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分化は退化のはじまり?
2015年06月06日(土)
高齢者医療・看護・介護とは 人間とは 第1回 分化は退化のはじまり 長尾和宏
町医者の戯言
はじめまして。兵庫県尼崎市で町医者をしている長尾和宏と申します。この度、御縁あり「高齢者医療・看護・介護とは 人間とは」という連載をさせて頂くことになりました。日々、外来診療や在宅医療で多くの高齢者と接しています。しかしいくら歳を取っても(現在56歳)、とても人格円満とはならず子供のままに留まっているので、失敗の連続です。幸いなことに優しい看護師さんのフォローがあるので、なんとか町医者を続けられています。本誌を読まれている看護師さんの多くは病院の看護師さんだと推察します。そこで病院の看護師さんに向けて冴えない町医者の本音を書いていきます。初老の町医者の戯言にしばしお付き合いください。
全員、機械しか見ていなかった
先日、身内が末期がんになり危ないということで、ある大病院にお見舞いに行きました。まずナースステーションに立ち寄るとそこには10人位の看護師さんがいて、全員がパソコンに向かって作業していました。恐る恐る声を出すと一人が応じてくれ、「ああ、○○さんですか。もう意識は無いですよ」と言い放ちました。「おかしいな、在宅だったら末期がんでも死ぬ直前まで意識があるのに」と思いながら案内された病室に入りました。
そこには見事に管だらけになった身内が横たわっていました。普段、在宅看取りを年間80~90人位していますが、管が無い看取りばかりなのでこれだけ管だらけの人間を見るのは、実に久々でした。酸素の管、点滴の管、鼻からドレナージの管などをかき分けながら顔に近づきました。意識が無い、と聞かされていたので本当にそうかな?と思いながら、声をかけてみました。「お久しぶりです」。すると意識が無いどころか、パチっと目を開けて「ああ、久しぶりやね」と応えてくれました。ただし息は苦しそうでした。ハッキリと喘鳴が聞こえます。瞬時に心不全だと分かりました。顔も全身もパンパンだからです。普段、枯れた「平穏死」しか診ていないものにとっては異様な光景でした。呼吸困難の原因が毎日2lの高カロリー点滴にあることは明白でした。しかし部外者ですから黙っていました。
しばらくして先の看護師さんが入って来られました。高カロリー点滴を取り替えに来たのです。手早く交換を終えると機械のダイヤルを調節して、結局最後まで患者さんの顔を一度も見ないまま部屋を去りました。まあ意識が無いと思っているので仕方ないのですが、「終始、顔を見ない」という一点においては見事でした。電子カルテ画面ばかり見て患者の顔を一切見ない医師の話は有名ですが、最近は看護師さんもそうなのだ、と思いました。
私は、思わず呼吸困難の原因であるその点滴を止めようかと思いました。それだけでも、呼困難は和らぐはず。できればこのまま、抱きかかえて自宅に連れ去ってやろうという衝動に駆られましたが、やめました。もしそんなことをしたら即、犯罪者です。1時間ほど滞在しましたが、その間、患者さんと接している看護師さんの姿を確認できませんでした。見事に全員が機械のほうを向いていました。いまや看護師さんも記録、記録で大変な時代になったことを思い知らされました。数年前、在宅で看取らせて頂いた私と同じ歳小川香代子看護師(元・県立西宮病院外来抗がん剤治療室長)の言葉をふと思い出しました。「看護師は、なんにも言わんでいいから、1分でもいいから患者の横に座っていたらいいのよ・・・」。日本看護協会主催の全国各地をテレビで結ぶ講演会で3年連続で彼女のラストメッセージを流したので覚えてられる方もおられるかと思いますが、彼女の言葉が本当に頭に浮かびました。
「患者さんを見られますか?」
時々、病院から在宅患者さんを紹介されます。しかし多くの場合、その前に退院前カンファレンスを開くという連絡が入ります。末期がんの方の場合、打診があっても半数は帰ってこないことが経験上知っているので、正直、あまり真剣に聞いていません。その日はたまたま少し時間に余裕があったので病院に伺いました。最近、そんな機会が2回ほどありました。
