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私の悩み

2013年06月19日(水)

「平穏死という親孝行」を読まれたという見ず知らずの読者の方から、連日メールが届く。
返事のメールを差し上げたが、その後も、私の本の批判や私の行動への忠告が続いている。
アマゾンの書評やブログのコメント欄などにも書きこみが続いていて、密かに、悩んでいる。
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大変失礼ながらも、HPから舞い込んできたメールを
個人情報や日付けを消して、そのままアップさせていただく。
ただし下線や太字は原文のままです。


実は、このような人のために本を書いたのだが・・・


このような人に、どう対応したらいいのだろうか?

このような人には、何を答えても無駄なようだ。
本に書いた内容が、この見知らぬ人への答えなのだが。

今回、このブログを読んで頂いている皆さんの御意見を
聞きたいと思い、今日は私の悩みを相談させてください。

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長尾 和宏先生

 

 初めてお話させていただきます。

 

 この○月○日に86歳の父を肝臓癌による「癌性悪液質」で亡くしました。

 

 その直後に新聞広告でこのご本のことを知りまして、大変興味深く読ませていただきました。

 

 しかし、失礼ではありますが「穏やかに静かに看取る」ということは、父の看取りを経験した限り、お話のように簡単な話ではないことを痛感させられました。先生のご見解には、いささか疑問を感じざるを得ません。

 私の父の場合、純然たる病死であったことも大きな要因だったのかも知れません。しかし「癌性悪液質」はそもそも衰弱を招くものです。仰せのように積極的な治療はしませんでしたが、苦しまず、また、静かに旅立ってもらうことはできませんでした。

 

 お忙しい中恐縮ですが、ご辛抱の上、ご一読をお願いします。

 


 患者氏名 ○○○○ 大正○年○月○日生(男)

 

【既往歴】

 

 現役時代は病気は一切せず、「お父さんが風邪を引いて寝込んだ」という記憶はないです。69歳時に前立腺肥大の手術を受ける際に「手の震え」を訴えたところ、パーキンソン病の診断を受けて、それ以来、服薬治療を受けていました。

 

 それから約10年後の78歳時(平成○年○月)に、それまで2回起こしていた精神症状(今回は夜間せん妄)が発症して、何故か今回はそれを機に半昏睡状態になってしまいました。しばらく通常の病院に入院して胃ろうも造設しましたが、主治医の神経内科医によれば「この半昏睡状態が回復することはもうあり得ない」とのことで、介護療養型医療施設に廻されました。胃ろうによる栄養補給で意識回復を待ちましたが、しばらくして逆流を起こし点滴のみの栄養補給になり、栄養失調で抵抗力が下がったからか、同年○月に肺炎で死亡寸前の状態になってしまいました。

 

 危篤と言われましたが、○月に意識障害になった時点から何が何だか分からない状況でしたので、選択肢の一つとして示された急性期病院への救急搬送を迷わずお願いしました。その急性期病院で出会った医師が「大当たり」しました。栄養失調でズタズタになった身体状況とともに、意識障害をも回復させて元気にしてくれました。

 平成○年の夏のことでしたが、大変失礼でありますが、もし、このときに先生の本を読んでいたら、父に取り返しのつかないことをしてしまっていたでしょう。この本が出るのがこの時より遅くて良かったです。

 

 その後ですが、半年間ただ寝かされていたので意識を取り戻して「今まで一体何をしていたのか」と気がついた時には、足の筋肉がなくなり膝がカチンカチンに硬直して立位・歩行が全くできなくなっていました。リハビリの効果で、移乗や経口摂取が可能になったとはいえ、依然車イスの生活であり、尿の管は抜くことができませんでした。とは言え、認知症とは全く無縁の父でしたので、その後は、趣味のパソコンや物いじりなど好きなことをしながら、順調な生活が続いていました。その1.2年後に前立腺癌が見つかりましたが、これもホルモン注射や服薬でPSAは抑えられ、やはり順調な生活が続きました。

 父の性格ですが、人間、人様の世話になると丸くなるもので随分素直になりました。また、私も父の気の毒な姿に胸を痛め、しかし一生懸命リハビリに取り組む姿を見て、仕事で関わっていた他の高齢者さんより、はるかに前向きであることに気がついて、自身の父親像が変わりました。また、それまでは、ろくに口もきかない親子でしたが、通院や入浴の介助を通じて、その絆が強まったようでした。

 介護を通して死ぬ前の7年間を振り帰ったとき、大変な公金のお世話になってしまったという肩身の狭さがあるも、申し上げた通り「心の面」において、延命して本当に正解であったと思いました。繰り返しになりますが、この時点で先生のご本がなくて本当に良かったです。

 

 そんな順調な介護生活でしたが、約7年経過した昨年(平成○年)○月頃から、残念ながら肺炎その他で入退院を繰り返すようになり、今までの順調な介護生活が狂い始めました。一度抜いた胃ろうも再度装着しました。

  そして、平成○年○月に入院した際の全身検査にて、今回の死因の「肝臓癌」が見つかりました。おそらく前立腺癌よりの転移だろうとのことでした。対応ですが、86歳という年齢を考え「本人には告知せずに何もしない選択肢」を選びました。繰り返しますが、昨年秋のことでした。

 

 これと同じ時期に、以前より決まっていた「転居」により、今までのかかりつけ病院は離れました。転居先ではそれまでと同じく「総合病院」に通院することも考えましたが、もはや「旅立ち」の段階に来ていたので、往診医を依頼することにしました。依頼に際して、依頼した往診医曰く「自宅では検査機器も何もないので大したことはできない」と説明されましたが、繰り返しますが「旅立ち」の段階に来ていましたので、苦痛に対する対処は可能ということが確認できたので、迷いなくこの往診医にお願いすることにしました。

 

 しかし終わってみれば、穏やかで静かな最期を迎えることはできませんでした。事態を知らされていない本人は何だか判らないが倦怠感で何もできず、家族は病状の進行状況がつかめずバタバタ振り回されるだけでした。以下、3つに分野を分けて遭遇したトラブルを具体的にご紹介しましょう。平穏とは程遠い騒動の繰り返しでした。

 

 以下も、ご辛抱の上、ご一読をお願いします。

 

【旅立ちへのサイン】

 

 いつ、どのようにして最期を迎えるのかを正確に予測をするのは困難なことです。しかし、病気で最期を迎えるには、予想されるプロセスやサインがあると思います。今回の場合、これらがはっきりしませんでした。これらが分からない状況の中で、あてのない介護をするのは家族としては辛いものがありました。また、何よりも本人に負担がかかりました。

