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トルストイ、82歳の家出
あまりにも多い関寛斎との相似点
2011年02月07日(月)
かの文豪トルストイは、妻ソフィアとの価値観の違いに悩み、82歳で家出した。
家出した数日後、高熱を出し、駅の小屋で亡くなった。
奇しくもトルストイも、関寛斎も、今年亡くなってちょうど100年を迎える。
トルストイは、キリスト教に救いを求め、困っている人のために生きた。
しかし妻ソフィアは、貴族の立場や財産を放棄することに最後まで反対した。
13人も子供をもうけながらも、夫婦の溝はどうしようもないところまで深まった。
82歳の寒い朝、トルストイは、家出を敢行した。
そして、そのまま亡くなった。
妻ソフィアは、最期のトルストイに合うことを許されなかった。
小作農の自立と解放を支援し、貧しいひとたちに奉仕し、
最期に、家庭崩壊したのは、関寛斎と似ている。
家庭人と社会人の両立は、やはり難しい
関が、亡くなったのは、ちょうど100年前の10月15日。
トルストイが家出したのも、ちょうど100年前の11月7日。
亡くなった日は、1ケ月も違わない。また、82歳。
トルストイの墓は、小さな丘の小さな土盛りだけ。
関の墓も、全くと言っていいほど同じだった。
どこからどこまでも、似ている。
16回妊娠し、13人の子供が出来ても、最期は理解し合えなかった。
現在、280人の子孫が、活躍している。
関も、おそらく、100人単位の子孫が活躍しているのだろう。
ソクラテスの妻と並んで、世界3代悪妻の一人に数えられる、トルストイの妻ソフィア。
そんなに悪い妻ではない。
また、トルストイも極めて優しい紳士であった。
トルストイの弟子(男性)との親密な関係に、嫉妬したソフィア。
理想主義の男性は、最後は、男性に魅かれるのか?
なぜか、三島由紀夫を想起してしまった。
トルストイの晩年の風貌は、どこか関寛斎に似ている。
昔は、こんな偉人がいたんだ。
今夜のETV特集は、優れたドキュメンタリーであった。
ちなみに以下は、関寛斎のお墓と、晩年の写真。
あまりにも似ている。
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この記事へのコメント
82歳の家出店すごいですね!
Posted by 副業 在宅 at 2011年02月07日 12:57 | 返信
関寛斎はトルストイに心酔していたそうですが、正義に殉じる生き方は古今東西を問わず人としての共鳴音があるような気がします。
関寛斎がなぜトルストイに心酔したか、それを想像させるトルストイの生き方の一文を見つけました。
日露戦争が始まって、アメリカのある新聞がトルストイに質問した。「あなたは、ロシア人と日本人のどちらの味方なのか」
トルストイは答えた。「私は、ロシア、日本、どちらの『国家』の味方でもない。戦争で苦しむ両国の『民衆』の味方である」と。〈「私はロシアの味方でもなければ日本の味方でもなく、良心と宗教と自己の幸福とに反してまで戦うよう政府によって横着(だますこと)され強制された両国の労働階級の味方である」(ビリューコフ著『大トルストイ』、原久一郎訳、勤草書房刊)
トルストイの平和主義は当時の帝国主義者から嫌われ、圧迫された。「国家よりも民衆」「国家よりも人類」「国家よりも正義」これが、トルストイの哲学だった。彼のこうした哲学は、死後もなかなか正しく理解されなかった。最近になって、ようやく彼の正しさが認められ始めた。「正義」は、いつか認められる。歴史が必ず証明する。これは、厳然たる方程式である。
トルストイは日本の各界にも「日露戦争反対」を訴えた。メッセージも寄稿した。日本の仏教界に対しては「仏教の不殺生の精神に立って、非戦の運動に立ち上がってほしい」と呼びかけた。“仏教では「殺すなかれ」と教えているのだから、仏教者ならば反戦のために政府と戦うべきではないか”と。トルストイは晩年、仏教に深い共感を寄せていた。日本の仏教界への訴えの背景にも、仏教への信頼と期待があったと考えられる。