まずは地域連携部に行くと、きっと退院調整看護師さんでしょうか、親切にカンファレンスルームまで案内してくれました。そしていきなりカンファレンスが始まりそうだったので、私はこう言いました。「ちょっと待ってください。私はまだ患者さんの顔を一度も見たこともありません。できれば少し顔だけ見てからカンファに参加してもいいですか」と。すると案内してくれた看護師さんはこう呟きました。「見るのですか?」。偶然かもしれませんが、2つの病院で同じ呟きが聞こえました。咄嗟に「はやり一度は見ないとどんな患者さんかイメージできませんから」と言い訳をしていました。「しょうがない町医者やなあ」という感じで病室まで案内してくれました。もちろん余計なことは言わずに「こんにちは」とご挨拶。そもそも余計なことを言わぬように看護師さんが看守のように見張っているので、思うように話せません。
退院支援や退院調整という言葉があることを知っています。それを専門とする看護師さんがおられることも知っていますが、不勉強なので正直、両者の区別はつていていません。しかし明日から在宅主治医になる身としてはせめて患者さんの顔くらいは見ておきたいもの。病院にとっては退院かもしれませんが、在宅側から見れば「在宅への入院」となります。我々にとっての退院とは、末期がんの患者さんの場合は「旅立ち」のことです。
ユマニチュードやパーソンセンタードケアという不思議
認知症の分野では、ユマニチュードやパーソンセンタードケアが大流行です。日本人は、フランスやイギリスに弱いですね。実際、ユマニチュードの講座に顔を出しました。予想通り、看護師さんや介護士さんで満員御礼でした。患者さんと目線を合せて正面から目を見てゆっくり話しましょう、できれば身体に軽く触れながら、というような内容でした。聞きながら、当たり前のことだと思いましたが、患者さんの顔を見たり身体に触れるだけでもマシかなあ、とも思いました。ちなみに私は、外来でも在宅でも常に患者さんを触りまくりながらお喋りをしています。20年間町医者をしているうちに特に意識せず、自然とそうなっていました。
パーソンセンタードケアも同じです。患者中心、なんて当たり前ですよね。そんな言葉をわざわざ口にすること自体、「私は患者中心ではありません」と宣言しているみたいで本来口にすること自体が恥ずかしい言葉のはず。似たような言葉に、「QOD(Quolity of death)」があります。ある学会で、医師や看護師たちが「QODを上げるにはどうすればいいのか」と熱心に議論していました。私はそれを聴いていて滑稽でならなかった。在宅の世界では、そんな言葉は存在しないからです。しかし病院系の学会では、真剣にみんなQODを議論していた。そんな言葉があること自体、Quolityが低いと、認めているように思えました。「みなさんが居なくなればきっと格段にQODが上がりますよ」と言いたいところでしたが、さすがの私もそんな失礼な発言は控えました。普段、何気なく使っている言葉の中にも、自分の立ち位置がバレてしまうようなことが現実にあるはずです。ユマニチュードやパーソンセンタードケアと言った言葉を聞くたびに、不思議な気分に陥るのは私だけでしょうか。
分化は退化のはじまり
日本医学が西洋医学になってから100数十年経ちました。西洋医学は細かく分けて調べることで発展してきました。20年数前までは誰もが全遺伝子が解明されたら全てが解明されるかもと淡い幻想を抱いた時代がありました。しかし全遺伝子が判明してもちっとも病気が分らないし治らないことを我々は学びました。福岡伸一氏は、名著「世界は分けても分らない」の中で、分析科学の限界を指摘しました。しかし医学のベクトルは、益々分析方向に加速しています。○○専門という称号を見れば明らかです。内科も外科も、もはやそれだけの肩書きでは通用せず、腹部、胸部、心臓、脳など臓器の名前が必ずその前につきます。さらに、治療法の冠も加わります。かくして数えきれないほどの医学会や研究会が生まれています。