 このサインに関しては、肝臓癌が見つかって以降、複数の医師がそれぞれの見解を表明していました。まず、転居前に最初に肝臓癌を発見した医師は、やたらに「黄疸」を強調しました。加えて、この時点では肝臓癌で命を失う確率よりも、むしろ誤嚥性の肺炎など他の身体上のトラブルのがはるかにリスクが高いことを強調されました。対して、転居後に依頼した往診医は、「激痛」と「腹水」をやたらに強調しました。

 しかし、実際にはこれらの症状は、腹水以外、認められませんでした。その腹水も利尿剤の服薬をしながら往診医の指示通りウエストサイズを毎日測定しましたが、服薬前のサイズよりも小さいサイズが死亡前日まで維持されていました。

 加えて、後述しますが、本年○月○日に胃ろうのトラブルで受診した際の外科医は「もう何日も生きることはできない。このままこの病院で看取ってもよい」などと、いい加減なことを言ってくれました。実際に死亡したのは70日後の○月○日でした。

 

 ところで、死亡診断書で初めて知った「癌性悪液質」についてですが、往診医はこれを予測することはできなかったのでしょうか?死亡後にいろいろ調べましたが「癌性悪液質」とは、癌に栄養や筋肉を吸い取られて全身状態が悪化・衰弱する状況とのことです。家族にしてみれば、前述の症状が出ないので、シャワー浴をさせたり車いす移乗を勧めたりと、本人に負担をかけてしましました。

 言い訳をするならば、医師の言った黄疸、激痛、そして腹水が見受けられないので「まだ大丈夫だろう」という判断でしたが、今から思えば、とにかくだるそうにしてグッタリしている感じでしたが、この「癌性悪液質」という状態で、何もしないで放置すると「平穏」に旅立つことができるのですか?

 

  また、先生のご本では、「脱水の際に点滴をするとかえって苦しめる」とのことでしたが、父の場合、死亡の相当直前まで「氷や果物」を欲していました。誤嚥するので止めるように言いましたが、本人が怒り出すので母がつい口に入れてしまっていました。すると必ずと言っていいほどむせ込みが始まり「だから言わんこっちゃない」で親子げんかを繰り返していました。このような「飲みたい、食べたい」という状態の父に、仰せのように、脱水状態なのに点滴せず、栄養補給せずに飢餓状態になると、ハッピーになるのですか?

 

 

【胃ろうにかかる騒動】

 

 前述しましたが、死亡70日前の○月○日に、バンパー式の胃ろうの留め具が、腹水で膨らんだ腹に食い込んで痛いために通院しました。通院した病院は、○月の転居後に入院歴がありそのときに胃ろうを交換・装着した総合病院です。外科医が診察しましたが「腹水で腹が膨らんだので留め具が腹に食い込んで痛い」という主訴で通院したにもかかわらず、なぜかCT検査。担当したこの若い外科医、どうも自身が行った胃ろう交換の手技にクレームがついたと思ったようです。CT画像を前に胃ろうの装着に何ら問題がないことを力説されました。そしてその後はCT画像に映った腹部に目が向きます。「腹水、胸水が溜まっており、肝臓癌が直径10センチくらいになっている。もはや、何日も生きられる状況ではない。このままこの病院で看取っても良い」とのことでした。

 しかし、もともと自宅で看取るために息子の私は仕事を中断してそれに備えていたので「それなら自宅で看取る」とすぐに連れて帰りました。終わってみれば、前述のごとく死亡までまだ70日という日数がありました。認知症とは無縁の頭脳クリアな父が、告知されていない状況で70日も病院にいたら、亡くなる前に頭がおかしくなっていたことでしょう。連れて帰って良かったです。

 ところで、腹に食い込んで痛くて仕方がないバンパー式胃ろうの件は、この通院時に医師に無視されたのか?忘れられたのか? 家族も帰宅して気がつきましたが、何も話さず終わっていました。結局バルーン式に交換するために再度通院する負担を強いられました。

 これらの無駄な動きや負担があって「平穏」に旅立つことができますか?

 

 死亡1か月前くらいより、胃ろうの差し込み部より「異常な漏れ」が始まりました。そのままにしているとパジャマがびしょびしょになってしまい、身体がだるい中、着替えが大変でした。もちろん往診医に写真撮影をして相談しましたが、首をかしげるのみ。管が腹の外側に向けて斜めに差し込まれている点や、挿入箇所が中央部でなく少し右(肝臓側)に寄っていることを評論家調に語るのみで、総合病院への通院を勧めるわけでもなければ、他の具体的な解決策を示すわけでもありませんでした。

 この往診医、「最初に胃ろうを造設した病院に聞かないと原因がわからない」と言うのですが、その病院名はきちんとお知らせしていました。自ら電話をして聞けばよいのに、何故かそれはせず。「もはや胃ろうのレベルではない」と言いIVHと勧めてきました。しかし、後にも述べますが、この医者「これこれこういう訳でIVHにした方がいいよ」という言い方はしません(というより「できません」)。患者・家族としては、この場に至って「もはや胃ろうのレベルではない」と言われても、当初より「病状が悪化してくると漏れが始まり胃ろうが使えなくなる」という説明は受けておらず、漏れの原因がわからないからその場しのぎで「もはや胃ろうのレベルではない」と言っているのだろうと不審を募らせます。

 

 結局、先ほどの転居後の総合病院に相談したところ、転居前の病院に問い合わせてくれました。しかし個人情報などの細々した事務処理に途方もない時間がかかり、結局、返事が戻ったのは死亡翌日でした。また、その返事の内容は「平成○年に造設した跡があり、そこより少し下にずらした」というトンチンカンなものでした。

 

 死亡前日に救急搬送された際のCT画像では、肝臓癌が大きくなりその影響で「肝臓そのもの」が腹全面に拡がり、胃袋を端へ押しやってしまい、その結果、管が外側に向けて斜めに差し込まれた状態になっていたようです。そしてそれが漏れの原因にもなっていたようです。

 往診医が評論家調に語った状況の原因が、この場に至ってようやく分かりました。もし、総合病院に定期的に通院してこれらの状況を把握していれば、この往診医も適切な説明や対処ができたように思います。これでも、往診医のみで、楽に看取ることができますか?

