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追悼・黒ちゃん
2014年09月25日(木)
私が電話で呼びかけて反応があったのが、午後9時半。
その3時間後に旅立たれた。
私が彼女と最期に会話したのかもしれない。
「ありがとう!」と直接言えて良かった。
彼女と、いつも野垂れ死にの話をしていた。
しかしホスピスにうつりあっと言う間に旅立たれた。
道半ば、かもしれない。
しかし彼女の目指した道は永遠なので、終わりは無かっただろう。
来年の1月17日は、阪神大震災から20年目。
彼女の人生を変えた日でもあるし、私の人生が変わった日でもある。
しかしその日を見ることなく逝ったことが、なにより可哀そう。
しかし運命とは過酷なもの。
私と丸尾多重子さんが出会ったのも、黒田さんが審査員を務めていた
兵庫県主催のいのちと生き甲斐プロジェクトの公開プレゼンテ―ションの場。
いわば黒田さんが、引き合わせてくれた。
その他、いろんな人や、いろんな経験をさせてくれたのも黒田さんのおかげ。
ひとは死んでから、偉大さが余計に分る。
彼女を失って困る人が、被災地にも沢山おられる。
いつどこにいても、気仙沼の面瀬中学の仮設住宅のことを考えておられた。
彼女の場合は、20年間やるつもりで面瀬に入っていた。
そこで知り合った学生さんや住人さんたちのお顔が目に浮かぶ。
主を失った集会場も泣いていることだろう。
本当に信じられない。
1ケ月半まで一緒に飲んで笑いあっていたのに・・・
黒ちゃん、御苦労さん。
そして、ありがとう。
今言えるのはそれだけ。
その3時間後に旅立たれた。
私が彼女と最期に会話したのかもしれない。
「ありがとう!」と直接言えて良かった。
彼女と、いつも野垂れ死にの話をしていた。
しかしホスピスにうつりあっと言う間に旅立たれた。
道半ば、かもしれない。
しかし彼女の目指した道は永遠なので、終わりは無かっただろう。
来年の1月17日は、阪神大震災から20年目。
彼女の人生を変えた日でもあるし、私の人生が変わった日でもある。
しかしその日を見ることなく逝ったことが、なにより可哀そう。
しかし運命とは過酷なもの。
私と丸尾多重子さんが出会ったのも、黒田さんが審査員を務めていた
兵庫県主催のいのちと生き甲斐プロジェクトの公開プレゼンテ―ションの場。
いわば黒田さんが、引き合わせてくれた。
その他、いろんな人や、いろんな経験をさせてくれたのも黒田さんのおかげ。
ひとは死んでから、偉大さが余計に分る。
彼女を失って困る人が、被災地にも沢山おられる。
いつどこにいても、気仙沼の面瀬中学の仮設住宅のことを考えておられた。
彼女の場合は、20年間やるつもりで面瀬に入っていた。
そこで知り合った学生さんや住人さんたちのお顔が目に浮かぶ。
主を失った集会場も泣いていることだろう。
本当に信じられない。
1ケ月半まで一緒に飲んで笑いあっていたのに・・・
黒ちゃん、御苦労さん。
そして、ありがとう。
今言えるのはそれだけ。
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この記事へのコメント
「吹田がん患者・家族会」「吹田ひまわりの会」の、産みの母に、有難うございました。
4年前、「吹田ホスピス市民塾」で「患者・家族会」を作ろうとしたときに、経験のなさから、中々ふんぎれませんでした。
そこで、お忙しい黒田さんに無理をお願いして、役員4人が神戸の喫茶店で1時間ばかりお目にかかり・・・「やってみたら・・・やらないと何もわからないわよ」と、背中を押していただきました。
その後、「ご遺族の会」もできて、更にこの5月以降、吹田市役所ロビーで毎月2回、「吹田がん情報コーナー」を開設・・・と、発展してきました。
黒田さん、本当に、有難うございました。心から、ご冥福をお祈りいたします。 以上
Posted by 小澤 和夫 at 2014年09月25日 08:39 | 返信
信じられません・・・・
病棟宛でお手紙書こうかな・と思っていたのに・・・
宝塚市立病院のまだ開設されていないICUで、執刀医(川原先生)と担当医と黒田婦長さんと3人に囲まれて、人工呼吸器と自分の呼吸が合わなくて、苦しんでもがいていた時のことを思い出します。
「妹みたいに思える」とおっしゃる婦長さんに、「(20歳違いなのに)えっ?娘じゃなくて妹!?ですか?」なんて話し、しましたよね。お姉さん&お母さんのように思ってました。
川原先生が7年前に60歳で他界して、黒田婦長も・・・・
どうしてみんなそんなに急いで天国へ行っちゃうんですか?
