、択捉をロシアに渡せと言っているのだが、残りの三島の面積の合計は、択捉一島の約半分にすぎない。

 

 しかしながら、国土、領土とは、我々の体の一部ではないか。

 これでいいのか。

 

 仮に、二島返還つまり引き分けに我が国が乗ると言って日露会談が始まったとしよう。

 この会談が始まった時点で、ロシアは完全に国後と択捉を掌中に入れている。我が国は後戻りできない。

 それで、我が国は、歯舞群島と色丹を取り戻せるのか。

 これが問題だ・・・実は、その保証はない。

 我が国が歯舞と色丹に手を伸ばそうとすると、ロシアは、ちょっと待てと、ここから交渉をはじめる。そして、決して歯舞と色丹を我が国に渡さない。

 ロシアは、再び、この線から我が国に、さらに引き分け、折半を要求してくる。引き分けに乗った者にさらに引き分けを要求して、結局我が国の取り分を四分の一にする。

 これがロシア式の交渉だ。

 確実にそうなる。

 だから、今、ロシアの提案に飛びついてはならない。

 プーチンも、問題、いや、恐怖を抱えているから「引き分け」を言って我が国に秋波を送っているのだ。ロシアの大統領、プーチンの足下を観るべきだ。

 

 先日、久しぶりにビートたけしさんの「テレビ・タックル」に出演した。

 北方領土の問題が話題になった。

 そこで、番組に、歯舞か色丹の元住民の高齢の方が出演されて、二島返還を提唱している出演者に、よろしく頼むと言われた。

 それを受けて、出演者は、涙ながらに、元住民の方がお元気なうちに郷里の島が返還されねばならないと焦燥感に駆られるがごとく決意を述べた。

 そのときの関心は、完全にこの高齢の方の故郷である歯舞と色丹の「引き分け」による返還に絞られていた。

 しかし、高齢になった住民が生きている内に郷里に帰らねばならないならば、百万人の県民がいる沖縄本島の四倍の面積を持つ国後と択捉にこそ、多くの元住民がおられるのだ。

 この国後と択捉の元住民のことはどうなるのだろうか。

 

 私は番組で、次の通り言った(放映されなかった部分も含む)。

 我が国は歴史的には、全樺太と全千島の返還をロシアに要求すべきだ。

 まず、ロシアの前で、正々堂々と歴史の事実を振りかざして、我が国の北方領土とは、全樺太と全千島だと主張すべきだ。

 その上で、交渉をはじめる。

 決して、プーチンの引き分けに乗ってはならない。

 そして、ロシアがシベリア開発に成功するかどうかに国家の存亡がかかっているならば、ロシアに対して、我が国に北方領土を返せ、そうすれば我が国はシベリア開発に協力する、と宣言するべきである。

 シベリアと沿海州には、続々と支那人が入り込んでいる。

もうすぐ、ロシア人の数よりも支那人の数のほうが多くなり、我が国の協力がなければ、極東ロシアは支那に飲み込まれる。

 

 この発言中に驚いたのは、私が、シベリアの人口はいずれ支那人のほうが多くなる、既に大量の支那人が入り込んでいる、と言ったとき、二島返還論者も自民党から出席した議員も、口をそろえて「ウソだ、そんなことはない」と私の発言を野次り、否定したことだ。

 そのとき私は、彼ら対ロシア宥和論者は、何かを国民の目から隠そうとしていると感じた。

 

 事実は、広大なロシアのシベリアには、ロシア人は六百万人しかいない。そして既に二百万人の支那人が入り込んでいる。沿海州もしかりだ。

 ロシア大統領には、うかうかすると極東ロシアは、イナゴのように押し寄せてくる支那に飲み込まれるという恐怖感があるはずだ。

 我が国は、ここを突いて北方領土の返還をロシアに迫るべきである。海の上の小さな強奪した島に固執して、広大な資源の豊富な全シベリア、全極東ロシアを失うのか、と。

 

 以上で私の論は終わるが、どうか続いて、専門家のしっかりした基礎の確かな論考を読んでいただきたい。

 それは昨日三月二十六日の産経新聞朝刊に掲載された

北海道大学名誉教授、木村 汎先生の正真正銘の「正論」である。

 その結語を次に転載させていただいて本稿を終える。

 

「日本とロシアも先例に倣って『土地と発展』の交換を図るべきであろう。

 つまり、日本は北方四島を得るのと引き換えに、ロシア極東の発展に協力する。

 事態がこのままで推移するならば、ロシア極東は早晩、中国に飲み込まれ、事実上勢力圏に入ること必定だろう。

 もしそれを阻止し得るとすれば、ロシア極東の1250分の1でしかない北方四島の返還などお釣りが来る取引になる。

 以上は、ロシア側が決断すべきことかもしれない。

 ただ、日本人が認識すべきは、ロシアの方こそが今後、日本を必要とし、その逆ではないということである。」

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この記事へのコメント

私は「ねずさんのひとりごと」というブログからこういう情報を多く勉強させてもらっています。
中には読むにたえない記事も少なからずありますが、そこで怒りの感情は棚に上げながら歴史的事実に光を当てるような気持ちで淡々と読み進むようにしています。
二二八事件もそうですが、通州事件の記事などは読み進むのが辛くてたまらず何度読むのをやめようと思った事でしょう。
その時に伊勢白山道ブログ読者であるまるぞうさんの「おひさまありがとうございます」ブログにまとめられたカテゴリー内の「日本とアジアの歴史」記事全般とコメント欄は大変勉強になると同時に、冷静に厳粛な気持ちで読み進むことができ大変感謝しています。
今、尼に向かう電車内で読んでいるのは石平さんの「私はなぜ中国を捨てたのか」です。アマゾンで1円で買いました。最近は10円とか50円の本ばかり古本で買ってます。ただ送料は250円かかります。

Posted by チズ at 2013年03月24日 05:48 | 返信

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