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議論の本質はココ

2014年02月19日(水)

尊厳死に関しては、いろんな人からいろんなご意見をいただく。
ああちゃんと分かっているなと思う人と、何も分からずにイメージで意見される人がいる。
実は議論の本質は現状のマスコミ報道の遥か彼方にあるのだが、そこまで行けない・・・
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匿名」さんの以下の書き込みに対して、
このブログの読者の意見を聞きたいです。
どうか自由に、しかしよく考えて書きこんでくださいませ。

安楽死と尊厳死の距離感について質問させて頂きます。

1)かなり近い
2)まったく別のもの
3)どちらとも言えない

なおメデイア取材は、すべてお断りしています。
これまで無茶苦茶な報道ばかりでしたから。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

尊厳死法案が法制化された場合、年間の自殺者を大きく減らすことができるのだろうなと私は日本の明るい未来を想像しております。ただ、その一方で、終末期ではないけれども、悩んでいる人々、例えば、認知症や精神疾患、アトピーなど、命にかかわらない病気で悩んでいる方々の自殺を減らすことはできないような気がします。自殺者数をゼロに近い状態にするには尊厳死法案ではなく、安楽死法案が必要なのではないのだろうかと疑問に思っております。ベルギーやオランダの国民は「安楽死と自殺は対極にある」と考えており、個人の意思が非常に大事にされ、「安楽死も個人の尊厳の範疇にある」と考えているようです。長尾先生が安楽死に反対なさっていることは存じておりますが、先生のような立派で尊敬すべき方が、安楽死に対して理解を示してくださったら、どんなにか心強いだろうにと残念に思っております。

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※本ブログは転載・引用を固くお断りいたします。

この記事へのコメント

安楽死と尊厳死。そもそも根本から違いますよね。

命とは何ぞや?
一度、手に入れた命を決して、人の手で操ってはいけない。

「精神疾患や皮膚疾患等で苦しんでいる人。
安楽という言葉を使うのならば、死という選択以前に支援体制等のフォローで安楽な生活を支えるべきであると思います。

「尊厳」と「安楽」言葉だけでも全然違う。

安楽を望むなら、命という尊厳を守れ!といいたい。

Posted by ままさん at 2014年02月19日 11:15 | 返信

私は尊厳死と安楽死は出発点が違うと思います。
尊厳死とは、高度に発達した医療の為に、却って苦しい延命治療を強いられている患者さんを、本来の自然な看護や緩和医療を用いて、穏やかな生を全うできるように看取ることだと思います。
安楽死とは、何らかの事情で、緩和医療を知らないか、利用できない状況で、医師や他人の手を借りて「自殺する事」と思います。
ですから、両者は本来は全く違う概念だと思います。
でも、消極的安楽死であるとか、何らかの状況では、似てくるので、どちらとも判別できない可能性はあるかもしれません。
ですから、できるだけ、リビングウイル(尊厳死の宣言書)を作成して、近親者に意思を明確にしておく事が望ましいと思います。

Posted by 大谷佳子 at 2014年02月20日 03:00 | 返信

安楽死と尊厳死の距離感は、日本尊厳死協会へ登録している方々にとっては「2)まったく別のもの」だと思います。
死にゆく過程を身近なものとして考えたことがない方々や、心臓が止まる瞬間まで最先端のあらゆる治療行為を含む医療を施すことが「人として成すべき道であり親孝行・子孝行である」と考えている方々にとっては、安楽死も尊厳死も「1)かなり近い」というより「同じ」なのだと思います。

安楽死も尊厳死も、どちらも本人あるいはその代弁者が意思表示するものであり結果も同じ「死」です。
私は、安楽死は致死量の睡眠剤や薬物を投与するなどして、死ぬ時の苦痛は軽減するけれども積極的に死をもたらす行為、と捉えています。安楽死が法制化されるということは、今の日本人の感覚からは合法的殺人・自殺幇助が可能になるのと同じだと思います。
尊厳死は、十分にインフォームドコンセントが成された上で、緩和医療を含めた本人が希望する医療行為は施すが本人が希望しない医療行為を強制しないこと、であってほしいと、願っています。これは、日本尊厳死協会による尊厳死の定義とは少し異なると思います。
尊厳死に至る最後の最期で安楽死を選ぶ、あるいは結果的に安楽死と同じことになる場合があるのだろうな、と思います。

