「ちょっと行ってくるで」。60代の男性が、名古屋市にある認知症対応型デイサービス「あつまるハウス駒方」を出ていく。職員は男性に付いていったり、偶然を装って声を掛けたりすることはあっても、無理に連れ戻すことはしない。
同ハウス所長の皆本昌尚(みなもと・まさなお)さん(41)は「男性は徘徊ではなく、目的や理由があって『ひとり歩き』をしている。途中で忘れてしまうことがあっても、問題行動ではない」と説明する。
皆本さんは、7年ほど前、管理者を務めていたグループホームで、職員の意識を変えるために徘徊からひとり歩きへの言い換えを始めた。職員が出かける理由を聞くことで、入居者との信頼関係も深まったという。
食事やだんらんをする同ハウスの利用者の表情は穏やか。皆本さんは「行動を制限されなくなり、日常生活で落ち着きを取り戻したり、ひとり歩きの回数が減ったりした人も多い」と話す。
皆本さんの取り組みを踏まえ、名古屋市社会福祉協議会の瑞穂区東部・西部いきいき支援センターは2014年2月、家族の役割や対応事例をまとめた「認知症『ひとり歩き』さぽーとBOOK」を約3千冊発行した。
全国の自治体などから反響が大きく、増刷を重ねている。認知症の人の家族からも「当事者の気持ちに寄り添ってくれてうれしい」との声が寄せられた。
神戸市の社会福祉法人「きらくえん」では、30年前から特別養護老人ホームなどすべての施設で「お出かけ」「お散歩」という言い換えをしている。
福岡県大牟田市は、毎年9月に開く「徘徊SOSネットワーク模擬訓練」の名称を今年から変更し、徘徊の2文字を外した。訓練は04年スタート。市民や警察・行政の関係者ら数千人が参加し、複数の認知症の人が行方不明になったという設定で、メールで送られた服装や年齢などの情報をもとに認知症役の人を捜索する。今年は「認知症SOSネットワーク模擬訓練」とした。
埼玉県ふじみ野市も、今年7月から認知症の高齢者を対象にした身元確認用のシールを「ひとり歩き(徘徊)高齢者早期発見ステッカー」と名付けて配布を始めた。ひとり歩きだけでは意味が通じない恐れがあるため、徘徊も残したという。
厚生労働省は04年、侮辱的な意味が含まれるなどとして「痴呆症」から「認知症」に変更した。徘徊については「医学的には症状を表す言葉で、国が用語を変更する段階にはない」(担当者)としている。
この記事へのコメント
“徘徊”も放送禁止用語に? ・・・・・ を読んで
“痴呆”や“呆け”が“認知症”に変わり、
そして今度は“徘徊”が“ひとり歩き”
“お出かけ”“お散歩”に変わろうとしている?
という今回のブログを読んで複雑な思いがして
います。
「あつまるハウス駒方」の皆本所長さんの、“徘徊”
を“ひとり歩き”と表現を変えたことにより、入所
者の日常行動が落ち着きを取り戻し、職員と入所者
間の信頼関係が深まった ・・・・・・ という言葉は重た
いものがあります。
外部の第3者が軽々にコメントすることは憚られ
る問題とは思いますが ・・・・・・、“呆け”や“徘徊”
という言葉には、その言葉でしか現し得ない豊か
な意味が込められているように思えます。
“徘徊”を“ひとり歩き”・“お出かけ”・“お散歩”
に置き換えることによって、本質を見え難くくして
しまう危惧はないのでしょうか?
これからの超高齢化社会において、認知症患者は
増えることが予想されます。
その人たちを地域で見守り、地域で支援し、少し
でも長く住み慣れた地域で暮らす〔地域包括ケア〕
方向に時代は進んでいると思います。
そんな時、症状の一つである“徘徊”が始まった
時、交番所のお巡りさんやコンビニ・ガソリンスタ
ンドの店員さん、自治会の役員さんなど地域の人
に“○○さんは、徘徊が始まったから、見かけたら
一声掛けて・・・・・・”と頼むことが出来たのに、これ
が“ひとり歩き”・“お出かけ”・“お散歩”に表現
が変わったら、声掛けをする理由がなくなることは
ありませんか?
日本の社会は、都合の悪いこと、見たくないもの
をカーテンの向こう側に押しやり見え難くして心
の安定を図ることが多いように思います。
認知症の当事者が傷ついたり、不快感を感じると
したら、放置は出来ない問題ではありますが、本質
が見え難くなることのデメリットとの見合いと感じ
ています。
私は、一日一回は外に出て新鮮な空気を吸って
リフレッシュすることを心掛けています。
〔私は“ひとり歩き”・“お出かけ”・“お散歩”を
日課としています。〕
地域をひと廻りして、疲れたら適当に切り上げて
自宅に戻ります。
“徘徊”は、似ているようで全く別の行動ではない
でしょうか? “徘徊”は、外に出るきっかけまで
は、“ひとり歩き”・“お出かけ”・“お散歩”と同じ
ですが、途中でその目的を忘れ ・・・・・・、最悪の場合
行方不明にもなる可能性があります。
良い悪いは別にして、近隣の人が、地域が気を配り、
支える必要がある人なのか? ほっておいて良い人
なのか? は、はっきりとさせた方が良いと思います。
“呆け(老人)”には、縁側で日がな一日じっと
外を眺めている老人。
“徘徊老人”には、地元の商店街や住宅地をあても
なくさまよう老人。 ・・・・・ といった、生活感・人の
温くもりを感じるイメージがあるように思えます。
私は、“認知症”にはなりたくありませんが、
“呆け老人”にならなっても良いかも ・・・・?!
と思っています。
今回の“一人歩き”・“散歩”への言い換えに
ついては、認知症が他の人の助け(支援)を
得られないと日常生活を送ることが出来ない
ということを考えた時、“徘徊”という言葉
に勝ることばはないように感じます。
私の場合、“ひとり歩き”・“お出かけ”・“お散
歩”をしている時は、ほっておいて欲しいです。
でも“徘徊”を始めたら・・・・・“声掛け”・“保護”
・“支援”をお願いしたいと思います。
日本語の持つ豊かな表現性、それぞれの言葉が
持つ情感に、もう少し思いを致し、敬意を払う
必要性を感じます。
“ 呆け老人 ” ⇒ “ 認知症のひと ”
“ 徘徊老人 ” ⇒ “ 一人歩きのひと ”
への言い換え
スマート〔侮蔑的な意味合いを排除した〕な表現
なのかも知れませんが、その人と距離をおいた、
“冷たい表現”でもあり、物事の本質から目を
そらした表現でもあるように思えます。
これが時代の趨勢と言うことなのでしょうか?
ちょっと疑問〔抵抗〕を感じる今回のブログでした。
Posted by 小林 文夫 at 2015年10月03日 01:33 | 返信
コメントする
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL: