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憲法記念日の意義
2012年05月04日(金)
その意義を深く考えることなく、ただなんとなく生きている。
憲法とは変えてはいけないものだと、知らない間に思い込んでいる。
年を経ることに、少しだけ憲法を覚えていく。
記憶力が低下するので、断片的にしか頭に入らない。
最近は尊厳死法制化の関係で、「幸福追求権」を覚えた。
覚えたのはいいが、はたしてこれが本当にどんな意味を持つのか。
あるいは、生活保護との関係を、どう考えればいいのか。
正直、よくわからずに生きている。
この年になって、憲法を知らないのは恥ずかしいことだ。
恥かきついでになんのための「祝日」なのかも知らない。
と、思っていたら、西村真悟氏の書かれた文章が流れてきた。
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◎西村真悟 「憲法記念日」の意義
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五月になるとやってくるのが「憲法記念日」である。
それ故、その特異な意義について書いておく。
そもそも「記念日」とは、かつてその日にあった歴史的な出来事を「祝う」祝福の日であり、それによって国民、民族の歴史的記憶を継続させる意義がある。
しかしながら、五月三日の「憲法記念日」は、昭和二十二年五月三日の、日本国憲法施行という歴史的な出来事を「祝う」のではなく「こんちくしょうー」と悔しがり、日本国民、民族の歴史的屈辱の記憶を継続させることに意義があるのである。
この日によって我々は、敗戦とそれに伴う軍事占領という屈辱の歴史の記憶を継続させることができる。
昔、薩摩では慶長五年(西暦一六〇〇年)の関ヶ原の敗戦の日、九月十五日に、若い武士達が
「チェストー、関ヶ原」(ちくしょうー、関ヶ原)というかけ声をかけて木剣を振り回し、敗戦の屈辱を忘れず、士魂を練った。この魂が幕末維新の原動力となったという。
薩摩藩では、鹿児島と名は変わっても、この風習を、昭和になっても続けていたという。いや平成にもまだ続いているかも知れない。
つまり、「憲法記念日」とは、この「チェストー、大東亜戦争」、「チェストー、マッカーサー」、「チェストー、アメ公」、「チェストー、露助」、の日なのである。
私は、ここに五月三日の「憲法記念日」の意義を認める。
従って、我々が敗戦によって科せられた
「日本の永久弱体化の桎梏」を解き放ち、
真の「国家の再興」を果たしたときに、
この屈辱の「憲法記念日」は廃止されるべきものである。
しかるに、昨今、昭和二十七年四月二十八日のサンフランシスコ講和条約発効日を記念して「主権回復記念日」という祝日を制定しようと願う人々がいる。
そこで言っておく。
論者は、四月二十八日に「主権回復記念日」を制定して五月三日の「憲法記念日」をそのまま残すつもりなのか、と。
両者の同時並立は、不可である。
「主観回復記念日」というならば、主権を奪った象徴としての日本国憲法の無効を確認し、「憲法記念日」を廃止することを同時に掲げるべきである。
いや、実質の伴わない「主権回復記念日」など、どうでもよい。何よりも、日本国憲法無効確認とその記念日の廃止、そして国軍の創設こそが、「主権回復」の実質ではないか。
来る五月三日、この「意義」ある「憲法記念日」を迎えるに当たり、玄関に主権の象徴としての「日の丸」を堂々と掲げよう。
その日を祝うのではなく、占領期の屈辱への半旗として。
そして、薩摩のように、チェストーとかけ声をかけて日本刀を振り回そう。(別にお勧めしているのではない。薩摩がそうやっていたなーと回想しよう)
次に、今までの繰り返しにもなるが、「日本国憲法」という文書について少し触れておきたい。
とはいえ、いま「文書」と書いたが、正確には「怪文書」と言うべきであろう。誰が書いたか分からないようにした文書だからである。
しかし、「日本国憲法」と表題を付けた以上は、日本国民が書いた文書とされていることが当然だとするならば、この「日本国憲法」は、明らかに「怪文書」を通り越して「偽造文書」である。
(1)、「日本国憲法」は、偽造文書である。
(2)、「日本国憲法」は、東京裁判の起訴状を補強する文書である。
以上のうち、(1)は、連合国自身の「検閲事項」が先行自白している。(2)は、日本国憲法と東京裁判の日付けで分かる。
連合軍は、我が国を軍事占領してから我が国の言論を検閲によって徹底的に封圧した。その「検閲指針」の最重要項目は、次の冒頭の二つである。
1、極東国際軍事裁判への批判
1、連合国最高司令官司令部が日本国憲法を起草したことに対する批判
つまり、連合国にとっては、東京裁判と日本国憲法施行は占領政策の最重要課題であり、東京裁判の起訴状と日本国憲法は、ともに連合軍最高司令官司令部が書いたのである。即ち、東京裁判の起訴状と日本国憲法は、時を同じくして同一主体が書いたのだ。従って、起訴状と憲法はその内容も、見事に一致している。当たり前だ。
次に、両者の日付けであるが、
東京裁判に関して
昭和二十一年四月二十九日、起訴(昭和天皇誕生日)
同 五月三日、審理開始
同 二十三年十二月二十三日、七人同時処刑(皇太子誕生日)
日本国憲法に関して
昭和二十一年十一月三日、公布(明治天皇誕生日)