じっと考えていたらよくわからなくなってネットを探ると、「尊厳ある死・安楽死の概念と区分」というサイトに目が入りました。以下は引用です。
「尊厳ある死」(Death with Dignity -本来の意味での「尊厳死」) とは、人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて、「人間として」死に到ること、ないしそのようにして達成された死を指す。
こう理解するなら、「尊厳死は倫理的に許されるか」と問う必要はなく、定義からいって尊厳死は目指されるべきこととなる。i.e. すべての死は尊厳死であるべきなのである。
i.e.これは目標ないし理念をあらわす概念である。
これに対して、「尊厳死を実現するにはどのようにすればよいか・するべきか」が問題となる。ことに「死」以外に人間らしさを保つ方途がないと判断 される場合に、意図的に死をもたらすことが「安楽死」と呼ばれる。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/cleth-dls/euthanasia/index.html

感心しながら読んでいたら、このサイトの運営者は、日本老年医学会が胃瘻などの差し控えを選択肢として公認した「高齢者の人工的水分・栄養補給の導入をめぐる意思決定プロセスガイドライン」の原案をとりまとめた研究者とのことです。

Posted by komachi at 2014年02月20日 03:40 | 返信

ママさんからの反論は「安楽死制度の設立を求めるなら、命の尊厳を守れ!と言いたい」という意味と理解して宜しいのでしょうか?本人が死を望んでいる場合に限りますが、命とは他人の自己満足のために存在させるべきものではないのではないのではないかと疑問に思っております。また、自殺の要因は、福祉の充実だけで解決できる悩み事ばかりではないので、どうしても苦痛を取り除いてあげられない人は出てくるのではないでしょうか。

Posted by 匿名 at 2014年02月20日 07:35 | 返信

3) どちらともいえない

私が勉強不足なので、そう思うのかもしれません。

安楽死を薬品などを投与して死期をコントロールするのか、一度つないだ延命装置を外して死期を早めることも含まれるのか。 どちらにおいても、本人・家族の意見があり、大病院で複数名の医師の確認によって、認められるべきものであってほしいと思います。

尊厳死は、最期まで治療をするのではなく、始めから死と向き合い、可能ならば受け入れ、無理なことはしない。人間らしく最期まで過ごすことを目標とするもの、かな・・・と私は思っています。

これは、上手くいけばであり、本人の望みどおりに尊厳死できる場合ばかりでもないでしょう。

望んでいないのに、突然の事故で大病院に運ばれてしまい、装置につながれてしまったら?ボケてわからなくなり、在宅を望んでいるのに、家族に病院に入れられてしまったら?
そんな場合は、人間として最期をその場で、考えるというのならば、安楽死はひとつの選択になりうると思います。 

もちろん、家に帰り尊厳死が可能な状況に落ち着けばいいのですが、病院が出してくれない、または家族が受け入れられない場合などもあるかもしれません。

もし自分なら?
動くことができず、体中がかゆかったり、床ずれで痛くて仕方ないのに、栄養剤を流し込まれて生かされているだけならば? 

治るはずがないと皆がわかっていても、家族に負担がかかり家に帰れず、医師も装置を外すことで訴訟を恐れていれば、誰にもどうにもできなけば? 

例えば、尊厳死をお願いしても、それを医師が受けれいれなければ?

そこに病院で「安楽死」というカテゴリーにより、合法であり、医師も病院も訴訟に巻き込まれず、家族も後ろ指を刺されないということならば、私はお願いすると思います。 言葉は違えど、それは尊厳の一部であると感じます。

昨年、尊厳死協会に入会をしようとしましたが、書かれている事項に対し、自分ならこういう部分を加えたいと、記入したところ、入会拒否されました。 団体として大きくなれば、個々への対応ができなくなることは理解できますが、その流れに対して、私自身は受け入れがたいものでした。

尊厳も安楽も、その場その場の対応に応じて、使えるようになればいいのではないかと、ゆるい考え方なのだと思いますが、そう感じています。

Posted by よしみ at 2014年02月20日 11:38 | 返信

質問での私の選択は3)どちらとも言えないです。

私の中ではすべての人に尊厳死が与えられ、その中のひとつに安楽死があると思います。
他に平穏死や自然死もあります。
ずーっと昔は、切腹が許された時代がありました。
武士の切腹は尊厳死なのかなと思ったりして・・・・・

人間は生を受けた以上、絶対に死にます。
毎日毎日、死に向かって一方通行で歩んでいるんです。
どのように歩むかは、その人の考えで、時には家族の考えでいいと思います。
以前読んだ本に“人生のドライビング”と表現が印象に残っています。
人生をどう運転するかは、人それぞれです。
寄り道しても、迂回しても、立ち止まり避難してもいいんですって。
わからない時や困った時は、人に助けを求めても尋ねてもいいですって。
ただバックだけはできない。
そして法律や規則が付きまとう。

将来、私は私なりのリビング・ウィルで逝きたいです。
その時が来るまでは、イキイキ活きたいです。

Posted by rara at 2014年02月20日 07:39 | 返信

「安楽」に「死」をつけて安楽死という言葉さえ、私には理解できないんです・・・
ですので安楽死の設立?自体、考える必要はないと思っています。

もちろん他人の自己満足のための命ではないですよ。
しかし本人の自己満足を叶えるために、安楽死、自殺するなんて更におかしな話ではないかと。

そして福祉等の支援が万全ではない。これはよく理解できます。
だからといって、死を選択する?冗談じゃない!安易に考えすぎです!