 

 これら、胃ろうにまつわる騒動をご覧になって、いかがでしょうか?このような話をすると「胃ろうなど止めて放置すれば楽に死ねる」と言われそうですが、本人は前段の【旅立ちのサイン】の最後の方で述べたように、「氷や果物を欲していた状況」を思い出していただいた上で、ご見解をお願いします。

 

 

 

【訪問看護にかかる騒動】

 

 前述のごとく、○年○月に転居した後、新天地における看取りに備えて、話に出ている往診医に往診診療を依頼しました。この往診医は、先ほど来話題に上がっている往診医ですが、他にも騒動の発端を作っています。それは、訪問看護に対する異常な執着でした。

 

 当初、この往診医より「訪問看護」の導入を強く勧めまられました。訪問看護サービスは転居前においても利用していたので、その時点では逆らわず導入に応じました。しかし、実際にケアを開始してみると、この新しい訪問看護師の諸君、言葉は丁寧でも、何となく我々家族の日常のケアの仕方をチェックするような尋問調のセリフが散見されたり、或いは、分かり切ったことを口数多く指導調子でお話されるなど、家族にしてみれば、大変ストレスになるものでした。また、実際に行うケアは、身体状況のチェックやじょくそうの処置などで、我々家族が毎日行っているものと同じ内容でした。

 参考までにですが、家族の一人である私の母、つまり本人の妻は、高齢とはいえ通常の生活が可能な元看護師であり、外来であれば今でも現役復帰が可能なのでは?と言っているくらいです。そして、独身の息子である私は、福祉・介護関係の仕事が長く、前述のごとく、父の看取りに備えて○年○月より介護休業を取得し、介護休業期限切れの後は退職して全面的にサポートできる状態でした。

 このような状況でしたので、往診医に対しては(訪問看護師のことを悪くは言わず)、現在行っているケアの内容が家族の行っているものと同じであることと、本人、家族とも社交ベタで来訪者の訪問がストレスになることなどを理由に利用休止を打診しました。

 その結果、この往診医は予想通り難色をしましましたが、その理由を追求するとすぐには言葉が出てきません。しばらくしてひねり出した理由が「緊急時に自身が対応できないときのためにつないでおく」というものでした。しかし、緊急時には、通院するなり救急搬送するのが常道ですから、その旨を申し上げたところ、納得していないのは表情でわかりましたが、言葉を返すことができずに一応は了解した形になりました。また、「つないで」おかなくても、点滴などの医療行為が必要な場合は、その都度利用できるものであるのは周知の通りです。この往診医がご存知だったかどうかは分かりませんが・・・。

 

 ○月いっぱいで訪問看護の利用を休止しましたが、その後それによる問題は一切なく、調子の良いときには起きてパソコンに向かうこともありました。しかし、病魔は病気を進行させることを忘れていませんでした。

 死亡5日前の○月○日の午後になって、紙おむつの吸水量をはるかに超えた水同様の下痢が始まりました。あわてて往診医に電話相談しましたが、ここで、この往診医が奇異な言動を見せます。「脱水を起こしているので、本来であれば訪問看護を入れて点滴をするものだが、訪問看護は断ってしまったのでそれはできない」というものでした。返す言葉がないのでそのまま電話を切りました。診察もしないで「脱水」と断定形で言っていましたが、死亡前日に総合病院にかつぎこまれた際には、確かにこの往診医が言ったようにひどい脱水を指摘されました。

 さて、この状態で先生が言われるように点滴を見合わせることが果たしてどうなのでしょうか?前述の往診医よりは「訪問看護に頼めない」という理由で放置された形になりましたが、実際に放置された本人の様子は、かなりバテていたようで眉間のしわも鮮明でした。もちろん胃ろうよりOS-1を投入するなど、家族としてもできる限りのことをしましたが、入れた水がそのまま色をつけてお尻から出ているような状況でした。

 また、死亡前日に病院に搬送したのは、「ハアハア」という呼吸苦で「肺炎」を疑ったためでしたが、胸部エックス線撮影では肺炎はありませんでした。我々が感冒性の胃腸炎などを起こした際に、脱水で苦しい際に「ハアハア」と声を出して呼吸しますが、父の場合も同じだったのではないでしょうか?

 繰り返しますが、この状態で放置して、楽になって「平穏」に旅立つことができるのですか?

 

 

 ところで、この往診医に「脱水を起こしているので点滴が必要だが、訪問看護は断ってしまったので、それはできない」と言われて放置された件ですが、死亡後に落ち着いたところで、保健所に通報しました。結果、疑義を受け入れて、当該往診医にお声掛けをして下さっています。医師会にもアピールしましたが、医師会会長も、やはり「この往診医が訪問看護の利用方法を間違えていること(一度断ったから利用できないと決めつけて脱水状態を放置したこと)」を明確に認めて、同じことが繰り返さないように周知徹底することをお約束下さいました。

 一度断っても必要なときにまた指示書を発行すれば容易に訪問看護に点滴をお願いすることができたはずですが、この往診医は本当にご存知なかったのでしょうか?それとも、理屈を超えたところで執着していた訪問看護について、言わば理屈で負かされる形で打ち切られたことよる復讐心により、意識的に放置して苦しめたとしたら、これは、はっきり言って医師の資格ゼロであるどころか、完全な精神障害者です。

 

 この往診医ですが、何度か申し上げましたが「何らかのコミュニケーション障害も持っているのでは?」と心配しています。最初の訪問看護導入時も、子供が欲しいものを要求するときの「お菓子、お菓子」と言う言い方で、「訪問看護は」「訪問看護は」というのみでした。あとで、その意義・目的を問いただした際にも「これこれこういう訳でその導入が必要なのだ」という話し方ではできません。「こいつら何でこんな当たり前のことが分からないのかな?」という感じで、言葉なく、視線をそらして首をかしげ、不満を表出した薄ら笑いを浮かべるのみでした。そういえば「訪問看護、週何回入っているの?」というお尋ねに「1回です」と答えた際も、同様に視線をそらし首をかしげ、不満を表出した薄ら笑いを浮かべていました。「これこれこう言う訳で、週2回(とか週3回とか)入れた方が良いですね」という言い方はできないのです。

 この人物、「よく医師になれたな」と思いつつも、この医師の脳構造を把握しているのは、もはや神のみなのでしょうか?

 

 

 話は戻りますが、このような「必要性がはっきりしない」訪問看護を導入することや、「上から目線」の訪問看護師諸君の無礼に対して、我慢して耐え忍ぶことで、「平穏」に旅立つことができるのですか?

 

 


 

 以上、長々とお話しましたが、さて、これでも、往診医のみで、訪問看護や介護保険を利用することで、やすらかで穏やかな最期を迎えることができますか?

 

 在宅療養であったとしても、やはり検査機器が整った総合病院できちんと検査を受けながら、病状やその他の状況を把握する必要は感じられないですか?

 

 私が大好きだった元総理大臣の小泉純一郎さんが、こんなことを言っていました。

 

 「体中にパイプを突っ込まれて生かされるのではなく、何もせず、放っておかれれば、楽に死んでいけるんじゃないのかなぁ」

 

 確かに素人さんが言うセリフとしては素敵で分かりやすいものですが、はたして、医師のあなたがこのようなことを言って良いのでしょうか?