看護の分野でも医師と同じ現象が起きています。病院の看護師さんと名刺交換をすれば必ず○○専門看護師と、専門分野が印字されています。一方、私のような町医者のもとで働く看護師たちには、○○という肩書きはありません。医者も看護師も「何でも屋」です。医者は医者、看護師は看護師。30年前と同じでただそれだけで、特定看護師という概念も無いまま、しかし一方では病院では考えられない位の裁量を持って動いています。
医療機器の進歩、学問の細分化、専門性の獲得は素晴らしいことです。その進歩を否定するものではありません。しかし一人一人の人間ができる領域が年々狭くなっていることは自覚しておかないといけない。すなわち心のどこかで「分化は退化のはじまり」であることを意識しておかないと、特に高齢者看護においては大きな落とし穴に嵌ってしまうのです。
町医者の戯言
はじめまして。兵庫県尼崎市で町医者をしている長尾和宏と申します。この度、御縁あり「高齢者医療・看護・介護とは 人間とは」という連載をさせて頂くことになりました。日々、外来診療や在宅医療で多くの高齢者と接しています。しかしいくら歳を取っても(現在56歳)、とても人格円満とはならず子供のままに留まっているので、失敗の連続です。幸いなことに優しい看護師さんのフォローがあるので、なんとか町医者を続けられています。本誌を読まれている看護師さんの多くは病院の看護師さんだと推察します。そこで病院の看護師さんに向けて冴えない町医者の本音を書いていきます。初老の町医者の戯言にしばしお付き合いください。
全員、機械しか見ていなかった
先日、身内が末期がんになり危ないということで、ある大病院にお見舞いに行きました。まずナースステーションに立ち寄るとそこには10人位の看護師さんがいて、全員がパソコンに向かって作業していました。恐る恐る声を出すと一人が応じてくれ、「ああ、○○さんですか。もう意識は無いですよ」と言い放ちました。「おかしいな、在宅だったら末期がんでも死ぬ直前まで意識があるのに」と思いながら案内された病室に入りました。
そこには見事に管だらけになった身内が横たわっていました。普段、在宅看取りを年間80~90人位していますが、管が無い看取りばかりなのでこれだけ管だらけの人間を見るのは、実に久々でした。酸素の管、点滴の管、鼻からドレナージの管などをかき分けながら顔に近づきました。意識が無い、と聞かされていたので本当にそうかな?と思いながら、声をかけてみました。「お久しぶりです」。すると意識が無いどころか、パチっと目を開けて「ああ、久しぶりやね」と応えてくれました。ただし息は苦しそうでした。ハッキリと喘鳴が聞こえます。瞬時に心不全だと分かりました。顔も全身もパンパンだからです。普段、枯れた「平穏死」しか診ていないものにとっては異様な光景でした。呼吸困難の原因が毎日2lの高カロリー点滴にあることは明白でした。しかし部外者ですから黙っていました。
しばらくして先の看護師さんが入って来られました。高カロリー点滴を取り替えに来たのです。手早く交換を終えると機械のダイヤルを調節して、結局最後まで患者さんの顔を一度も見ないまま部屋を去りました。まあ意識が無いと思っているので仕方ないのですが、「終始、顔を見ない」という一点においては見事でした。電子カルテ画面ばかり見て患者の顔を一切見ない医師の話は有名ですが、最近は看護師さんもそうなのだ、と思いました。
私は、思わず呼吸困難の原因であるその点滴を止めようかと思いました。それだけでも、呼困難は和らぐはず。できればこのまま、抱きかかえて自宅に連れ去ってやろうという衝動に駆られましたが、やめました。もしそんなことをしたら即、犯罪者です。1時間ほど滞在しましたが、その間、患者さんと接している看護師さんの姿を確認できませんでした。見事に全員が機械のほうを向いていました。いまや看護師さんも記録、記録で大変な時代になったことを思い知らされました。数年前、在宅で看取らせて頂いた私と同じ歳小川香代子看護師(元・県立西宮病院外来抗がん剤治療室長)の言葉をふと思い出しました。「看護師は、なんにも言わんでいいから、1分でもいいから患者の横に座っていたらいいのよ・・・」。日本看護協会主催の全国各地をテレビで結ぶ講演会で3年連続で彼女のラストメッセージを流したので覚えてられる方もおられるかと思いますが、彼女の言葉が本当に頭に浮かびました。
