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若き医師達よ、念じれば扉は開く!

2015年03月19日(木)

日本医事新報の今月の連載は、若き医師達に向けて書いた。
私は37年間、ずっとひとつのことを念じてきた想いを吐き出してみた。
こんなオジンの経験談でも、誰かの役に立てれば嬉しい。
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10年間我慢して、、丁稚奉公をして欲しい。
何の役にも立ちそうもない雑用を、適当にこなして欲しい。

それが、20年後の肥料になるだろう。
開くのは、50歳を過ぎてからでいい。

私も数年前まで泣かず飛ばす。
なんの取り柄も無い、平凡な医師だった。

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日本医事新報3月号  総合医を目指す若き医師達よ、念じれば扉は開く!  長尾和宏
 
決してお世辞ではなく、本誌は町医者にとって毎号とても勉強になる記事が満載だ。プライマリケアに関する記事が実にバランスよく配置されている。中央では専門医としての総合医議論が盛んだが、毎号の本誌熟読が総合医への最も近道とさえ思える。本誌の読者層は広く、若手医師にも多く読まれていると聞いた。そこで今回、若手医師に向けて卒後30年の町医者からのメッセージを書いてみたい。時代も制度も違うが、若い医師にひとつでも参考になることがあればと思い、昔話をさせてください。
 
昔懐かし入局試験
 私は東京医大を卒業してすぐに母親の介護を予想してすぐに故郷にある大阪大学第二内科に入局させて頂いた。第二内科を選んだのは地元の友人から「第二内科は他大学卒でも差別なく入局できる」と聞いたから。果たして正月明けに電話したら入局試験は年末に終わったばかりと。しかし関連病院に派遣する「兵隊」が足りないという理由で再度入局試験を行うとのこと。1週間後、来帰する新幹線が米原の大雪で立ち往生し大阪大学に着いた時は、再試験が終わるところだった。呆れた監督官は「しょうがないな、1時間で書いてね」と試験用紙を渡して頂いたが、問題が難しくほとんど白紙状態だった。面接試験に呼び出されると教授室には助教授、講師、助手の先生方が並んでおられた。一番奥に垂井清一郎教授が座っておられたが、後光がまぶしくてお顔がよく見えなかった。白い巨搭のオーラに圧倒された。後で知ったが面接はメンタル不調者を診るためのものだったそうだ。 
 あれから30年。もうそろそろ新臨床研修医制度の成果が出る時期である。一方、大学医局も臓器別となり、そろそろ再編の評価を出すべき時期に来ていると思う。そんな中、自分の研修医時代を振り返ってみたい。
 
激しすぎた2年間の研修医生活
 大阪大学に入局した昭和59年卒の医者は学外20名、私を含めた学外20名の合計40名もいた。最初の研修の地は新大阪にある聖徒病院だった。翌朝に初出勤して以来2年間、研修医室の「住人」になった。医師になった翌日に肝硬変に伴う食道静脈瘤破裂で搬送された患者さんの主治医を命じられた。まだ薬の名前ひとつも知らない身なのでモタモタしていると今度は手術室に入るように言われた。その病院では半年間の外科と麻酔科研修が義務づけられていた。3人の外科医と毎日のように手術室に入り、主に腹部の手術の助手や麻酔医をやった。麻酔をかけて手洗いをして手術助手になり閉腹が近くなると手を降ろしてリバースを打ち、抜管をして病棟まで付き添った。並行して急性心筋梗塞や胃癌の末期が入院してくるなど、ありとあらゆる領域の患者さんの主治医になった。実はその病院は大阪大学の関連病院の中でも有名な“野戦病院“だったのだ。内科医は研修医1年目の私を含めて数名。外科・麻酔科の仕事以外に、重症患者の受け持ちに加えて救急当直も1ケ月に30日間していた。死亡到着、気管支喘息の重積発作、ヤクザの喧嘩など、一晩に数台は来る救急車にも連日対応していた。

 1年経過するとフレッシュな白血病が大学から約20名位紹介されすべて受け持ちになった。骨髄検査やIVH穿刺の日々だった。もちろん血液研究室から週2回外来のバイトに来られる専門医による丁寧な指導を受けながら。またフレッシュなⅠ型糖尿病ならば、高名な花房俊昭先生自らが夜遅く来られて教えて頂いた。さらに腹腔鏡のパイオニアである清永伍一先生の助手も務めていた。小さな野戦病院だからこそ、高名な医師と直接触れることができた。大学病院では受け入れない消化器癌や肝硬変の終末期の患者さんが続々と運ばれてきた。ただ当時は、先輩に教えられるまま管だらけで亡くなるまでフルコースの延命治療を続けていた。そして気がついたら2年間で何百枚かの死亡診断書を書いていた。こうした多くの苦い経験が、50歳を超えて本を書く動機になっている。人生の最終章を管だらけにして必要もない苦しみを与えてしまった犯人は私だった、という懺悔の思いでタイトルに「平穏死」と名がつく本を数冊書いて、世に問うている。
 