しかし、トルストイの訴えに対し、当時の日本の仏教界の代表は何と答えたか。
「われわれは日本国の臣民である以上、戦争に協力せざるを得ない」(市川白弦著『日本ファシズム下の宗教』、エヌエス出版会刊)
彼らは仏教という普遍の「法」よりも、特定の「国家」のほうを重視し、優先させたのである。
「真理は権力よりも高し」「真理は権威よりも強し」
トルストイは大変がっかりしたという。当然であろう。これでは何のための宗教か─。トルストイは信じていた。「真理は権力よりも高し」と。ゆえに、政府と戦った。権力を前に一歩も退かなかった。トルストイは信じていた。「真理は権威よりも強し」と。ゆえに破門されても、教会や聖職者と断固として戦った。
〈一九〇一年、トルストイはロシア正教からの破門を通告される。当時、ロシアの宗務院は国家の機関であり、強大な権力を誇っていた〉日本人には、トルストイのごとき強さがない。精神構造が虚弱である。右を見たり、左を見たり、いつも周囲を気にしている。「自分」がない。「哲学不在」である。
「ひざまずくな!ちゃんと見よ!」
トルストイは書いている。
「人は政府の正体や教会の正体がまだ分からない間は、いやでも敬虔な態度で接せざるを得ない。彼が政府や教会に指導を仰いでいる間は、体面上からも、その両者を厳然とした偉大で神聖なものと考えざるを得ない。しかしながら、自分が指導を仰いでいるものが決して厳然たるものでも神聖なものでもなく、指導という形で実は自分らの個人的な目的のためにそれを利用しようとしている不善の徒の欺瞞にすぎないことが分かるや否や、忽ち彼らに対して激しい嫌悪を感じないではいられない」(『人生の道』北御門二郎訳、武蔵野書房)
僧侶や権力者が偉く見えるのは、見せかけだけである。その本質は民衆利用であり、詐欺である、と。事実を知れば、彼らは民衆よりもずっと下の下の存在であることがわかるだろうというのである。トルストイはさらに言う。「この世の強者達が偉大に見えるのは、彼らの前に膝まづく人々にとってのみである。彼らがただ立ち上がりさえずれば、これまで偉大に見えていた強者達も、自分達とちっとも変わらぬ人々であることが分かるであろう」(同)
権力者だから尊重する。僧侶だから尊敬する。これが間違いのもとである。偉そうに見えても、実は、大したことないんだよ─と。
ひざまずくな!ひざを伸ばせ!しゃんと立て!そうすれば真実が見えるだろうと。これがトルストイの信条であった。
トルストイは率直であった。だからこそロシア帝国からは、にらまれ、迫害された。正義ゆえに、当局の言いなりにならなかったゆえに弾圧された。その構図は「権力者と聖職者の連合軍による迫害」であった。
トルストイは国家からはさんざん悪口雑言された。権力に追随する者たちからも。一番正しいことをしながら、一番弾圧されたのである。しかし、世界の良識は彼に喝采を送った。
北海道の少女と、七十九歳のトルストイとの交流のエピソードがある。
明治四十一年(一九○八年)。札幌に住む十六歳の文学少女(村木キヨさん)が、世界の大文豪トルストイに敬愛の手紙を送った。
日露戦争が終わって三年後、トルストイの死の二年前であった。
トルストイは、病気療養中にもかかわらず、その手紙を翻訳して読み、返事を口述筆記した。
そして、自筆のサイン入りの写真とともに送った。
「あなたの親切なお言葉に、ことのほか感激し、そのような遠い国に住む人々との、このような精神的結びつきの証に接して、大いに喜んでおります。あなたが今後ますます精神的に向上されるようにと願っております」(一九○八年八月十七日付)
短い手紙だが、「ロシアと日本との精神的結びつき」を喜び、少女の「精神の向上」を念願している。
〈手紙と写真は今、札幌村郷土記念館にある。
Posted by ママ@書かせて下さい at 2011年02月07日 07:18 | 返信
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