「患者さんを見られますか?」
時々、病院から在宅患者さんを紹介されます。しかし多くの場合、その前に退院前カンファレンスを開くという連絡が入ります。末期がんの方の場合、打診があっても半数は帰ってこないことが経験上知っているので、正直、あまり真剣に聞いていません。その日はたまたま少し時間に余裕があったので病院に伺いました。最近、そんな機会が2回ほどありました。
まずは地域連携部に行くと、きっと退院調整看護師さんでしょうか、親切にカンファレンスルームまで案内してくれました。そしていきなりカンファレンスが始まりそうだったので、私はこう言いました。「ちょっと待ってください。私はまだ患者さんの顔を一度も見たこともありません。できれば少し顔だけ見てからカンファに参加してもいいですか」と。すると案内してくれた看護師さんはこう呟きました。「見るのですか?」。偶然かもしれませんが、2つの病院で同じ呟きが聞こえました。咄嗟に「はやり一度は見ないとどんな患者さんかイメージできませんから」と言い訳をしていました。「しょうがない町医者やなあ」という感じで病室まで案内してくれました。もちろん余計なことは言わずに「こんにちは」とご挨拶。そもそも余計なことを言わぬように看護師さんが看守のように見張っているので、思うように話せません。
退院支援や退院調整という言葉があることを知っています。それを専門とする看護師さんがおられることも知っていますが、不勉強なので正直、両者の区別はつていていません。しかし明日から在宅主治医になる身としてはせめて患者さんの顔くらいは見ておきたいもの。病院にとっては退院かもしれませんが、在宅側から見れば「在宅への入院」となります。我々にとっての退院とは、末期がんの患者さんの場合は「旅立ち」のことです。
ユマニチュードやパーソンセンタードケアという不思議
認知症の分野では、ユマニチュードやパーソンセンタードケアが大流行です。日本人は、フランスやイギリスに弱いですね。実際、ユマニチュードの講座に顔を出しました。予想通り、看護師さんや介護士さんで満員御礼でした。患者さんと目線を合せて正面から目を見てゆっくり話しましょう、できれば身体に軽く触れながら、というような内容でした。聞きながら、当たり前のことだと思いましたが、患者さんの顔を見たり身体に触れるだけでもマシかなあ、とも思いました。ちなみに私は、外来でも在宅でも常に患者さんを触りまくりながらお喋りをしています。20年間町医者をしているうちに特に意識せず、自然とそうなっていました。
パーソンセンタードケアも同じです。患者中心、なんて当たり前ですよね。そんな言葉をわざわざ口にすること自体、「私は患者中心ではありません」と宣言しているみたいで本来口にすること自体が恥ずかしい言葉のはず。似たような言葉に、「QOD(Quolity of death)」があります。ある学会で、医師や看護師たちが「QODを上げるにはどうすればいいのか」と熱心に議論していました。私はそれを聴いていて滑稽でならなかった。在宅の世界では、そんな言葉は存在しないからです。しかし病院系の学会では、真剣にみんなQODを議論していた。そんな言葉があること自体、Quolityが低いと、認めているように思えました。「みなさんが居なくなればきっと格段にQODが上がりますよ」と言いたいところでしたが、さすがの私もそんな失礼な発言は控えました。普段、何気なく使っている言葉の中にも、自分の立ち位置がバレてしまうようなことが現実にあるはずです。ユマニチュードやパーソンセンタードケアと言った言葉を聞くたびに、不思議な気分に陥るのは私だけでしょうか。
分化は退化のはじまり