同 二十二年五月三日、施行(東京裁判審理開始一周年)
ここに日付けを書いたのは、連合国最高司令官のマッカーサーという男が実にいやらしい性格で、日付けにこだわって日本国民の「祝日」を忌まわしい記憶に置き換えようとしたことを理解するためである。
その極めつきが、フィリピンのバターン半島コレヒドール島から彼が敗残の将として八万弱の部下を見捨ててオーストラリアに逃げ出さねばならなくなった時の、敵の軍司令官である本間雅晴中将に対する復讐である。
マッカーサーは、昭和二十年九月に勝者として日本に飛来するが、乗ってきた飛行機の名はバターン号、つまり彼が逃げ出したバターン半島にちなんだ名だ(アホか、こいつ)。
そして、さっそくフィリピン戦線で投降した山下奉文大将と本間雅晴中将の裁判を開始する。
山下奉文将軍に対しては、昭和二十一年二月二十三日に早速、囚人服のままという屈辱を与えて絞首刑を執行して殺害する。
次に、本間雅晴中将に対してであるが、
昭和二十年十二月十九日、裁判開始
同 二十一年二月十一日、死刑判決(紀元節)
同 四月三日午前零時五十三分、銃殺
この本間を銃殺した昭和二十一年四月三日午前零時五十三分こそ、四年前に本間中将がマッカーサー等が退却して立て籠もるバターン半島に対する総攻撃を命じた昭和十七年四月三日午前零時五十三分にぴったりと符合させた日時である。
マッカーサーとはこういう男だ。これで私が、日付けを書き連ねた意図をご理解いただけると思う。
マッカーサーの頭の中では、「五月三日」はどういう日か。ご想像いただきたい。
日本人にとっては、「チェストー、五月三日」だ。
次に、内容について少し触れる。
先日の四月二十八日、たちあがれ日本の平沼赳夫代表が、日本国憲法前文を「これを読めば涙がでますよ」として前文の「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公平と信義に信頼して我らの安全と生存を決意した」という第三節を紹介された。
実に、涙がでる。
さらに付け加えるならば、「こんちくしょうー」と刀を抜いて斬りつけたくなる。
前文第一節は、「日本国民は・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍の起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し・・・」と書いている。
この第一文と平沼代表の指摘された第三文を総合すれば、
「日本国民は・・・主権者であるが、無能でその資格がないので、日本国民の政府は国民に戦争の惨禍を与える。従って、日本国民は自分の政府を信頼することなく、平和を愛する諸国民を信頼して安全と生存を保障してもらうべきだ」という意味にまごうことなくなるではないか。
涙がでるのを通り越して、怒髪天を突くではないか!
さらに、この第一節と第三節の間に潜り込まされた第二節は次の如くである。
「そもそも国政は・・・その権威は国民に由来しその権力は国民の代表者がこれを行使しその福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理でありこの憲法はかかる原理にもとづく・・・我らはこの原理に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」
これはつまり、日本は敗戦によって人類普遍の原理に基づく要になったのであるから、人類普遍の原理に反していた戦前の憲法、法令及び詔勅は排除された、ということである。
以上の通りの憲法前文を総合すれば、これは、連合国側から書かれた東京裁判の起訴状に対する、日本側から書かれた見事な補強文書と位置づけられるのである。
よって、来るべき五月三日は、早朝より、
占領期の屈辱への半旗として玄関に日の丸を掲げよう。
私はこの日、札幌において講演することになっている。
そこで、札幌の「赤の広場」(大通り公園)を歩き、
「日本国憲法無効を確認する憲法記念日」を祝う。
そして、☆マークのサッポロビールを飲む。
このビールは維新の後、薩摩藩士が創設したビールだから。
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この記事へのコメント
西村弁護士は、この文章をいつ書かれたのですか?
確か、衆議院か、参議院か辞めさせられていらっしゃるんでしたね?
確か、尖閣列島にも、上陸なさったんでしたね?
「中国が攻めてくるから、憲法を変えよう」という趣旨かと思いましたが、アメリカが憎いから、憲法を変えようと言う趣旨なのですか?
関ヶ原で負けた薩摩藩と、徳川幕府の関係が、日本とアメリカの関係と同じだという事ですか?
西村弁護士は「親米右翼」かと思いましたけど「反米右翼」なんですね。いまどき、めづらしい。
私は、、それまで、モンロー主義で、他国には干渉しないとして、イギリスのチャーチルの度重なる対ドイツ戦にも冷淡だったアメリカが、日本軍の真珠湾攻撃で、待っていたかのように、一気に、対日、対ドイツ戦線に出てくる戦略は見事だと思います。「皮を切らせて、骨を切る」やり方でした。
現代日本も、できればこの様に、戦いたいと思います。
Posted by 大谷佳子 at 2012年05月06日 01:07 | 返信
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