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終活
2012年09月17日(月)
太田秀樹先生が、いつから、なぜ最後の場所が病院になったのか話された。
お坊さんや市民の意見も加わり、面白いシンポだった。
「終活」
認知症患者さんの施設での終末期の経過
・徘徊の頻度が減る
・ソファーでうたたねすることが増える
・徐々に食べなくなる
日本老年医学会が終末期のガイドラインを
出した意味は大きい。
・水分、人工栄養からの撤退もあり得る
・本人や家族が話しあうこと、
・みんなが納得するが重要。
「延命医療の選択」ではなく
最後の生き方の選択が終活。
さて、いつから終末期が問題になっているのか。
=1970年代から始まっている。
高度先進医療への疑問がその時代から提起されている。
1973年 老人医療無料化政策
1975年 病院死と在宅死の割合が逆転した年
1976年 日本尊厳死協会発足
1990年「寝たきり老人のいる国、いない国」大熊由紀子
1996年 「病院で死ぬということ」山崎章夫
2005年 「満足死」発刊
現在、高齢化率24%を
CTスキャンの歴史(医療の高度化)と並行している。
1975年 東芝CT
1979年 医師国家試験にCT読影が初登場。
「文化としての在宅看取り」を太田先生は提唱されている。
感染症患者さんんの死体の処理=そもそも病院のはじまりだったと。
しかし病院の世紀の理論(猪飼周平)には、
「もう病院の時代は終わった」、と書かれている。
要は、1970年代に日本は間違ったのだ。
胃ろうは、造設する時期が大切
急性期の造設は問題ないとして、
つけた瞬間から外す努力をするのが医療者の務めであると。
家族が胃ろうをするかしなか、
決められないという現状が問題と指摘。
(世間体を気にする)
PS)
帰りの飛行機は、悪天候で出発遅れに加えて
大揺れだった。
さあ、これから仕事だ。
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この記事へのコメント
自分の終末期医療意思表示文書を作成していて、そのフォーマットを見ていてなるほどなぁと思ったことがあります。
まず、終末期とは何かが定義されていて、それがとてもわかりやすかったです。終末期とは、「よくなる見込みがなく、まもなく死ぬだろうという状態」、あるいは「意識不明の状態で、意識を取り戻す可能性が見込めない場合」。
第二に、終末期医療には2つのチョイスがあること。
チョイス1:延命のための治療を望まない。
チョイス2:可能な限り死期を遅らせるため、延命治療を望む。
最後に、延命治療をしない場合は、苦痛を緩和するための医療措置(緩和医療)をどうするか考える必要があって、「苦痛を緩和するための医療措置を希望する。それが死期を早めることになっても構わない」か「苦痛を緩和するための医療措置を希望しない」かどちらかを選びます。
終末期医療にはいろいろな要素があるために頭がごちゃごちゃになってしまいがちだったのですが、このように3段階に分けて手順を踏んで考えていくことで、頭の中がかなり整理できるなぁと思いました。
あと、このように整理して考えると、自分が今置かれている立場を勘案して、どうしたいかを決められるのもよいと思いました。例えばご家族のために、あるいはどうしても仕上げたいお仕事のために、何をおいても延命の可能性に賭けてみたいと思われる方もいらっしゃるでしょう。そういう方は、チョイス2を選ばれると思うのです。何を一番大切にしたいかは、個人個人違うだろうと思います。でもその人ごとの「一番大切なもの」を終末期(その方の人生の終わり)にできるだけかなえてさしあげたいと思うし、自分の「一番大切なもの」も守ってもらえるとうれしいと思います。
Posted by ノンノン at 2012年09月18日 01:58 | 返信
太田秀樹医師の隠れファンです。とても分かりやすくまとめて下さり、腑に落ちました。有難うございます。結局は医師との信頼関係を土台にした患者・家族の覚悟次第だと(世間体なんのその)。
ノンノン様も有難うございます。
最後に書かれたとおり、私も忘れられない本の一節があります。
これも隠れファンである平方真医師が書かれた『がんになってもあわてない』に出てくるエピソードですが、終末期における一人一人の願いは、こんなにも他からはうかがい知れず、しかも愛情に満ちているんだということに気付かされ、深く心に残りました。
◇ ◇ ◇
平方先生は2002年8月、今井澄医師(諏訪中央病院の院長の後、参議院議員として医療・社会福祉に取り組まれた)の最後の一か月を主治医として担当されたのですが、主治医になった時ワープロで作成した詳しい経過を手渡され、書かれていた抗がん剤治療について尋ねると
「僕は抗がん剤の治療を積極的に受けたくはなかったけれど、五月の時点で主治医に七月末まで生きているためにはどうすればいいかと聞いたら、抗がん剤をやった方がいいでしょうといわれたんです。それで抗がん剤を一回だけ受けました。というのは、七月の末で国会議員になって丸十年になるんだけれど、そこまで現職でいれば、年金を受ける権利が出来るんです。諏訪中央病院で働いていた期間があまり長くなかったので、病院の年金ではほんとにわずかで、家内にまた大変な思いをさせてしまう。だからどうしても七月末までは生きていたかったんです。でもそれも過ぎましたから、思い残すことは一つもありません」(p196)
Posted by 梨木 at 2012年09月18日 08:20 | 返信
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