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産経新聞抗がん剤シリーズ第１４回　　完璧な死に支度

　抗がん剤中止後の終活

「まさか桜の花が見られるとは」。老人ホームを３月末で退職することになった末期の肺がんのＡさん（５８歳、男性）は、そう呟きました。自らの意思で抗がん剤を止めてから、みるみる元気になりました。しかしＡさんは、その頃から粛々と「死に支度」を始めました。持ち物を知人にあげはじめました。「俺が死んだらどうせ捨てられるやろ。もったいないやんか」。Ａさんはギターの名手でした。しかし愛用のギターや小物も訪れる友人にあげていました。「もらってくれるなら誰でもええわ。お棺に入れて燃やすよりもええやろ？」。死ねばそうなると分かってはいても、なかなかできないのが人間というものでしょうが。

　ある日訪問すると、新しい下着一式が置かれていました。触ろうとすると「それは、あげへんで！」と。「それは俺が死んだときに、着せてもらうやつ」とのこと。「自分では着られへんやろ。着せてくれる人も汚い下着やったらイヤやんか。だから新しい下着を買ってきてもらったんや」と。笑顔でそう答えられました。かたわらには葬儀屋さんのパンフレットと領収証もありました。「葬式の中身も支払いも、もう全部終わってん」と言い放ちました。１週間後に行くと、今度は「焼き場」の領収書まで置いてありました。「焼き場代も先払してきた。これでもう誰も困れへんやんか」と。さらに翌週、訪問すると、今度はお寺の領収証も見えました。お骨を入れるお寺の小さなコインロッカーのような箱の契約を早々に済ませて、永代供養料まで払ったとのこと。世の中、終活ブームですが、さすがにそこまで準備した人を初めて見ました。唖然としていると、「なんでえな。みんなどうせ死ぬやん。でもちゃんとしとかんと、死んだ時にみんなが困るやん」と。たしかにそうですが、それを実行できる人は私の経験では極めて少ないのが現実。

　Ａさんには３人の子供さんがいますが、全くあてにしていません。子供さんたちにお会いしましたが、みなさんとても穏やか。「親父の好きなようにしたらいい。子供としては親の気持ちに寄り添うだけ」と淡々と話されました。訪問からの帰り際、Ａさんが珍しく私に聞いてきました。「先生、俺、あとどれくらいで死ぬの？」。「さあ、分からんわ。でもまだまだ大丈夫ちゃうのかなあ？」。本当は全然大丈夫でなくても、私はそう答えることにしています。「先生、綺麗ごとやなくて、ホンマのこと言ってーや」。「分かっとるがな。でも本当のところは、貴方は例外やから先生もよう分からんのや」。思わず、本音で返してしまいました。ヘルパーさんや友人たちは、２人の会話を呆れて見ていました。

　「ところで、なんでそんなこと心配するの？」。「あんまり言いたくはないけど・・・」。「言いたくないって？？」。「実は、貯金をおろして全額寄付したんや」。「寄付？」。「そう、外国の難民活動をやっている団体に寄付したんや」。「・・・・」。またまた驚きました。普通のひとは、お金を子孫のために残します。しかしＡさんは、ほぼ全財産をお気に入りのＮＰＯに寄付してしまったのです。「先生、ワシ、もし春を過ぎても死なんかったら現金がゼロになるから、ちょっと養ってくれるか？」と。「・・・」。（続く）

キーワード　終活

「人生の終わりに向けた活動」のこと。人生の最期を迎えるにあたって行うべきことの総称。生前のうちに自身のための葬儀やお墓の準備、財産相続などをノートに書き残す人が増えている。