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さまざまな支援の形ー善意の連鎖ー

2011年12月30日(金)

被災地に行かなくてもできる支援の形を模索している。
石巻の大指子供ハウス完成とのお便りには心が和んだ。
また、気仙沼で在宅医療に頑張る村岡先生と大阪北ロータリーのご縁も繋がった。
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大指子供ハウスは、山根さんが中心となって実現した。
今朝、届いたメーリングrストから、経緯の部分を抜粋させていただく。
テレビ放映の動画を見たら、このプロジェクトに協力して本当によかった、と思った。

このブログでも、ご協力を呼びかけたのでご協力頂いた方もおられるだろう。
この場をお借りして、私からもお礼を申し上げたい。

一方、大阪北ロータリークラブからのご厚意は、私、そして黒田裕子さんと繋がり、
村岡先生に渡った。
村岡先生の活躍が今週の朝日新聞に大きく報道されたのでみんなで喜んでいる。

ほんの少しの募金や、ほんの少しの「口きき」でも
ちゃんと形になれば、本当に嬉しい。
「善意の連鎖」というものが本当にある!

山根さんも本当に頑張られた。
支援するのも本当に大変な作業だとよく分かる。
しかし、こんな手作りの支援こそ喜ばれるのではないか。

今後の被災地支援の参考になればと思い、成果を紹介させていただく。

宮城県石巻市の大指十三浜子どもハウスの完成式の様子がTBSニュースで放送されたので動画を以下にリンクいたします。ぜひご覧下さい。

 

http://news.tbs.co.jp/newsi_sp/shinsai2011/tbs_newseye4910352.html

 
PS)
気仙沼にいる黒田裕子さんから気仙沼に来るようにとの電話あり。
どうしようか迷っている。
今日は往診と講演。
明日も仕事。
正月は休もうかな、どしようかな。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

震災直後、このメーリングで、河北総合病院の田口一郎さんの書き込みを読み、被災地へのドコモ衛星電話の手配などのお手伝いをさせていただきました。その衛星電話の設置場所である「石巻市北上町十三浜大指に行くように」と助言をしてくれたのは、東京医科大学病院渡航者医療センターの増山茂教授でした。増山先生は、日本登山学会の支援チームとしていち早く被災地に入り、寒さが厳しい避難所での身心のサバイバル支援をされてきたと伺っています。

 

この三陸海岸の漁村の大指避難所を訪ねたのは、震災の3週間後のことです。

漁港に面した13世帯が津波で全壊しましたが、小さな僻地集落であるため支援がほとんど届いていないことがわかりました。

以降、この漁村に何度も通いささやかな支援を続けることになり、多くのことを学びました。

被災地取材はのべで50ヵ所にのぼっていますが、この大指の皆さんとは親戚のようなおつきあいをするようになりました。

 

3月末までの初期支援では、仲間に呼びかけて粉ミルクやおむつ、生鮮野菜類、ガソリン、バイク、子どもの本、石けん類、下着などを車に積んで届けましたが、2ヵ月を過ぎる頃からは、食器や調理器具、作業用衣類、電動工具など、被災者自身の復旧に必要なものを送るようになりました。

 

水の浄化装置、バイオトイレや風呂の設備なども多くの支援者が届けていましたが、6月末頃から被災者の仮設住宅への入居が始まり、一段落ついたような印象でした。

 

しかし、新たな課題が出ていました。きわめて狭い住宅環境、生活の見通しが立たない日々をここで過ごす入居被災者たちに精神的な不安定が生じていることを知りました。

 

災害対応とはいえ、仮設住宅には被災者の心、コミュニティの維持といった人々がともに生きるための基本的な「思想」がないことも実感しました。これは、阪神・淡路大震災の取材でも胸を痛めたことでしたが、仮設住宅メーカーがその思想の欠落に気づかなかったのはなぜなのでしょう。せめて、仮設住宅の配置を工夫するだけでも絆あるコミュニティが可能なのに……。

 

この大指で仮設住宅の建設が始まる直前に、被災者の皆さんとともに、住宅メーカーの現場責任者と話したのですが、希望はひとつも聞き入られることなく(行政の方針を変えることができないため?)、捕虜収容所スタイルの並べ方で仮設建設が開始され、無念の思いでした。

 

この大指は、人口180人中子どもが45人(0歳児~中学生)という、今の日本では類まれな「多子低齢化」のコミュニティであることには驚きました。約30年にわたり漁業の多角化と技術向上の努力を続けてきた結果、収入が安定し増え、若い世代の漁業者としての定着が進んだのです。

 

「避難所には集会所が必要」という論が出ては来ていましたが、それは「おとな」や「高齢者」の視点のみで、子どもたちに対する配慮は欠けていたように思います。しかし、子どもは、被災地復興では主役となります。

東日本大震災の復興には20年はかかるでしょう。一方、いま小学校の4年生は、わずか10年後には20歳、20年後には30歳です。今、被災地の子どもたちが豊かな学びの機会を得ながら成長する環境がきわめて大事なのです。そう思うにつけ、子どもたちの「日々の心のケア」になる何かが必要だと思うようになりました。これは、医療活動の枠を超えたものと思います。

 