第二内科は総合内科だった
 2年間の厳しい修行を終えて帰局した。大袈裟ではなく、よく死ななかったなと思う。“奴隷”としてまさに不眠不休で働いた。大阪大学第二内科には内分泌、循環、脂質、神経、血液、消化器研究室などがあった。無いのは呼吸器くらいで医局員は200名位いたが消化器研究室の中にある胃腸膵研究室に所属することになった。5年間にグラント係、学会予講係、外来の尿検査係などさまざまな雑用が回ってきたが、今考えてみればどれも無駄なものは何一つ無かった。他の研究室の学会予講を何度も聞いているうちに暗記してしまい物マネができる位になった。耳学問という言葉があるが、垂井内科の医局員の情熱的な言葉は今も耳に残っていて、日々の原動力となっている。

 5年間後、医学博士を頂き市立芦屋病院へ出るように指示された。市立芦屋病院では、消化器を中心としながらも内科全般を診ていた。消化器内視鏡に明けくれながらも糖尿病や神経難病も結構診ていた。現在ほど専門分化は強くなく、内科は内科だけ。生活習慣病のみならず、さまざまな領域のがん患者の受け持ちにもなっていた。医師になって11年が経過した時に、阪神大震災が起きて人生が一転した。思うところあり病院を去り開業医に転じたのは36歳の春だった。
 
置かれた場所で念じ続ける
今振り返ると、11年間、あまり意識しないまま総合医を目指していた。常に「なんでも屋」になろうという意識だけは持ち続けた。特に野戦病院での2年間と市民病院での5年間は、専門医としてではなく、今で言う“病院総合医”として働いていた。それに並行して外科と麻酔科と救急も2年間していた。現在、町医者として外来や在宅に没頭できるのは、こうした下地があるからなのかな?と思う。というのも、全国から当院に勉強に来られる若い医師と話をしていると最初から守備範囲を限定されているからだ。専門分化の勢いはもはや30年前の比ではない。少しでも自分の領域ではないと思ったら他科に紹介状を書くことしか知らない若い医師をみていると可哀そうだと思う。医療は、本来、もっとおおらかなものだったのに。高度化、専門分化が“総合診療”という医療本来の喜びを奪っているとさえ感じることもある。たとえ臓器別縦割りの環境にあっても、出張やアルバイトで総合医としてのスキルを高めることは充分可能ははず。大切なことは、総合医マインドを持ち続けることではないか。専門性と総合性は決して相反する方向性ではなく、総合医を目指すものにとっては車の両輪であると思う。

 30年を振り返り、医師としてのキャリアを“自己決定”したのはたった2回だけである。ひとつは大阪大学第二内科を受験した時で、もうひとつは阪神大震災と一緒に病院を飛び出した時だ。患者や家族に意思決定の話ばかりしている割には、自分は自己決定せずに現在に至っていることにむしろ驚く。総合内科であった垂井内科に入局したのも、学生時代に日野原重明先生の著書を読んだり講演を聞いていたからだろう。在宅医療や予防医療も、源流は学生時代の無医地区活動にある。総合医というイメージを持っている限り不思議とそのような扉が開いてきた。時々自己決定をしながら、置かれた場所で地道に頑張っていれば“総合医”夢は実現するように思う。

 2年前、恩師である垂井清一郎先生から一通の手紙を頂いた。中山書店から以前出ていた「新臨床内科学大系」の現代版を編纂してくれないかという依頼だった。その名も「スーパー総合医叢書」の総編集という話に目を疑った。まさに自分が密かに30年間目指してきた「総合医」の医学書の編纂をさせて頂けるのだ。「天命」とう言葉を使うにはまだ若すぎるだろう。しかし決して大袈裟ではなく、念じ続ければ30年後に叶うのだ思った。そんな気持ちで町医者生活を楽しんでいる56歳である。以上、少しでも“総合医”を目指す若い医師の参考になれば幸いである。
 

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この記事へのコメント

物凄い臨床実習と勉強ですね。
長尾先生に初めて「在宅医療」の講義をして頂いたときは山のような資料を持って来て下さったのを覚えています。
ケアマネージャー達に「皆さんは、唇と言う消化器官を使ってキスをするのでしょうけど、私はそんなキスなんてしたことはありません」等とかる~い講義内容だったので、「大丈夫なんやろか?」と思いました。
その後の集まりで「癌の末期の患者さんに胃瘻をして栄養を付けると却って癌細胞に栄養が付いて患者は苦しむのです」と仰ったので「あ、これは本物のお医者さんだ」と気が付きました。
このブログに書いてあるように物凄い臨床実習をしたお医者さんなのに「長尾チャン」なんて呼ばれるのは、長尾先生が「マルちゃん」なんて呼ぶから「長尾ちゃん」と言われるのでしょう。
大体ケアマネージャーなんかバカにしているから、ヘンな冗談を仰るんですね。
女性や男性医師にはあんな変な冗談は仰らないのでしょう。
あれから2年ぐらいブログを拝見してますけど、何時まで経っても、「エライなあ」と思う時と「へんなお医者さんや」と思う時と半々です。

Posted by にゃんにゃん at 2015年03月24日 02:11 | 返信

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