辛い状態で更に最後に死を選ぶ。何も安楽ではないでしょう。

果たしてそれが【平穏】ですか?
平穏かどうかを、まず考えると少なからず答えは見えるのではないか?と思います。

もっともっと人の死というものを、心と体の全体で感じることが出来た時に自ずと答えは見えてくる気がします。

私も大勢の死に立ち会いました。その上で感じたこと。
「死を選ぶ前に、その一歩手前にある目の前の事柄に全力で挑みたい」
それが尊厳への一歩。平穏への一歩。

自分の死を考えることに楽しみを持ちたい。
最近エンディングノートというやつを買いました。
書き込んでいる間なんだかワクワクしている自分がいます。

Posted by ままさん at 2014年02月20日 09:10 | 返信

人によっては気分の重くなる内容のため、コメントとして投稿するか否かは先生の判断にお任せいたします。

医療の中には「予防」も含まれるようですが、医療に携わる方々にとって安楽死制度は予防とはみなされないのでしょうか。日本は安楽死が非合法なので医師にDignitasへの紹介状を書いてもらうことができません。ドイツ、フランスなどと違い、Dignitasに協力する病院も日本には存在しないため、日本人の場合は1人で自殺するしか方法がありません。自殺未遂率が約90%?なのであれば、自力で死ぬことはかなり難しく、後遺症が残る可能性が非常に高いのではないかと思います。安楽死制度は死を望んでいる人に怪我や病気をさせない、1番良い予防方法なのではないかと疑問に思っております。私が昔、通院していた病院で、何故、安楽死制度は認められないのか聞いてみると「それは政府の決めることなので医者に聞く質問じゃない。」というご回答でした。医療関係者の立場からみると安楽死制度は予防とは言えないのでしょうか。以下はDignitasについて書かれた論文の一部です。

2008年、イギリスから次のような e メールがディグニタスに届きました。そこに述べら れているような帰結を承知で自らの意思を実現するよう強いることが、人間的と言えるで しょうか?
「ディグニタス御中
私の名前は◯◯です。19歳でスコットランドに住んでいます。 2ヶ月ほど前に死のうとして高層駐車場から跳び下りましたが失敗し、死ぬ代わりに病院のベッドからこのメールを書いている次第です。両足は押しつぶされ、片脚・膝・仙骨(骨盤の一部)は折れました。もっともひどいのは、背骨が3箇所折れたため、両脚が幾分麻痺してしまったことです。故郷のエディンバラの病院に6週間入院した後、グラスゴーにある背骨の機能回復が専門の病院に転院しました。ここに6週間入院する必要があり、また一生、車椅子暮らしだと言われました。性的機能も失っていて、これは回復しそうにありませんし、腸と膀胱のコントロールにも大きな問題を抱えています(腸と膀胱の動きが感じられないのです)。もともと自殺しようとしていたのに、この若さで一生、障害を持つことになってし まいました。こんな人生には本当に耐えられません。まだ19歳なのに、あと60年間、車椅子での暗い生涯が待っているのです。身体的な苦痛は耐えられる時もあれば、まったく耐えがたい時もあります。痛みは時とともに薄れるかもしれませんが、それも確実ではありません。ベッドの中で動かされたり、車椅子へと持ち上げられたりする時などに、痛みのために叫んでしまうことが毎日何度もあります。 自分の命を絶ちたいという気持ちは揺るぎないものですし、自死の権利があるはずだと信じていますが、私の自死を援助していただけるか、お尋ねしたいと思います。初めての自死が失敗し、とんでもない結果になってしまったので、もう怖くて自分でやろうとは思えません。さらに車椅子からとなると、自死ははるかに困難になるでしょう。私の住んでいる英国にもっと思いやりがあって、死なせてくれればいいのにと思います。お返事をお待ちしています。」非常に苦しんでいる動物は殺しているのに、非常に苦しんでいる人間からは、失敗して 障害を負ってしまう途方もないリスクを犯さずに自ら命を絶つ可能性を奪うことが倫理的 に望ましいのか、ここでぜひ問わねばなりません。苦しんでいる動物に対して行なえば人 間的と呼ぶことを、苦しんでいる人間に対して行なえば非倫理的となるようでは、支離滅裂と言わざるを得ません。特に動物は人間の言葉で思いを伝えられ「ない」のに対し、人 間は自らの意志を明瞭に告げることができるのですから、そうした対応の差はおかしいのです。