 

 放置されることで、「絶対に苦しまずに死んでいけること」を、根拠を持って断言することができますか?

 

 そうではなく、大切なのは「ケースバイケース」なのではないですか?

 

 密の濃い議論を期待申し上げます。

 

 よろしくお願い申し上げます。


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○○

 

長尾です。メール、拝読しました。

 

仰せのように、根拠を持って断言することは、到底できず

まさにケースバイケースであると思っています。

 

医療は患者さんと医師の信頼関係に基づく協働作業です。

従っていろんなケースがあると思います。

またいかなるケースにおいても緩和医療が大切です。

 

大変貴重なご意見、ありがとうございました。

今後の参考にさせていただきます。

 

長尾和宏拝



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長尾先生

 

 仰せのように「到底できず」とか、「ケースバイケース」であれば、ご本のでおっしゃっていることはあくまでも一般論であり、例外があることを目につくような場所や表現で強調すべきではないですか?

 

 批判されている延命治療は「それが、無駄であったか?」それとも、「有益であったのか?」かは、私の父の平成○年の意識障害のときのことを考えれば、終わってみなければわからないことです。あなたがご本でおっしゃっていることが、生きられる命を経つ恐れがあることをよくご自覚ください。

 人の命は大変重い物であり、また一人一人がそれぞれのものです。私は、ご本を一字一句に注視して読んではいませんが、首尾一貫「何もしないで放置すれば楽に死んでいける」としか受け取れない内容であり、一般人相手の医師の啓発としてはあまりにも無責任なものに感じますがいかがですか?

 

 父が亡くなる際、ベッドの横にいて、「徐々に呼吸の回数が減っていき、やがてゼロになり、しばらくしてモニターの心臓音が途絶える」という過程を体験しました。そしてその後どんどん冷たくなっていく父の体を触りながら、たまらない気持になりました。当初延命を断っておきながら、「今からでも遅くはない。何とかしようか?」という医師の声を期待してしまいましたが、これが家族の本音なのではないでしょうか?

 

 ご本の半カバーにある宣伝文句に「後悔しない親の幸せな看取り方」などとありますが、そもそも、家族の死を素直に受け入れられる人などいないのです。だからその「死に方」について「後悔」とか「満足」などという話は存在しないものなのです。先生は傍観者だから、そういう「理屈」を言うことができるのです。いかがですか?

 なお、その半カバーのお写真ですが、これはいかがなものかと思います。まるで人の死を喜んでいるみたいです。

 

 言わんとしていることは、はっきり言って誰でも分かることです。つまりは小泉純一郎さんが元気なときに家族の気持ちも何も考えないで軽い気持ちで発した言葉とかわらないレベルのものです。

 しかし、理屈を超えた心の世界、つまりは「一般人が、現実に死の直前に遭遇した場合にどんな気持ちになるか」とか、「その場に遭遇しないと絶対にわからない人の気持ち」などへの切り込みがあって、初めて700人の看取りを経験した医師の話として意味のあるものになるのではないでしょうか?

 「人はいつかは死ぬもの」という理屈を知らない人はいません。しかし、それを心で受け入れることができないのが人なのです。その「人の心」に対して、どのように接していくかを熟慮するのが、看取りの専門医の役割ではないでしょうか?


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これに対しては、もはやお返事する気になりません。

しかし、また翌日、メールが届きます。


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長尾 和宏先生

 

 著書「平穏死という親孝行」をきっかけに、先生やクリニックのHPなどを見ていますが・・・。

 

 ○月○日から約1カ月の間に、11回の講演が予定されていますね。近隣だけかと思えば、東京、千葉、神奈川とかなり遠方にまで行かれるようです。

 

 いずれはテレビ出演もご希望なのでしょうか?

 

 これだけご自身のクリニックを空けていて、落ち着いた診療行為ができるのですか?

 

 

 何日か前にメールにて自身の父の看取りの事例をご紹介しましたが、これだけ忙しければ、ろくに読んではおられないでしょう。

 

 おそらくは部下を使って、ベルトコンベヤーの機械に接するように「看取り」や「人の話」をさばいておられるのでしょう。

 

 

 人の命は厳粛に扱われなければならないものです。

 

 私の父の往診医の選任においては、貧乏くじろ引いてしまいましたが、では、長尾先生の患者さんが大当たりなのかと言えば、はたしていかがなものか?

 

 

 白い巨塔の財前教授とかなり異質ではあるも、野心という伝染病に感染しているご自身に気が付かれるべきです。

 

 今後の先生の言動に注視していきたいと思います。死を前にしている患者さんやそのご家族が、あなたの野心を満たすための道具にされないように。

 

 講演や執筆を控えて、落ち着いて医師としての本業に戻られるようにお声掛けさせていただきます。



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もはや返事を書く意味がないと感じました。

全国の医師に在宅医のモラルを説くことも止めろ、との忠告を受けた。


しかしまだまだ、メールが届く。


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長尾 和宏先生

  

 何度も申し上げますが、最初のメールで長々と申し上げたことは、死への支援というものは、父の看取りを通して、ご本でおっしゃっているような簡単な話ではないということです。ご本を読んだ一般の方がご本に書いてあることを鵜呑みにする危険があり、その結果、トラブルが起こる可能性があるということです。往診の医師のレベルも担保されていない中、父の事例を参考に「多くの例外が存在すること」にお気付きいただいて、一般の方々へのご指導をお願いできればと思います。

 

 2回目のメールで申し上げたことは、「理屈」と「心」は違うものということです。そしてその「心」も平静時と、実際に家族の死を目の前にした場合とでは、変わってくるというものです。ご本でおっしゃっていることは、理屈のみのように感じます。

 

 一般に本を読む際に、法律の条文を読むように一字一句に注視しながら読む人はいないと思います。私もそうでしたが、私が一気に読んでいった感触では「在宅で親を看取るのは簡単であり、放置しておけば本人も苦しまない」というような印象を受けてしまいます。しかし、前2段で、そうではないことをお話しています。

 

 私は、「在宅で親を看取ることは決して簡単なことではない。しかし、病院や施設に放り込んでしまうのではなく、あえて、その苦労をすることが、親への一番の愛情である」という捉え方をしています。「簡単さ」は言わない方が賢明と思われます。もっとも私の場合、父を病院や施設に放り込んでしまうと心が痛みますので、かえって苦労になったでしょう。また、私の場合、自身の職業ともリンクしている内容であり、父には随分勉強させてもらったと振り返っています。

