3月30日(水)本日の相馬市・南相馬市・双葉町等(医療機関を中心に) 震災直後から始まった、公立相馬総合病院の幹部による臨時のミーティングが今日で最後となった。病院は日常に戻ってきており、臨時のミーティングはその役割を終え、通常の対応になる。 昨日、精神科の外来診療を行った大阪府立大学の西川隆先生から、診療の状況について報告があった。午後からの診療で診察したのは12名。統合失調症や鬱病で重傷者はいなかった。震災の影響が出ていると思われる患者は2名だったが、PTSDが表れている患者は無かったようた。しかし通常数ヶ月してから発症する場合が多いので、数ヶ月の医療の提供は必要となるという。
ミーティング後、熊川副院長から20kmから30kmの問題が長引きそうであるので、中期的対策や長期的対応も順次計画していく必要があるのではないかとの意見があった。病院はもちろん考えていくが、行政も対応策を用意しておいてもらいたいということであった。当然の要求であると思った。
本日から、南相馬市からヘルプで来ていた薬剤師がまた1名これなくなった。理由は、自身の開設する薬局を再開するためである。震災から3週間を迎えようとしているこの時期、再開に向けて準備しないと食べていけなくなる。従業員への給与が払えなくなる。当たり前のことなのだ。収入がなければ暮らせない。このため、相馬市内の薬局はますます人手不足となった。被災して職員が減る、避難して職員が減る。増えることは今までなかった。何とかしなければと、市内の薬種商の娘さんが薬剤師だったことを思い出し、家を訪ねた。その娘さんが家にいた。双葉厚生病院に勤めていたが現在は自宅待機だという。厚生連の本部にすぐに電話して確認したところ、自宅待機者のボランティアは推奨して いるということだったので、すぐに交渉したところ、明後日から当面の間、相馬市内の薬局を手伝ってくれることになった。また、もう一人、南相馬市内に戻って自宅待機をしている厚生病院の薬剤師がいることもわかり交渉することにした。そんなとき、別の南相馬市内の薬局から、病院の勤務薬剤師が相馬市内の避難所で両親と生活しており、仕事を探しているという情報が入った。すぐにその薬剤師に連絡をしたところ、更に1人、自宅で何もしていない薬剤師の連絡先が判明した。それらの方々と連絡をとり、新たな戦力として相馬市内の調剤薬局で迎え入れることが決まった。
昼前に、本日も医師会が開設する臨時診療所の様子を見にいった。昨日と同様に特別な混雑はなく、順調に患者の診察を行っていた。医師会の事務局長がいたので、今後の見通しについて聞いてみた。とりあえず来週からは、新たに20km~30km圏内で診療所を開設する精神科医2名がこの臨時診療所のメンバーに加わり診療を開始することになったという。これにより、南相馬市の診療体制が更に充実されることになる。
また、自主避難を勧める政府の方針とは反するが、来週から小野田病院が外来診療のみを始めるという情報が入った。渡辺病院も外来診療再開に向けて、スタッフを集めているらしい。更に大町病院も渡辺病院と同様の動きを見せている。診療所も同様にスタッフや薬局の準備ができたところから診療を開始する動きを見せている。
内側からも、インフラが整いつつある。
今日は、一つ冒険をしてしまった。相馬の薬局をボランティアで手伝うと申し出てくれた薬剤師のひとりが双葉厚生病院に置いてきた自家用車を取りに行きたいと言い出したのだ。先日、知り合いの薬剤師が大熊町まで行ったことを話していたので、行ってみようということになった。立ち入りの禁止規制はまだなかったので、違法行為ではない。初めて、南相馬市より南へ向かった。今日の放射性物質のレベルは0.8μシーベルトでいつもの3割程度だった。
双葉厚生病院は第一原発から3~4kmの地点である。そこまでの道のりは、思ったよりずっと過酷だった。双葉郡へは海から大きく西側の阿武隈山脈沿いの県道を通って南下した。原発から20km以内となる地点や10km以内となる地点に は警察や消防が立ち入り禁止の表示ととともに通行車両を見守っていた。だが、見守っているだけで、声をかけられることはなかった。浪江町に入ると景色は一変した。道路があちらこちらで陥没している。亀裂が縦に長く走っている。大きな段差が生じている。崩れて道が半分になっている。崩れた土砂が道を狭くしている。いろいろな障害が行く手を阻んだ。人は1人もいない。家の中には洗濯物が干してある。買い物にでも行った様な様子だが、もう住人がいなくなって2週間が過ぎている。
突然、道路に牛の糞がたくさん散らばっている地域が続いた。よく見ると、道の両サイドにたくさん牛が、草を食んでいた。避難した飼い主が、牛が飢えてしまわないように放牧したと思われた。どんな気持ちで牛を放 したのか、想像するとこみ上げるものがあった。双葉町に入って驚いた。常磐線の高架橋がずり落ちて折れていた。復旧には相当な時間がかかると思われた。町の中にもひとりの人間もいなかった。一階がつぶれて二階がそのまま乗った形の家があった。捜索した形跡はない。1階部分に人はいなかったのだろうか。小さなスーパーがあった。店内の電気はついているが人影はない。国道6号線に出た。自衛隊の車が一台、路地に止まって国道を見ていた。ガスマスクをして完全防備の体制だ。でも私の車が通りすぎても顔を向けることもなかった。
双葉厚生病院についた。お目当ての車はすぐに見つかった。エンジンもすぐにかかった。ふと病院の非常口に顔を向けると、衝撃の光景が目に飛び込んできた。たくさ んのストレッチャーや車いす、ギャッジベットが建物の外に置き去りにされていた。大あわての職員が、大勢の横たわる患者を運び出した光景が目に浮かんだ。雨が降り出した。正面玄関の外には、たくさんのいすが並べられ、雨ざらしなっていた。歩ける患者さんを座らせて、避難の車が来るのを待っていた光景が容易に想像できた。よく見ると、院内には明かりがついたままになっていた。そして、職員駐車場と外来駐車場にはたくさんの車が置き去りにされていた。
帰りは、雨も強くなってきたので、来るときに通った県道は危険かと思い、いったん阿武隈山脈を越えて田村市に入り、そこから葛尾村、浪江町の津島(阿武隈山中)から南相馬市のルートを選んだ。双葉町、田村市都路、葛尾村と民家の周りはおろか、時々通り過ぎる緊急車両以外に動く物はなかった。いやひとつだけあった。それは、置き去りにされた、悲しい目をした飼い犬たちであった。
避難とはこういう意味だと改めて思った。本当に危険だから避難したと思いたい。決して念のためなんかであって欲しくない。今後、事故はどうなるか分からないが、残るリスクと、全てを捨てるリスクのどちらが危険か、科学的な正確な説明が事前に、速やかに、必ずあって欲しいと願うばかりだ。
もうすぐ新学期がはじまる。双葉地域並びに南相馬市の小中高の学校は、閉鎖でしょうか。多くの子どもたちが転校せざるを得ない状況になるでしょう。避難の二文字に、なんと重い意味があるのか。痛切に感じます。どうせだから、新学期は9月からにしたらと言いたくなります。そうすれば、年度は世界標準。入試もインフルエンザを考えなくて済みますし、夏休みの有効活用も望めます。留学の障害もなくなります。無理な余談でした。
尾形眞一 |
この記事へのコメント
読んでいて心がとても痛いです。
Posted by ゆうこ at 2011年04月02日 12:49 | 返信
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