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大隈記念館
2013年11月18日(月)
大隈重信という名前は誰でも知っていても、彼が佐賀出身であることを
そして彼がどんな人で、人生を送ったのかを、私はまったく知らなかった。
彼の生家の横に建つ「大隈記念館」を見学しました。
大隈候の一生を極々簡単に振り返ってみます。
彼は1838年生まれで幕末の激動の時代を生き抜いた人。
32歳で参議へ。
35歳で大蔵卿。
44歳で早稲田大学の前身である東京専門学校を設立。
51歳で暴漢に襲われ右脚を切断、以降義足なる。
55歳で外務大臣になり不平等条約にとり組む。
60歳で第一次大隈内閣を組閣。
69歳で憲政党総理を辞任し早稲田大学総長となる。
76歳で第二次大隈内閣を組閣。
84歳で死去。盛大な国民葬が行われた。
私が特に興味を持った点を3つあげます。
彼の10代、20代は実に破天荒な生き方です。
退学や謹慎や処分という言葉が並びます。
ものすごい正義感に駆られた勇敢な行動ばかり。
次に、彼が字を書かなかったことに興味を持ちました。
彼は一切字を書かず、残っているものはすべて代筆です。
交渉は常に、直接対面し、口頭で行いました。
現存する自筆は、17歳時の二点のみ。
あとはすべて代筆です。
生涯代筆で大学を造り、2回も総理をやったのです。
3つ目は、彼は本気で120歳まで生きようとしたこと。
51歳で障害者となりましたが、84歳まで長命でした。
極めて粗食であったからでしょう。
60歳と76歳で、2回も総理になっている点も興味深い。
100年前の人ですから、現在なら90歳で再び総理に!?
彼を動かすモチベーションはなんだったんでしょうか。
彼は抜群に記憶力が良かったそうです。
演説をレコードに吹き込み、全国に配布。
イメージ選挙のさきがけでもありました。
紙に文字を書かないが、頭の中に沢山の文字を書いたよう。
彼は原稿無しで完璧な演説を、毎回異なる内容でしたそう。
どうも一般人と使っている脳の場所が違うような気がした。
佐賀に利益誘導せず、常に国益を考えて世界と交渉した。
近代日本があるのは、彼のお陰であると思いました。
あの早稲田大学のルーツを知ることもできました。
彼の立像の後ろに、生家が見えます。
幼少時、2階の右の部屋で勉強していた。
下の建物が人の顔に見える人がいれば、凄い。
ステンドグラスは実は早稲田の角帽。
その下は目が描かれている。
その下のひさしは、鼻。
入口は口。
大隈氏は、口が大きかったそうだ。
自分のこぶしが口に入ったそうだ。ば 彼は、気さくで偉大な政治家。
俗な欲望とは無縁であったそうだ。
偉大な政治家といえば、相馬市の立谷秀清先生は
自筆で丁寧な手紙を書かれる。
歴史上の有名な政治家、空海のような宗教者、指導者も同様だ。
しかし大隈候は、歴史上、唯一の例外。
字を書くことが大の苦手の自分にとって、とても魅かれる逸話だった。
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