 技術的なことを申せば、何度も申し上げるように、病気のない方の衰弱死であればともかく、病気の場合はやはり検査機器をフルに活用できる総合病院で病状を確認なければ、その症状の緩和は難しいと思います。死亡前日に呼吸苦により救急搬送した総合病院で、「痛みが無いのでまだ先のことと思っていた」という私の言葉に、「もう痛みも何も分からないくらいになっているんじゃないの?」と休日当番の若い女医さんに言われました。本当かどうかわかりませんが・・・。しかしもし本当であれば、私の言っていることは正論だと思います。

 

 

 

 テレビ出演に向けて頑張ってください。もしかしたらもう出演されているのかしら?有名になるのは結構ですが、できれば、「人の死」を踏み台にして有名になるのは控えていただきたいと思います。

 

  

 明日は講演で東京へ行かれるのですね。繰り返し申し上げますが、医師としての本業に専念されるようにお勧めします。



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どこまでもエスカレート。

このあとも、この方は名前を変えて
このブログにまで押し寄せて、コメントを書きこんできます。


いつまで、続くのでしょうか。

この人は、「平穏死とう親孝行」のアマゾンのレビューに、最低評価の「1」との採点をし
同様の主張を書き込んでおられます。

これまで何冊も本を書いてきましたが、「1」をつけられたことは初めてです。
精魂込めて書いた本をちゃんと読んでいない人にそう評価され、残念でなりません。


繰り返しになりますが、私の本をちゃんと読まずに、「1」をつけたということです。
そして、毎日、メール、書きこみが続いています。


その人の父親の旅立ちは、私の本の出版前であり、
私は彼の父親の死に一切の影響を与えていません。


このような人に向けて、「平穏死という親孝行」を書いたわけですが
本をちゃんと読まずに、批難が続いています。

ホント、このような人のために、本を書いたのですが・・・・


それどころか、私の日常行動にも言及するなど、
内容が毎日、どんどんエスカレートしています。


以下、同じ人から毎日届くメールを追加列挙します。

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 「人生いろいろ人それぞれ」です。アベノミクス、「その感じ方はいろいろで人それぞれ」です。  尼崎の人の中には、アベノミクスを肯定される人もいれば、否定される人もいるし、そして無関心の人もいるでしょう。それぞれを認め合いましょう。 >アベノミクスを見ていると、衰弱した老人にバンバン点滴をしているようにしか思えない。一時的に元気になっても、翌日には心不全を起す。無理な延命処置は、命を縮めるだけ。それだけ苦痛も大きくなる。かといって平穏死するには、まだ早すぎる。いや、させるわけにはいかない。  政治を揶揄するのは自由ですが、それを「人の最期」に重ねるのはいかがなものですか?  今の政治が気に入らないのなら、自ら政党を作って政権を取ってください。日本中を廻って講演活動をされているのでしょう。ついでに選挙運動もされたらいかがですか?  あなたの文章を見ていると、本当に医師なのかなぁ?と思ってしまいます。

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【論理的説明】 説明に論理性がない点が理解の障壁になっているのではないでしょうか?また、「良いこと尽くし」の言葉も逆効果になっていませんか。「世の中、そんなうまい話はないよ」と誰でも思うものです。下のコピーがそれを象徴しています。 >平穏死=自然死=寿命が長く、苦痛の少ない死。>延命死=結果的に寿命が縮かくなり、苦痛の大きい死。  しかし、この「良いこと尽くし」のお話は、現実とのかい離を発生させます。例を2つ挙げましょう。  「抗癌剤治療」は、広義の延命治療です。これに対して「平穏死(理療しない)のが長生きする」と言ってしまったら、「抗癌剤」の効果を100%否定することになってしまいますが・・・(寿命)。  前立腺癌が見つかった際にホルモン治療を受けました。医師によれば、「放置しておくと骨に転移して痛いから」とのことでした。この場合でも、放置しておくと「痛みの少ない死」を迎えることが出来るのですか・・・(苦痛)。  このあたり、いかがですか? 【感情的説明】 人は「延命治療を何のために行うか」と言えば、それは、愛する家族と少しでも長く一緒に居たいからです。地球上の生物体の中で唯一人間のみが、感じ、思うことです。  私は、「人はいつか死ぬもの(理屈)。しかし、いつまでも生きていてほしい(心)」という「理屈と心の葛藤」から逃げないようにしようと思っています。

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>私の本や講義を見ることもなく、詐欺師のように思っている人が沢山いるようだ。  私以外の批判されている方々が何を根拠に言っているのか知りませんが、私が、いろいろ指摘させていただいている根拠の一つは、この本の記述に思わぬ落とし穴がある点です。 例えばご本のP23に「いよいよ死期が迫り、目が離せなくなった場合どうするんだ?」という疑問に対していろいろアドバイスされている箇所があります。問題なのは「いよいよ死期が迫って」という箇所です。 実際にはこの「死期」を明確に言い当てることは不可能なはずなのです。にもかかわらず、この部分に先生は全く「迷い」がないのです。これがいろいろ言いたくなる理由であり、一般の方が鵜呑みにすることを心配している点なのです。 他で挙げられている「事例」においても、それがはっきりわかります。 事例では、「最初の意識障害の際に回復の見込みがないことを告げられても、実際には半年後に肺炎を起こして危篤になったことで良い医者にぶつかり、結果、回復したこと」「胃ろうの不具合で通院した際のCT画像を見て『もう何日も生きられない』と言われたが、実際にはその後70日間生きることができた」などなどです。 もちろん前段前半は極めて珍しい症例でしょうが、前段後半についてはよくある事例です。しかし「近い将来」は医師であれば誰でもわかるも、それが、2.3日後か? 1週間後か? 2週間後か?1か月後か?70日後か?という話になると、どんな名医にも分からないはずなのです。わからないはずのものを「わかる」という前提でお話になってしまっている点に違和感を覚えるのです。 他、事例にあるように「コミュニケーション障害を疑いたくなる往診医」「上から目線の訪問看護師」「つかめない病状」などなど、想定外のリスクや問題がつきまとうことも全く想定していません。  一度言いましたが、「平穏死は難しくない」ではなく、「「大変なこと」だが、それは大変尊い親孝行であるから、ぜひ実践すべき」という言い方をされて、むしろその「大変なこと」がどんなことなのか?をさまざま事例を交えてお伝えする方が、本当にこの在宅看取りをされようとされる方の役に立つように思います。  確かに、事例の「実際に苦労してお父さんを看取った」という方としては、「在宅看取りは難しくない(簡単)」という印象が感じられるこの本を読めば、気分が悪いかもしれませんね。その問題因子の中心が、医師であり看護師であるからかも知れませんが・・・。 >お医者さんの9割以上は、信じていませんね。 「平穏死という親孝行」のP40には、「多くの医者にも読まれ(中略)、反論は皆無です。」とあります。どっちが本当なのですか?  また、P37の「飢餓状態になると脳内にモルヒネのような物質が分泌され、本人は以外にハッピーなのです」という根拠は?具体的にどんな物質なのですか?モルヒネのような物質が分泌されるのであれば、末期がんの患者は、飢餓にすれば痛み止めなどいらないという話になってしまいます。 北朝鮮の子供が、飢餓で自身の腕をかじって死んでいる話をきいたことがありますが・・・。ハッピーになるというのは本当ですか?  学問的な根拠を教えてください。  冒頭、「詐欺師と思われている」というあたり、かなりお疲れのようです。小泉さんが総理大臣のときの竹中大臣のように、多すぎる言葉は逆効果になります。それが正論であってもです。 少し休まれたらいかがですか?

