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安倍総理の功績とは
2015年08月31日(月)
今日、国会前で安保法案に反対する大きなデモがあった。
重い腰をあげたメデイアがようやく報じたが、この超難しい問題に
興味を持つ国民、特に若者たちに火をつけたのが安倍総理の功績に思えてきた。
重い腰をあげたメデイアがようやく報じたが、この超難しい問題に
興味を持つ国民、特に若者たちに火をつけたのが安倍総理の功績に思えてきた。
朝日新聞ニュース。→こちら
60日ルールの期限が9月13日ということだが、政権与党のメンツもあるので
この2週間は、毎日激しい議論になるのだろうが、大切な時間でありプロセスだ。
もちろん、法案は絶対に廃案になると確信している。
成立はあり得ない。
そしてゼロから議論しなすべきだと思う。
私はこんなデモは知らないし、見たことがない。
普通の市民、普通の若者が参加しているのが凄い。
山本太郎氏はじめ国会議員や学者や著名人たちの尽力もさることながら
こうした国民的議論を喚起したことが安倍総理の最大の功績なのかもしれない。
実は「廃案」で終わりではない。
どのように国を護っていくのか、そして独立国を目指すのか、という具体的議論に入るのだ。
つまり廃案は、本当の議論の始まりにすぎない。
1年間くらいはかけて、やるべきだ。
PS)
安倍総理と近藤誠氏を重ねて見ていた。
近藤誠氏がいたから、そして「がん放置療法」という「極」を示したので
これから「患者本位のがん治療とは?」という議論が喚起されるのだろう。
大切なことは、喧嘩をすることではない。
喧々諤々の議論をしたうえで、「和」することだと思う。
どんなに喧嘩をしても、所詮は同じ日本丸の乗客同士でしかない。
安保問題も抗がん剤問題も、次元はまったく違うが、超難しい問題。
ものを考える時に、「極」があると非常に助かることがよくある。
安倍総理は、民意に従って方向転換をして、仕切り直して欲しい。
どうせ、総理は今は誰がやってもそう変わらないので、変わらないほうがいい。
だから、安倍総理は少し頭を柔らかくして、「ごめんなさい」と言って欲しい。
近藤誠氏も少しは軟化すればいいのに、逆に硬直化が激しくなっている印象がある。
「60歳を超えて頑固になるのはピック病のはじまりかも?」と言ってあげたい気分。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
8月31日(月) がんは放置しても、患者は放置しない
8月も今日で終わり。
そろそろ暑さが少し和らぐのではと、期待しています。
昨夜は横浜での研究会の余韻に浸っていました。
私は講演に座長に、当院からは4題の発表もありました。
コメデイカルや介護職や市民と医療職が一体となった、日本では珍しい
研究会に2日間も身を置いていると、様々な方といろんな話をします。
特にがんの話になると、最期まで抗がん剤に苦しめられた話が出ます。
おそらく大病院の主治医には全く話せない話が、この場では話される。
市民の井戸端会議は、あながち間違っていないこともたくさんあります。
しかし大病院の医師はエビデンスによるガイドライン医療しか行いません。
医学の世界では「科学的エビデンス」が幅をきかせています。
エビデンスとは統計学的に「有意差」があるという意味です。
100%ではないが95%正しそうであれば「有意差」があると言います。
しかしいくら「有意差」があると言っても、例外もあるという意味です。
ですから、エビデンスがある=絶対的に正しい、とはなりません。
特に高齢者や虚弱者では、「例外」に入ってしまう人も当然おられる。
その「例外」を、単なる「例外」として切り捨てるのか、
いや「例外」こそ大切に扱わないと、と考えるかでは、向いている方向が180度違う。
市民も一緒になって運営される日本ホスピス・在宅ケア研究会は後者の視点です。
おそらく日本で唯一かもしれませんがエビデンスより「物語」を優先する集まり。
ひとつひとつのがんの話を聞いていると、みんな違う「物語」があるので、
そこでは、とても「エビデンス」という言葉は似会わない気がしてならない。
エビデンスだけでは医学という科学で、
「物語」と合わせて、医療となります。
科学的エビデンスに基づいた医療方針を「ガイドライン」といいますが、
終末期にさしかかった人を前にすると、大きな違和感を覚える言葉です。
「死」から「生」を考える医学教育は台湾にはありますが、日本では私くらい。
一方、本研究会は、「終末期」から「生」を考える研究会のように感じました。
人間とがんとの闘いは太古の昔からあり、未だに解決しません。
医学が発達して、完治や延命はできますが、100%死にます。
死を前にした人には、エビデンスやガイドラインは無意味であると思いますが
大病院のお医者さんの中には「死ぬまでガイドラインを守れ」という人もいる。
私には到底信じられない世界ですが、「それで満足」という人が居るのも事実。
要は自分の死生観を理解してくれる医者を見つけておかないと絶対に後悔する。
・がんは、終末期が近くなれば放置したほうがいい
・終末期以降は過剰な延命治療は控えたほうがいい
・延命と縮命の分水嶺を意識しないと酷い目にあう
・抗がん剤の“やめどき”を間違うと、後悔が残る
・平穏死とは、治療の“やめどき”を自己決定すること
実は、5つとも同じことを言っているのです。