相談したいことや話したいこと、たくさんあったのに。
婦長さん。私ね、筋無力症撃退したと思ったら、2年前に子宮筋腫+卵チョコ撃退したと思ったら、今度は、腺外症状ありのシェーグレンやねん・・・・
でも、頑張ります。顔晴ります(がんばります)、自分にしかできないこともあると思ってるから。
ご冥福を心よりお祈りします。どうぞ安らかに。そして、ありがとうございました。
Posted by 不死身のひみこ at 2014年09月25日 02:32 | 返信
長尾先生はじめ、多くの方々の嘆きのお声に接し、本当にやりきれない思いです。
昨日の夕刊に報じられていた方が、黒田さんだったのですね。
僕も、友人から電話を受けていながら、会うこともなく(飲酒の機会を避けていることもあって)、今年も70代の友人を何人も失いました。
黒田さんや、戦友を失った先生のお気持ちを想いつつ、落ち込んでいると、昨晩、とある番組で、黒田さんと同い年の女性(イラン系アメリカ人研究者)が、学生とポスドクを相手にスーパー・プレゼンテーションをやっていました。
題して、《がんの新しい理解につながる実験》。ミナ・ビッセル。
細胞の増殖・悪性挙動は、組織形成の段階で決まる。そして、組織形成は、ECM(細胞外マトリクス)・微小環境に左右される。つまり、形態と機能が動的に相互に作用している。
だから、悪性が正常に逆戻りしうる。
アインシュタインが言うように、一見して馬鹿げていないアイデアは、見込みがない。
学生、ポスドク諸君、枠からはみ出すネコになれ。
ミナ・ビッセルさんは、マウスの乳がん細胞の正常細胞化実験に成功したそうですね。
生命保険会社の「二人に一人ががんになる。がん保険に入って先端治療を受けよう」という、強迫キャンペーンよりも、60兆個の、細胞外マトリクスと細胞核の相互作用で、体内バランスが維持されている、と想うだけで、ささやかでも、希望の光が感じられた。
お陰さまで、今朝は、心身のバランスをととのえて、仕事先に出向き、早く帰宅することができました。
黒田さんの思いが、ミナ・ビッセルさんに引き継がれているように感じました。
長尾先生、酒量が増えないように。切に念じています。
Posted by 鍵山 at 2014年09月25日 06:23 | 返信
障害者の自立と完全参加を求めて40数年、今年なくなった全盲の楠敏雄さん。
今日、偲ぶ会が、ありました。
息子さんが追悼集「思い出」の中で、透析と人工呼吸器をめぐる父とのやり取りが、興味深い。
「人工呼吸器が外れないと透析はできない」と、医者が言った。
透析をするため、生きてまた仕事をするため、父は頑張った。
一時は呼吸器が外れ透析も再開した。
ただこれ以上の回復は見込めないということであった。
父という存在が僕にはとても大きなものであり、どんな状態であれ生きてほしいというのが本音。
だが最後まで父は楠敏雄であってほしいというのが本音である。
会話ができるような状態ではなかったが、しっかりと耳は聞こえていた父に、現在の状況と自分の本音をすべて話し、最後に「お父さんの気持ちを尊重したい」と告げた。
はっきりと父の口から「ありがとう」という言葉が聞こえた。
そして、楠敏雄は自らの意思で最後を決め、透析の道を断った。
透析22年、心臓バイパス10年、脳血管閉塞3年、急性膵炎、胆嚢摘出、人工呼吸器装置をへてきた楠敏雄さんは、透析中止を決断しました。
関西障害者解放委員会結成から、DPI(障害者インターナショナル)日本会議結成まで、大阪府市や厚生労働省交渉の先頭に立ち、障害者差別解消法の成立、今年1月20日の障害者権利条約批准を見届けて、1か月、あとを後輩に託しました。
40数年まえ、初めて「会いたい」と電話があった時は、即日お会いしたのに。去年、「会いたい」との電話があった時、飲酒を避けるため、昼間デートにしておけばよかったのに。
Posted by 鍵山いさお at 2014年10月01日 06:20 | 返信
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