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「相性が悪ければ変えれば良い」というのは、「人はいつか死ぬもの」と同じで、「理屈」なのです。  現実問題、相手の顔を見てしまうと、なかなか切り出せないですし、がんばって切り出したとしても、特に医師の場合、医師同士でのトラブルを嫌い、断られる可能性が高いです。訪問看護もいくつかあっても曰く付きと感じると、混雑を理由に断ってきます。 往診医のみを頼るのではなく、並行して総合病院へ通い、そちらに主治医を持って相談されるのも手だと思います。どんなご病気なのかわかりませんが、延命をしないことが必ずしも安楽という訳ではないと思います(こんなことを言ったら叱られますかな?)。複数の医師よりいろいろな意見をお聴きになりながら療養方針を決められたら、と思います。  重篤な持病を抱えている義父様が、苦しまないようにそして少しでも長く生きられるように、健全な療養生活を送られることをお祈り申し上げます。 

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 確かにケースバイケースです。ですから、一律に平穏死(と言っているように感じられる)と言うのではなく、それぞれの医師がそれぞれの患者家族と向き合って、いろいろな選択肢の中からベストなものを選べばよいと思います。平穏死はその選択肢の中の一つと捉えれば良いのではないですか? にもかかわらず、「平穏死という親孝行」というタイトルはいささか一方的であり誤解を生みます。「平穏死を選択しない人は親不孝もの」という捉えが出来てしますよね。ですから「平穏死という一つの選択肢」というタイトルにすればよいと思います。  実際には多くの医療現場にて「必要以上の延命をしない」というのは、もう普及していることです。「看取りの同意書」という言葉は介護や医療現場の方であればどなたでもご存知なはずです。「危篤になっても救急搬送や無理な延命をしないで良い」という同意書です。私の職場ではこの同意書を取って、その後2年を経過した現在もお元気という方がいます。大変喜ばしいことですが、それはともかく。  「平穏死は賛成だが、安楽死(意識的に死亡させる)は反対」という記述がありますが、これは変な話です。「未必の故意」という法律用語は有名です。「死んでも構わない」という行為を指しますが、これは刑法上は犯罪になります。平穏死は、まさにこの「死んでも構わない」ということになりますから、故意に死亡させる安楽死と実は同じなのです。 だから、そういう解釈をされないように、前述のごとく介護施設はもとより医療施設でも、死亡の危険がある場合は「その際に積極的な延命治療をするのか?しないのか?」の必ず同意を取っているのが現状なのでしょう。 この際の説明で、延命することのリスクや苦痛、逆に延命しないことのリスクや苦痛、などなどが、医師より説明がありますから、何もこの本を読まなくても、みんな知っていることなのです。  一方、在宅での看取りに関しては、やはり、本人・家族の意向が最優先されるべきでしょう。確かに本人は施設よりも自宅のが良いに決まっていますが、やはりその人の事情によるでしょう。 しかし、ご本を読んで危惧するのは、「在宅介護は簡単なことである」という印象を与えている点です。 死を控えている家族を介護するのは、介護や医療の経験のない人にとっては恐怖感があるでしょう。ケアマネに相談すれば何でも解決できるような文言がありますが、これは幻想です。既成品のサービスをいれるか入れないかのみの選択であり、基本的には家族が主体的にならなければ介護生活は成立しません。 自宅にいる良さは、例えば、「足が痛いから引っ張って」「氷ない?」「今日、何日だっけ?」「痰、取って」「おむつ汚れているから交換して⇒(家族)いま、まだ四時だから朝まで待ってよ~全くもう」と言った感じの気兼ねのないやり取りが出来ることです(父を思い出してしまい少々涙がでていますが)対して介護サービスは指定された曜日に指定された時間にしか来ませんから、これはできません。 また、家族が他の職業の片手間に行うのでは絶対に無理です。特に夜間の対応が必要になる場合が多いので、日中サラリーマンの人は体が持ちません。介護休業などの施策も出来ていますが、期間は3カ月に限られ、その間に終わらなければ退職することになります。 現状、この介護をする人の「所得」や「社会的地位」の保全があれば、福祉用具レンタル以外の介護保険サービスは必要ない感じもします。  話が逸れましたが、確かに仰せのように「ケースバイケース」です。一つの事例がすべてではありませんが、逆に平穏死がすべてでもないということです。 申し上げたように、それぞれの医療現場で医師と本人・家族が相談して決めれば良いと思いました。この本にあることは、ほぼすべての医師がわかっていることです。しかし、その決定権は患者やその家族にあるので、強引には勧めていないだけのことです。 多くの場合、人工呼吸の話が出ると「そこまでは」と断りますが、他の場合は、何とかしてほしいというのが、家族の素直な心情なのではないでしょうか?まぁ、これもケースバイケースですが・・・。

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ここから、再び、長尾です。

ここまで読んで頂いたみなさま、本当に御苦労さまでした。
私の悩みを知っていただき、心から感謝申し上げます。

と書いたところで、またその人からメールがきました。

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回復見込みのない高齢者や不治の病に対する延命治療に疑問を感じているのは、なにも日本尊厳死協会の会員さんだけではないのです。「自分たちだけが分かっていて、他の人はわからないでいる」と思い込んでいる方がいるとしたら、それは恥ずかしいことです。ほぼすべての成人国民に程度の差はあれ、同様の問題意識は存在しています。  しかし、以下のような場合、どうしましょうか? 1.元気なときに本人の意思確認をした際「私はどんな高齢になってもどんな難病に罹っても、最後の最後まで延命してほしい」という意思を示された方がいたとして、あなたはこれを素直に受け入れますか? 2.「回復不能と言われたが、他の意思の延命治療の結果回復した」という事例の紹介がありました。存続可能な命を絶ち切る危険性に対してどのように担保しますか? 3.老衰と診断されたお年寄りが、点滴をして脱水が回復した結果食欲が回復して元気になった例があります。あなたは、これをどう思われますか? 4.ALSの患者さんに人口呼吸器をつけた場合、いつの時点でそれを外すのですか?また、癌と診断された人について、いつまで治療をして、いつの段階で治療を止めるのですか? 5.50歳の早期発症のアルツハイマー型認知症の患者さんが、認知症の症状で「食べる」という行為を忘れてしまったとします。あなたは、ご家族に胃ろうを勧めますか?勧めませんか?  1.は、長尾先生の独善性をつつくお尋ね。2.3は、回復可能な命を絶ち切る危険性に対してどのように対処するか?4.5は、尊厳死の具体的な運用中に起こり得る問題にどう対処するか?のお尋ねです。 これらに対して、明確な答えが出せないから、疑問を感じながらも延命治療が行われている現状があるのではないですか? どうかお答えください。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