そこで、増山医師や田口氏、さらに私が阪神・淡路大震災直後に提唱し発足、今日も深い交流と活動を続けている地元(東京・杉並区西荻南)の防災チーム(西荻PCの会)などが連携して「大指復興アクション」という組織を立ち上げました。NPOでもNGOでもない、名ばかりの支援の会です。私たちがそこで計画したのが、大指の子どもたちがのびのびと過ごせる「ハコモノ」の建設でした。

 

「ハコモノ」よりもソフトが大事だという意見も外からはありましたが、それは東京の発想です。住宅や遊び場まで破壊されてしまった被災地には、まず「ハコモノ」がなければ話にならないというのが私の思いでした。

 

親しい女性建築家を現地に引っ張っていき、現状をみてもらい避難所暮らしを続けていた被災地の皆さんと話し合ううちに、「夢のおうち」(ドームハウス)がいいね、という意見が大きくなりました。この最初の現地での話し合いを持ったのは、震災からちょうど1ヶ月後の4月10日のことです。

 

しかし、「ハコモノ」支援は必要とする資金が格段に大きく、計画は困難をきわめました。

幸い三菱商事に申請した「災害復興支援金」が通り、さらに日本小児科医会からも「子供のための復興支援金」をいただくことができました。資金計画では、これで「夢のおうち」は着工できるはずでしたが、東北は震災建設バブルで建設費が信じられないほど高騰、建築業者の確保がまったくできなくなっていました。資金もほぼ2倍が必要となり、私たちの力ではもはや実現不可能であることは明かでした。

 

期待をして申請したソフトバンク系の「子どもサポート基金」からは「否決」の通知が届き、もはや計画は断念するしかないと考えました。そこで秋口に現地の皆さんにそのことを伝えに行ったのです。この計画が、私たちの「支援する側の自己満足に陥っている」のではないか、という強い自問自答も続いていました。

 

しかし被災地の女性たちから、「精神的にも、もう限界」「子どもたちだけでなく大人もともに過ごせる場所がない」「ぜひ、作ってほしい」という切実な声を受けました。この日、東京に帰る道すがら、「強引に計画を進めよう」と決意し、建築開始のGOを出しました。以降、企業や社会貢献団体などに設備や資金の呼びかけを続けた結果、各地のロータリークラブやライオンズクラブの理解も得られ、少しずつ資金を得ることができました。私が毎週行っている獨協大学の講義では、出席カードに混じって1000円の匿名の募金があったのには感激しました。

 

 

こうして紆余曲折をへて、20111222日に現地で「大指十三浜こどもハウス」の竣工式を迎えることができました。

子どもたちへの「ハウスの鍵の贈呈式」の後、ハウス内になだれ込んだ子どもたちを待っていたのは、大きなクリスマスツリーの回りに支援の皆さんが用意してくれたたくさんのプレゼントでした。屋内には予算不足からイスもテーブルもなかったのですが、それがかえってよかったようで、ちょっと広い室内を歓声をあげながら走り回る子どもたちの姿をみて、強引に計画を進めてきてホントによかったと実感しています。若い母親たちが、「子どもたちも鬱屈とした日々を送ってきた」「幼児がはいはいをする場所もなかった」と、これまでのことをふり返り、喜ぶ子どもたちの姿を見て、とても嬉しそうでした。

 

年末を迎えテレビは被災地をテーマにした番組を放送し続けていますが、被災地の苦しさを伝えるものが中心です。その記録は大事ですが、被災地だからこそ、より明るい希望が見えるムーブメントが必要だと思うのです。私たちが何とか巨大災害の年の年末ぎりぎりに完成できた「大指十三浜こどもハウス」は、その被災地に一番大事な、私たちなりの明るい希望のかたちの提案です。

 

被災地の支援にはさまざな形があるのは当然ですが、災害発生から2~3ヵ月も過ぎると、支援する側も息切れがしがちです。

実際、大指では、被災直後にはたくさん来訪していたボランティアの姿が半年も過ぎるころからめっきり減りました。仕方ないことではありますが、それは被災者にとっては大きな淋しさや不安につながります。私たちが目指してきたのは、単に「頑張ろう!」とイベントなどを行う「瞬発支援」ではなく、5年、10年先まで被災地の皆さんとともに希望のある復興をともに進めていく「継続支援」です。

 

そのために「大指十三浜こどもハウス」がどう機能してくれるのかは、まだ未知数です。しかし、やっとそういう「継続支援」の出発点に立つことができました。まだまだ資金は不足しており、幅広い支援をお願いしながら、これからは多種多様な子どもたちのためのプログラムを実現していかなくてはなりませんが、力不足です。東京からはクルマで行くことも多いのですが、いつも走行距離は往復1000kmです。そう頻繁に出かけるられるわけでもありません(新幹線と仙台からのレンタカー往復4時間の日帰りはずいぶん続けましたが)。

 

このメーリングにお招きいただいたおかげで、ここがきっかけとなって大指復興アクションが発足、「大指十三浜こどもハウス」が竣工できたこと、上先生を初め皆さまに心からの御礼を申し上げると同時に、みなさまの今後のお力添えをお願いする次第です

 

以下に、「大指十三浜こどもハウス」の竣工式を中心とした3日間を約180枚のスライドショーとして公開しましたので、ご覧いただければ幸甚です。

 

http://www.yamane-office.co.jp/index.html

 

http://www.yamane-office.co.jp/oozashi.html

 

 

 

大指復興アクション・代表世話人

山根一眞

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