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白人10ドル、黒人5ドル、フィリピン人3ドル
―死刑囚・永山則夫の28年間とそれを支えた女性の記録―
2010年03月22日(月)
昨夜のETV特集は見応えがありました。19歳で4人を連続殺害した死刑囚・永山則夫と後に出会う運命にあった和美さんが交わした手紙は28年間で1900通にもおよびました。獄中結婚をして裁判をともに歩んだ和美さんも、永山同等に、「棄てられた子供」でした。沖縄・米軍基地でフィリピン人とされる父親と日本人の母親の間に生まれ、13歳で実の母親にも捨てられた時、自分に戸籍がない事実に初めて対峙しました。13年前にすでにこの世を去った永山の28年間と元妻の和美さんの言葉は重く心に刺さりました。
何故、永山則夫が人を殺したのか、その経緯が良く分かりました。青森の寒村に生まれまた永山は、幼少時から劣悪な養育環境にありました。彼は15歳ぐらいから、犯罪や自殺未遂を繰り返していました。全国の飯場を転々として、殺人を犯し、たどりついたのが横須賀基地でした。自動販売機の金を盗もうとして、わざと捕まりました。
海に飛び込み、サーチライトに照らされ銃で脳天を打ち抜かれて脳や血が海に飛び散ることを想像することだけが、唯一生きている証だったという感覚だったそうです。その位、生きていく場所も、休む場所もなく、19年間を生きてきた永山少年がいました。思わず現代のネットカフェ難民を想像してしまいました。
そして刑務所に入って膨大な読書をした結果、「貧困が愛に見放された子供を生み、それが犯罪を生む」ことを知りました。自分を捨てた母親を恨む気持ちも消えました。大人になってから、はじめて「生きている意味」を考えるようになりました。
和美さんも永山と同じような幼少時代をすごしました。母親は彼女の戸籍を作りませんでした。父親はフィリピン人であること以外分かりません。当時、戸籍のない子供は結構いたようです。まして沖縄はまだ米国占領下でした。13歳で初めて「国際福祉制度」という救済処置があることを彼女は知りました。そのためにはまず戸籍を作らなくてはなりません。
まず役所で言われた言葉は「白人10ドル、黒人5ドル、フィリピン人3ドル」でした。肌の色で生活援助額がこんなに変わっていたのです。この言葉が彼女の心をさらに蝕むとともに火をつけました。「私は3ドルの価値しかないのか?」彼女はその後、アメリカに出て働きます。その後、永山と文通で出会いました。
捨てられた子供がどのような運命をたどるか良く分かりました。
永山は何千冊という哲学書や文学書を読み、気がつけば独房小説家になっていました。彼は何冊かの本を出版しました。文学賞も受賞しました。彼の小説はすべて「愛」に恵まれなかった子供の人生が描かれています。印税はすべて遺族へ届けました。彼の夢は、社会の一番底辺の子供たちを教える「塾」を持つことでした。塾で教える教材まで独房で考えていました。もちろん叶いませんでした。
裁判所は、一旦、死刑の判決を出しました。しかし、19歳という犯罪時の年齢と彼の反省をみて少年法と照らし合わせた結果、2審では無期懲役の判決に変わりました。するとマスコミや世間の強い批判を浴びます。その結果、1983年、無期懲役は破棄されました。その時に死刑を決める9つの判断基準はその後、「永山基準」となり死刑判決の判断基準として今でも活きています。
結局、和美さんとは4年後に離婚しますが、処刑されるまでの日々を、永山は1日1日を噛みしめながら生きました。永山を弁護し続けた弁護士の言葉は重かった。「生きたいと思わせたのは、永山自身ではない。コロコロと判決が変わった裁判自身が、彼に生きる力を与えてしまった」と述べました。
何のための28年間の独房生活だったのか。
小説を書くため? 愛を知るため? 人を助けるため? そして死刑を受けるため?