悩める、見知らぬ方へ

私の本に、その答えを書きました。
どうか私の平穏死3部作をゆっくり読んで頂ければ幸いです。

これ以上、言いたいことがあるようでしたら
貴方の父親の担当医に直接尋ねてくださるよう、お願い申し上げます。

長尾和宏

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※本ブログは転載・引用を固くお断りいたします。

この記事へのコメント

>平穏死は、お医者さんにも市民にも理解されない。
毎日が平穏死なのに、経験したことのない人には信じてもらえない。
こんなこと、もうやめようかな。

>世の中、何も変わらないなら、この人がいうように、大人しく遊んでいようかな。

尊厳死協会のブログを書くと ぼこぼこにされることもありますが、
岩手に来ましたら 1回の尊厳死の懇親会で 6ヶ月で101名の入会がありました。
情報の少ない東北地区では 尊厳死の懇親会を 待っていてくれます。
そのとき 平穏死の本を資料に使いました。

町に本屋はなく無医村のこの町では 尊厳死懇親会に出席していた市介護課職員が
図書館に平穏死の本を導入してくれていたことを 住民台帳を作りに行き知りました。

盛岡の訪問診療「ももたろうクリニック」が検索で みつかりません。

Posted by kayabuki110 at 2013年06月19日 02:49 | 返信

>こんなこと、もうやめようかな。

>世の中、何も変わらないなら、この人がいうように、大人しく遊んでいようかな。

そうされたらいかがですか?
きっと平穏な楽しい人生が待っているでしょうから。

Posted by 桜 at 2013年06月19日 06:43 | 返信

100の人間が居れば100の死がそこにはあります。

家族の死を前に無力感に浸ることは誰しも経験することだと思います。
「ケースバイケース」というお言葉をあなた(メール送信者)が何度も
噛みしめる必要があるのではないでしょうか。

>そもそも、家族の死を素直に受け入れられる人などいないのです。

お気持ちは分りますがいかにも「家族を亡くした代表」のような発言はやめて
頂きたいです。私は肉親三人を亡くしましたが、どの死にもきちんと向き合って
自分なりに答えを出して素直に受け入れましたよ。残った者が悶々と悩むのは
故人も望まないでしょう。生前からの信頼関係です。「お父さんこれで良かったの」
と亡き人に問うたとき胸に返ってくる答えが全てです。

私もコメント欄のKai様と同様に「良くやってくれた」「これでいいんだよ」
と言う言葉をお父さんは伝えたいのではないでしょうか。

後半のメールに至っては「いやみ」「あてこすり」にしか感じられません。
父親の死に対して満足な結果が出せなかったことを先生に八つ当たりしているように
思います。

ケースバイケース

あなたの経験だけがこの世の全てではないのですよ。

Posted by ishikawa at 2013年06月19日 06:59 | 返信

初めまして。

わからない人間は、永遠にわかりません。

はっきり申し上げますが、アホは、無視しておけばよいのです。

生老病死、当たり前の理、死だけを特化し、ヒステリックになる輩は、無視。

先生の正しい啓蒙、応援します。

Posted by ウル at 2013年06月19日 07:57 | 返信

優秀な医者とそうでない医者がいる、ということだと思います。

このケースでは訪問医を変えることが、現実に実行するのは大変ですが、
おそらくベターな選択だったように思います。

重篤な持病があって認知症を患っている義父と同居している私は、このケースは他人事ではありません。

どんな職業の人でもアタリとハズレがいるのは当然のことです。
信頼関係が築けないと思ったらチェンジする勇気を持ちたいと肝に銘じました。

Posted by KS at 2013年06月19日 10:56 | 返信

はじめまして、コメントさせていただきます。
私は先日、祖母を家で看取りました。

肺がんの末期でした。
最期は、本当に平穏死でした。
年末に、余命一ヶ月ほどと主治医に言われ、家に帰るのは無理と…
私ができる恩返しは、さみしい思いはさせない!ただそれだけでした。
その思いで、一月中頃退院へと踏み切りました。
退院した後、たまたま寄った書店で先生の平穏死の本が私の目の前に…
帰って、すぐ読みきった後、私の決断は間違いじゃなかった。
安心しての在宅で祖母を看ることができました。
訪看さんが、私が留守のときに祖母が息を引き取ったら警察よばないといけないよと言われたり、肺炎のような状態になったときも、病院を受信してレントゲンを撮れといわれても、動かすことで状態がわるくなることもあるので、先生に往診していただいて診断していただいたらいい旨、警察もよばないと伝えました。
それも、先生の本に出会えていたからです。
三月には旅行にも行け、5月6日に亡くなりました。
医療、看護、介護に携わってくれた方には感謝の気持ちでいっぱいです。
すべて納得できるものではないですが、後悔はないと言い切ることで、折り合いをつけています。
病院での最期では、こういった感情で看取ることはできなかったと確信してます。
先生の本に出会えてなかったら…
途中で病院に入院させていたかもしれません。
本当にありがとうございました。
先生、お体を大切に!たくさんの方に平穏死を伝えて下さいね。

Posted by yayui at 2013年06月19日 11:10 | 返信

長尾先生 お疲れ様です。
人生色々ありますが、私の経験から、こわいなーと思う事があります。
人が嫌がる事や、人道的ではない事などをする人は、その人本人や子孫に必ずと言っていいほど、災いのような事が降りかかります。
だから私は、誰かに嫌な事をされたりすると、いつかその人に罰が当たるわーと思ってぐっとこらえます。
モンスターメールの方も、残念ながら、いつか罰が当たると思います。
長尾先生は、きっと、望む最期を遂げられた天国の患者さんたちから守られているので、大丈夫ですよ。
モンスターメールさんの今後が心配ですね。