Posted by 匿名 at 2014年03月02日 04:06 | 返信

私も、自分が「平穏死」あるいは「孤独死」ができないのなら、自殺するしかないなあと思う事はあります。
自殺するので一番楽なのは、冬山で、凍死するのが、眠っているうちに死ねるから楽だと聞きましたが、救援隊のかたや、山村のボランティアで捜索して下さる方達に迷惑がかかるし、冒涜ですよね。
なんとか、一発で死ねる方法は無いのですかね。
友達が「リストカットをして死にたいと何度も思ったのよ」と腕の傷を見せてくれました。でも今は2人も男の子を生んで、旦那を、おしりに敷いて幸福に暮らしています。
19歳で、なんで自殺しようと思ったんだろう。それが知りたい。
でも、これだけの文章が書けて、他人に読ませるのだから生きて行く力がある人だと思うけど。
難しい事は分からないけど、平穏死はしたいけど、安楽死は認めたくないですね。

Posted by 赤毛猫 at 2014年03月03日 02:02 | 返信

「安楽死制度」は終末期でない患者の「予防」にはならないのでしょうか。以下は医療の現場について述べられているレポートの一部です。

現代の日本の精神医療のいいかげんな理由 

 いいかげんな治療が許される日本の精神医療の一つの原因としては、圧倒的に訴訟が少ないというのがいけないのだと思います。精神科の訴訟件数というのは小児科、外科、産科などに比べるとほとんどありませんし、訴訟になったとしても、病院側の管理体制や薬物に関係するものであり、仮にずさんな診断、治療で患者が自殺にいたっても医師の責任を追及されることはないんですね。そのことが「適当に診断治療しても大丈夫」「何かあっても精神科の患者さんだから」という恐ろしい安心感を招くのだと思います。人生を変えるかもしれない疾患を扱っているのにも関わらず・・・。もう一つの原因はとにかく医師の勉強不足、経験不足です。日本では医師国家試験を通れば、誰でも何科でも選ぶことが出来ます。多くは大学病院や関連病院で研修医となり入院患者で勉強をします。その後数年も病棟医として出向し、経験を積んでから指導医となり、再び大学病院や関連病院に戻り、外来業務をすることになるんです。内科や外科などでは入院患者も外来患者も同じような病気を扱うので、入院患者を診ることが外来に応用出来るのですが、精神科の場合は入院しているような患者(ほとんど重度の統合失調症です)は外来には来ません。外来患者というのは病棟では、ほとんど遭遇しない別の病気なんですね。(たまに統合失調症の患者さんもいますが・・・)さらに大学では学生に「統合失調症」と「うつ病」のことばかりメインに教え、外来で最も多く遭遇する「人格レベルの問題」「適応障害」「神経症圏」「発達障害」「認知症の周辺症状」のことについては、ほとんど習わないんです。(医師国家試験にも滅多に出ません)ですから外来で来た患者を、数少ない知識の中に無理に当てはめようとし、「軽いうつ病」だとか「神経症」「自律神経失調症」「非定型精神病」という、非常にあいまいで意味不明な診断がついてしまうんです。今まで病棟で診てきた患者さんの知識しかない状態でも、専門医の資格が取れ、外来をいきなり行うわけですから、診たことない患者さんに意味不明の病名をつけるのは仕方がないと思います。

Posted by 匿名 at 2014年03月10日 09:01 | 返信

私メル友が、彼の話では、なんでも自殺未遂をしたことがあって、それで両親に連れられて、精神科を受診したと言うのです、もう何年も通院して、その間おかあさんも病気かなんかで死んでしまったそうです。それがブログで、お父さんの悪口ばかり言うのです。
それも正しいのでしょうけど、何か他の生き方が無いのかなあと思いますし、自殺するような鬱病と思えないのです。自分でも「妄想なんだけど」と言いながらひたすらお父さんも悪口を言ってる。私も、これはひょっとして薬の種類か量が適切じゃないのじゃないかと思いました。もう一人もメル友が「地上の旅人」という精神科のお医者さんのグループや、患者さんや家族で作っているグループがあるそうで、そちらを紹介していました。
お医者さんも、気の合った仲間でグループを作って、何とか良い医療を推進しようという方達がいらっしゃると言う事を、ひょんな事で、メル友達に教えて貰いました。

Posted by 大谷佳子 at 2014年03月11日 03:20 | 返信

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