「生まれてはじめて生きたい」と心から願うようになり、「罪を償おう」と念じ、彼は淡々と実行しました。被害者遺族への償いを続けました。4人中、3人の遺族から焼香が許されました。彼の本の印税を受け取ることへの遺族の反応は様々でしたが、受け取る人には送り続けました。
和美さんは、永山の死刑執行前、寝たきりになった永山を捨てた母親を東北の病院に訪ねました。その後、母親と永山が交わした手紙の場面では涙が出ました。彼は自分を捨てた母親を許しました。
永山は、塀の外で暮らす多くの迷える市井の人たちと膨大な手紙を交わしました。世の中には家族愛が得られず道を外れた人間が沢山います。彼はまさに塀の中から、手紙の文字で多くの人助けをしました。彼の人生は、「殺人、読書、人助け」であったといえるでしょう。そして、「この世に自分を愛してくれる人間(和美さん)がいること、信じてくれる人間がいること」を、28年間の独房生活ではじめて知りました。
1990年に彼はふたたび死刑判決を受けました。そして1997年、48年間の彼の人生は絞首刑によって閉じました。報道は死刑執行後になされました。「遺骨は網走の海に播いてくれ」との遺言は、和美さんの手によってオホーツクの海に実行されました。
永山の28年間は、死刑の意味、人が人を裁くことの意味をあらためて深く問いかけてきました。
私は両親に恵まれて育ちましたが、永山の気持ちも和美さんの気持ちもよく理解できました。このドキュメンタリー番組の意義はとても大きいと思いました。テーマが大きすぎて、とてもその意義をうまく表現できませんが。
永山が19歳の時に感じていた、「海の中で脳天を打ち抜かれないと感じることが出来ないであろう生きているという実感」の意味が、私の場合には、彼が処刑された年齢より3年多い年齢になっても、まだ感じています。これは彼の気持ちが分かると、いうより、自分そのものと言った方が正確かもしれません。そんな人間が普通であるのか、普通でないのかよく分かりません。
だからなのでしょうか。尾崎豊の「卒業」をまだ歌っています。多分、一生卒業できないのでしょう。
親の愛に恵まれて育った子供には、また違う「生きる苦しみ」があるのでしょう。しかし、幼少時のスタートラインから貧困で「愛」が欠如している子供は、たしかに不公平です。
しかし「愛」の欠如は「貧困」だけでしょうか?貧困が最大のファクターでしょうが、他にも沢山あります。
しかし世の中はどこまで公平にすべきなのでしょうか?民主党の子供手当で子供が幸福になるとは考えられません。子供手当で「愛」が得られるのでしょうか?しかし、無いより、あった方がましなのでしょうか?
貧困は日本だけの問題ではありません。バングラデシュのように貧困でも子供たちの笑顔が日本より格段に輝いている国もあります。そういえば、昨日、バングラデシュに深く関わっている人から偶然、電話がありました。(一度、行ってみたい。子供の笑顔を見たい)
永山は、28年間を独房生活によって凝縮させ、結果的にプラス・マイナス・ゼロとしました。ゼロにリセットするための時間だったのかもしれません。4人も殺しているのでゼロと表現するのは被害者遺族に失礼かもしれません。しかし彼はもうこの世にいません。彼が残したものは、このドキュメンタリー映像、小説、和美さんと母親への愛、そして多くの病めるひとたちへの手紙による援助でした。彼のいいところだけを見習いたいと思いました。
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この記事へのコメント
長尾先生、感動的ですね、このブログ。
長尾先生は尾崎豊の「卒業で」すか?私はちあきなおみの「四つのお願い」です。
なかなかお願いを神様はきいてはくれませんが。。
神聖な文章に軽い文章でお返ししてごめんなさい。
「四つのお願い」は本当に私の持ち歌です(汗)
Posted by 狭間 紀代 at 2010年03月22日 11:45 | 返信
私もドキュメントを見ました。
和美さんにとって永山が唯一無二の大事な存在であり
彼女は必死に彼の手足となって被害者遺族の元へと
通っていたんですね。
彼女が彼を被害者の命よりも大事に思っていることは
正直自分勝手だと感じますが、それほど愛した人がいた事は
永山氏にとっては貴重な経験だったろうと思います。
彼も気づいたんだと思います。いかなる困難不幸恨みつらみが
あっても、人が人をあやめてはいけないということ。
それで何も解決はしないということ。
現代には現代の不幸な少年少女たちがいて、社会は一人でも
そんな少年少女にひとりぼっちじゃないということを
気づかせてあげて、助ける手をさしのべる社会になってほしいですね。
Posted by とおりすがり at 2010年07月12日 01:19 | 返信
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