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4km地点の病院の真相
2011年08月12日(金)
避難訓練はしていたが「病院丸ごと避難」は想定していなかったと。
重富秀一院長のお話をm3.comの記事から、引用させていただく。
東日本大震災(被災地の現場から)「病院丸ごと避難」、当初は全く考えず-
双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.1
ライフラインは確保、地震直後に帝王切開手術も
2011年8月11日 聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)
福島第一原発事故では、多くの医療機関が様々な形で被害を受けた。その一
つが、福島第一原発から約4kmの場所にある、双葉町の双葉厚生病院。近隣の
福島県立大野病院との統合を4月1日に控えた直前、今回の被災に遭い、入院患
者全員の緊急避難を迫られた。従来から、原発周辺地域では訓練を重ねてきた
が、今回のような事態は想定されていなかったという。「警戒区域」にある双
葉町には今もなお、地域住民は戻れず、病院の先行きは見えない。
事故当時や避難の状況、職員の現状や福島県浜通り地域の医療のあり方など
について、双葉厚生病院院長の重富秀一氏にお聞きした(2011年8月3日にイン
タビュー。計5回の連載)。
――原発事故前、どんな訓練をされていたのでしょうか。
重富秀一氏は、「初期被曝医療機関は、その場にとどまって治療ができるのが
前提。事故で、『病院丸ごと避難する』事態は全く考えていなかった」と話す。
福島県と、原子力発電所立地町村では、原子力災害対策計画に基づき、原子
力災害発生時を想定した防災訓練を実施しています。関係各所の連絡体制の確
認、オフサイトセンターや現地対策本部の運営、住民の避難などです。これと
は別に、当院は初期被曝医療機関として指定されており、そのトレーニングも
実施していました。
――初期被曝医療機関として、どんな体制、設備を用意されていたのですか。
被曝医療と言っても、初期被曝医療。当院が主に担うのは、作業員の外傷な
ど、被曝を伴った傷病者の治療です。東京電力の発電所内でそうした患者が出
た時に、隔離した状態で搬送し、病院の一定区画内で治療するというトレーニ
ングなどをしてきました。サーベイメーターや防護服は備えてあります。ただ、
原発事故と言っても、今回のような大事故は想定していません。
――双葉厚生病院から、福島第一原発の距離は。
約4kmです。肉眼でも、原発の建物が見える距離です。
当院のある双葉郡は、6町から成り、人口は約7万3000人、高齢化率24%。大
学と県と厚生連の三者が協力して地域医療を再構築しようということで、地域
医療再生計画を利用して、病院の再編を進めていました。2011年4月から、当
院と県立大野病院を統合し、再スタートする予定でした。主に入院医療を担う
双葉中央厚生病院と、外来中心の双葉地域医療センターへの再編統合です。将
来的には、410床規模の病院に集約して、一つの大きな病院に育てる予定でし
た。
その直前、まさに準備の最中に3月11日の地震が起きたのです。
3月11日午後7時ごろの総務課(左)。12日午前2時すぎの医事課カルテ庫(右)。
地震で書類が散乱し、足の踏み場もない状態に(写真提供:双葉厚生病院)。
――地震発生時、先生は病院におられたのですか。
私はその時、福島に向かっていました。東京に出張の予定で、阿武隈山地の
中腹ぐらいのところを車で走っており、地震発生後、慌てて病院に引き返しま
した。普通は1時間くらいで戻れるはずのところ、2時間以上かかった。ようや
く病院に戻ることができたのは、午後6時前のことです。道路の亀裂などがあ
り、メーンの道路が通れず、わき道を通ったりしながら、最後は結局、病院か
ら300mくらいのところに車を置いて、歩かざるを得なかった。
当院は海岸から約2kmの距離にあり、津波は病院から600、700mくらいのとこ
ろまで来ていました。副院長や看護部長などが指揮を取り、午後3時30分には
緊急管理者会議を開いています。私が戻った直後、午後6時に対策会議を開催
しました。
――地震による病院の被害は。
物はかなり倒れましたが、診療はできる状態でした。電気は使え、水道はタ
ンクの貯留がありました。ガスはダメになりましたが、地元の農協にプロパン
ガスをすぐに準備してもらいました。MRIは使えませんでしたが、CTや手術室
は使用可能で、午後7時近くには帝王切開手術で女児が誕生しています。
――負傷者はどのくらい受診されたのでしょうか。
地震発生直後から、翌3月12日の午前6時までに来たのは、56人です。重症の
患者さんは4人で、重症骨折+右股関節脱臼、内臓損傷、溺水+呼吸不全の3人
はDMATが福島県立医大に搬送、溺水の1人はドクターヘリで同じく医大に運ん
でいます。
――あまり多くはない。
津波の被害に遭われた方は、たくさんいます。また病院に来る手段がなかっ
た。車を流された方もいるでしょう。道路が地割れしていたので、救急車など
も動けなかったので、自力で来た方が多かった。他の被災地の方に聞いても大
抵そうですが、最初のうちは患者さんが少なく、翌朝から来ている。当院でも
今後、患者さんが増えることを想定して、外来ロビーなどにマットレスを引い
て準備をしていました。ここまでは普通の災害医療への対応です。
しかし、翌朝、明るくなって、「さあ、これから患者さんが来るぞ」という
ことで、体制を建て直していた時に、警察官が病院に入ってきて、「逃げろ」
となった。
3月11日午後10時30分ごろの外来ロビー(左)。マットを引いて、傷病者の来
院に備えていた。12日の0時を回る頃には、DMATが到着(右)(写真提供:双
葉厚生病院)。
――職員の皆さんは、地震当日は病院に泊まられた。
壊れている道路が多く、帰るに帰れませんでした。特に双葉町周辺はひどか
ったのかもしれません。電話で情報を収集したりしていましたが。
――電話は通じたのですか。
何度もかけて、やっと通じるという状況です。
――福島第一原発の状況は把握していたのでしょうか。
誰かが観ていたかもしれませんが、私自身は、テレビを観る暇もありません
でした。そもそも原発事故が起き、こんな状況になるとは思っていなかった。
地震や津波による患者さんへの対応に集中していました。医師もあまり多くは
ないので。しかも、大きな余震が続いていた。
――双葉厚生病院の常勤医は何人でしょうか。
計10人。内科は私も含めて6人、外科1人、産婦人科1人、精神科2人。その
ほか、その時、応援で来ていた先生が、整形外科2人、小児科1人、皮膚科1人。
皆、帰れず、翌朝まで付き合ってくれました。
――平常時の災害訓練の際は、どんなルートで原発に関する情報、連絡が来
ることになっていたのですか。
あまり詳しく決めていなかったのが事実。原子力安全・保安院も、こうした
事故は起きない想定で、「一応、念のため訓練をやろうか」という感じもあり
ました。しかも、福島第一原発の敷地はものすごく広い。放射能漏れと言って
も、その敷地内での放射性物質の飛散しか想定していない。敷地外への飛散を
想定していたら、当院のような原発近くの医療機関を初期被曝医療機関にして
いなかったでしょう。
――他でも、初期被曝医療機関は原発の近くにあります。
そうです。その場にとどまって治療ができる前提であり、「病院丸ごと避難
する」ことは全然考えていなかった。
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