Posted by よっしー at 2013年06月19日 11:16 | 返信

長尾先生

はじめまして。私は今、父親を在宅で介護しています。
長尾先生の本を読み、先生に診ていただけたらと心から思いました。
大阪郊外在住ですが、遠くて近いようななんとも言えない距離がうらめしいです。
本やブログの話をいつも父親にしていて、在宅医にも先生の話をしました。
先生の本を読んで勉強しています。これからもご教示よろしくお願いいたします。

Posted by プム at 2013年06月19日 11:25 | 返信

昨夜にこのブログを、拝見しましたけれど、答えが出ません。
この方の、仰っている、お父様の介護の時系列的症状の悪化が、タイプは違いますが、私の父の時と、良く似ている事は確かです。
しかし、何故、匿名で、長尾先生に対して、悪意を持って、「TVに出るな」とかマスコミの取材を受けるなとか、仰るのか理解できません。
私も、匿名の方にいつもコメントするなと言われるので、怖いです。
私も、介護保険に希望を持って、父の介護をしていましたが、医師があまりにも若い遊びたい盛りのお嬢さんで、お母さんが「私が医者のなりたかった。だから、娘を医者にした」と仰る関係に早く、気がついて、医者を変えるべきでした。
父が肺炎になって、高熱をだしても、点滴にも来てくれず、さっさと、スキーに行ったようです。
父が苦しんで死ぬ最後の瞬間まで、そのような医師とは気がつかなかったのです。

この介護福祉士の方は小泉総理が大好きだったと、仰っているのですから、小泉総理に、あるいは、自民党の市会議員にでも相談すれば良かったのにと思います。

それから、長尾先生は100%御自分で、在宅診療をして、100%患者さんが平穏氏死が出来る在宅看取りをしていらっしゃいますけど、他のお医者さんが、理想通りの在宅診療と、看取りをしているのかは不明です。
何処の地方でも、何処の医師会でも、同じ質の在宅医療と、看取りがして頂けます様に、希望します。
そうなる為には、どうすれば良いのでしょう?
私の町ではこれまでは、大学を出たばかりのあんまり経験のない女医さんばかりでした。
ケアマネジャーの研修会でも、「ケアマネジャーは合わなければ変えても良いと言う法律があるが、在宅医が、患者に合わない時は、変わって頂いてよいのですか?」と質問したところ、医者の不興を買っていまいまして、結論は出ませんだした。私はトンデモナイ質問をしたそうです。
このコメントしている介護福祉士の方も、もともと真面目で、優秀な方に思いますから、どうぞ、職場に復帰なさって、お父様の無念の思いを、これからのお年寄りの介護に役立てて、お年寄りを幸せになさって上げて下さい。
看護師さんでいらっしゃる、お母様も、お大事になさって、さし上げて下さい。
このブログの答えには、なってないのですが、半日考えても、私の悪い頭では、ここまでしか思いつきません。

Posted by 大谷佳子 at 2013年06月20日 02:35 | 返信

先生のブログをいつも拝読させていますが、
私は納得し励みにしています。それと父の在宅医との
やり取りにも、参考にさせて頂いています!!
良い悪いは別としてですが、親との別れをいつどんな形で
迎えなければならないかという覚悟。後悔なんてどんな事を
しても残ります!! それを長尾先生のブログにぶっけて解消しても
仕方ないし解決法にもならないのではと、それより
長尾先生の心情を案じます!!
私の父は5年 気切、胃漏です。救命の先生、大学病院、
中核病院と転院を繰り返しましたが、その時々で医療の
在り方…医師とのやり取りがありましたが…胸に刻む言葉
切りさかれるような言動…色々ありましたが… 救命の先生は
一生忘れられない人です。りっぱな思いやりのある先生でした。
何より心付けを受け取らなかった先生でした!主義に反します。
責任をもって治療にあたります。この言葉にすべて先生に
任せようと納得得心しました!!
中核病院の先生は最悪でしたねぇ。コミュニケーション能力というか
なかなか退院を認めず…後味の悪いものが残った。
しかしながら…在宅医だけの総合的な病院があればと
思います。長尾先生のようなお考えの先生が集まり…在宅医療の先行きが
確立できるような理想かもしれませんが…
長寿日本を喜びにするのなら…国も考えてもらいたいです
長々と主旨がない文ですいません!!
長尾先生頑張って下さい!介護する私とって先生のブログは
有難いとそれといつかくる親との別れの心の準備にもなります。

Posted by エール at 2013年06月20日 01:35 | 返信

個人的にこういうタイプは腹が立つので書かせていただきます。

本質的に人が正しいと言うことを認められない性格の持ち主で、正しいと言うことに異論を唱える事で自分の存在意義を見出すタイプの人だと思います。
物事を別の目でとらえるという点ではそれなりに取り入れる物もあると思いますが、攻撃することに喜びと生きがいを感じている以上取り入れれば言葉が悪いですが「つけ上がる」だけ。
唯一共感できるのは

>死を控えている家族を介護するのは、介護や医療の経験のない人にとっては恐怖感があるでしょう。
>基本的には家族が主体的にならなければ介護生活は成立しません。 
>介護サービスは指定された曜日に指定された時間にしか来ません
>家族が他の職業の片手間に行うのでは絶対に無理です。特に夜間の対応が必要になる場合が多いので、日中サラリーマンの人は体が持ちません。

の部分ですが、これも攻撃する為である以上認めればこの人にとっては達成感と生きがいと言う喜びを与えるだけだと思います。

これだけ言うのなら、ご本人も「回復見込みのない高齢者や不治の病に対する延命治療に疑問を感じているのは、なにも日本尊厳死協会の会員さんだけではないのです」と言っているのですから、それに代わるものをこの人が世に出せばいいのです。

Posted by 桜 at 2013年06月21日 08:28 | 返信

この人は長尾先生を自分の励みにしていますよ。この様な人に何らかのはけ口を与えるのも長尾先生の仕事の一部であると思います。今長尾先生はこの人の見取りをしているのと同じ事なんです。苦痛を減らしてあげているのです。この人はパソコンに向かってメールのキーを打っている時、自身のやる方なき苦痛の中にも、きっと自足の笑みを浮かべていることでしょう。長尾先生のおかげでこの人は順調に平穏死に向かっています。しかし、なんと言っても暇な人ですねこの人は。私にはこの人の真似は到底できません。私に降りかかることは全て私の責任であり、私にはやる事がたくさんあります。

Posted by 異端者 at 2013年06月21日 10:19 | 返信

いろいろ言われていますが、相手にしないのが一番です。反論されればされるほど、傍観者から見れば、焦っているように見えてしまいますよ。まるで、信じていたことに「横やりがささった」がために「過敏反応している」と感じてしまいますよ。

Posted by 東條英機 at 2013年06月23日 02:46 | 返信

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