日本医学が西洋医学になってから100数十年経ちました。西洋医学は細かく分けて調べることで発展してきました。20年数前までは誰もが全遺伝子が解明されたら全てが解明されるかもと淡い幻想を抱いた時代がありました。しかし全遺伝子が判明してもちっとも病気が分らないし治らないことを我々は学びました。福岡伸一氏は、名著「世界は分けても分らない」の中で、分析科学の限界を指摘しました。しかし医学のベクトルは、益々分析方向に加速しています。○○専門という称号を見れば明らかです。内科も外科も、もはやそれだけの肩書きでは通用せず、腹部、胸部、心臓、脳など臓器の名前が必ずその前につきます。さらに、治療法の冠も加わります。かくして数えきれないほどの医学会や研究会が生まれています。
看護の分野でも医師と同じ現象が起きています。病院の看護師さんと名刺交換をすれば必ず○○専門看護師と、専門分野が印字されています。一方、私のような町医者のもとで働く看護師たちには、○○という肩書きはありません。医者も看護師も「何でも屋」です。医者は医者、看護師は看護師。30年前と同じでただそれだけで、特定看護師という概念も無いまま、しかし一方では病院では考えられない位の裁量を持って動いています。
医療機器の進歩、学問の細分化、専門性の獲得は素晴らしいことです。その進歩を否定するものではありません。しかし一人一人の人間ができる領域が年々狭くなっていることは自覚しておかないといけない。すなわち心のどこかで「分化は退化のはじまり」であることを意識しておかないと、特に高齢者看護においては大きな落とし穴に嵌ってしまうのです。
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この記事へのコメント
早速 日総研さんからのホームページで 定期購読を申し込みました
わかる!わかる!
退院調整会議の時に いきなり カンファレンスルームに連れて行かれそうになった時は
わたしも ご本人に 先に ご挨拶させてくださいとお願いしました
冗談じゃない… 病気しか説明してくれない病院側のスタッフの説明では 何にもわかりません
困難事例だから…とよく言われますが おうちに帰ってくるわけだから
今までの 築き上げた生活の場に いきなり 知らない人間たちがやってくるんだか
たいへんなのは 当然のことです
暮らしを支える看護をさせてください
世の中に お願いするのみです
Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2015年06月06日 04:50 | 返信
医療関係者ではなく、パラメディカルでもない私が、このような事を申し上げるのもなんですけど、「人間を人間として見てない」と言う気がします。人間も機械の一部と言うか物質としてみているような。
以前に、今流行の中医学の講釈を聞きますと「(精神と物質)と言うが、中医学では、精神も物質と考える」と講釈しているのを聞いて、「それは革命後の中国が唯物論だからじゃないですか?」と質問してしまいました。その中医学を講釈していた人は脳梗塞になって亡くなりました。もともと尿酸値が高くて、ひどい痛風体質だったそうですけど、お弟子さんには恨まれました。
「黄帝内経素問霊枢」では、精神は精神なんです。(全てを物質と考える)のは革命後の悪しき漢方理論だと書いて有る本もありました。
でも、驚くべきことに日本の医療も、物質文明なんですね。
それから、医学でも科学でも発展すればある程度分化は必要ではないかと思います。
でも、自分は専門に研究してないけれど他の人の研究も勉強して、絶えず統合していくと言うか、全体を見る努力が必要なのではないかと思いました。
それは内科のお医者さんも整形外科の研究を覗いてみるとか。私の存じ上げている歯医者さんは、お嬢さんが内科のお医者さんになったこともあって、歯科と内科の両方をよく勉強なさっています。
えらそうに申し上げて済みません。お気に障ったら、謝ります。でもそんな風に感じました。
Posted by 匿名 at 2015年06月07日 01:54 | 返信
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