慶応大学の近藤誠氏がいう「がん放置療法」とは、実は終末期の人へのメッセージです。
しかし間違ってはいけないのは、終末期以降のがんは放置したほうがいいが、
患者は放置してはいけない、充分な緩和医療が必須、ということです。
がんの放置と
患者の放置は、まったく意味が違います。
私もがんの放置はいくらでもありますが、患者を放置することは絶対ありません。
10分3万円のセカンドオピニオンで患者を突き放すような行為は理解できない。
一方、がんは放置しないが、患者の尊厳は放置する大病院の現状も理解できない。
つまり、「どっちもどっちやなあ・・・」と。
桜木町からの帰りの地下鉄の中で、そんなことを考えていました。
この研究会に入ったからこそそんな視点を持つことができました。
参考文献) 「長尾先生、近藤誠理論のどこが間違っているのですか?」(ブックマン社)
60日ルールの期限が9月13日ということだが、政権与党のメンツもあるので
この2週間は、毎日激しい議論になるのだろうが、大切な時間でありプロセスだ。
もちろん、法案は絶対に廃案になると確信している。
成立はあり得ない。
そしてゼロから議論しなすべきだと思う。
私はこんなデモは知らないし、見たことがない。
普通の市民、普通の若者が参加しているのが凄い。
山本太郎氏はじめ国会議員や学者や著名人たちの尽力もさることながら
こうした国民的議論を喚起したことが安倍総理の最大の功績なのかもしれない。
実は「廃案」で終わりではない。
どのように国を護っていくのか、そして独立国を目指すのか、という具体的議論に入るのだ。
つまり廃案は、本当の議論の始まりにすぎない。
1年間くらいはかけて、やるべきだ。
PS)
安倍総理と近藤誠氏を重ねて見ていた。
近藤誠氏がいたから、そして「がん放置療法」という「極」を示したので
これから「患者本位のがん治療とは?」という議論が喚起されるのだろう。
大切なことは、喧嘩をすることではない。
喧々諤々の議論をしたうえで、「和」することだと思う。
どんなに喧嘩をしても、所詮は同じ日本丸の乗客同士でしかない。
安保問題も抗がん剤問題も、次元はまったく違うが、超難しい問題。
ものを考える時に、「極」があると非常に助かることがよくある。
安倍総理は、民意に従って方向転換をして、仕切り直して欲しい。
どうせ、総理は今は誰がやってもそう変わらないので、変わらないほうがいい。
だから、安倍総理は少し頭を柔らかくして、「ごめんなさい」と言って欲しい。
近藤誠氏も少しは軟化すればいいのに、逆に硬直化が激しくなっている印象がある。
「60歳を超えて頑固になるのはピック病のはじまりかも?」と言ってあげたい気分。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
8月31日(月) がんは放置しても、患者は放置しない
8月も今日で終わり。
そろそろ暑さが少し和らぐのではと、期待しています。
昨夜は横浜での研究会の余韻に浸っていました。
私は講演に座長に、当院からは4題の発表もありました。
コメデイカルや介護職や市民と医療職が一体となった、日本では珍しい
研究会に2日間も身を置いていると、様々な方といろんな話をします。
特にがんの話になると、最期まで抗がん剤に苦しめられた話が出ます。
おそらく大病院の主治医には全く話せない話が、この場では話される。
市民の井戸端会議は、あながち間違っていないこともたくさんあります。
しかし大病院の医師はエビデンスによるガイドライン医療しか行いません。
医学の世界では「科学的エビデンス」が幅をきかせています。
エビデンスとは統計学的に「有意差」があるという意味です。
100%ではないが95%正しそうであれば「有意差」があると言います。
しかしいくら「有意差」があると言っても、例外もあるという意味です。
ですから、エビデンスがある=絶対的に正しい、とはなりません。
特に高齢者や虚弱者では、「例外」に入ってしまう人も当然おられる。
その「例外」を、単なる「例外」として切り捨てるのか、
いや「例外」こそ大切に扱わないと、と考えるかでは、向いている方向が180度違う。
市民も一緒になって運営される日本ホスピス・在宅ケア研究会は後者の視点です。
おそらく日本で唯一かもしれませんがエビデンスより「物語」を優先する集まり。
ひとつひとつのがんの話を聞いていると、みんな違う「物語」があるので、
そこでは、とても「エビデンス」という言葉は似会わない気がしてならない。
エビデンスだけでは医学という科学で、
「物語」と合わせて、医療となります。
科学的エビデンスに基づいた医療方針を「ガイドライン」といいますが、
終末期にさしかかった人を前にすると、大きな違和感を覚える言葉です。
「死」から「生」を考える医学教育は台湾にはありますが、日本では私くらい。
一方、本研究会は、「終末期」から「生」を考える研究会のように感じました。
人間とがんとの闘いは太古の昔からあり、未だに解決しません。
医学が発達して、完治や延命はできますが、100%死にます。
死を前にした人には、エビデンスやガイドラインは無意味であると思いますが
大病院のお医者さんの中には「死ぬまでガイドラインを守れ」という人もいる。
私には到底信じられない世界ですが、「それで満足」という人が居るのも事実。
要は自分の死生観を理解してくれる医者を見つけておかないと絶対に後悔する。
・がんは、終末期が近くなれば放置したほうがいい
・終末期以降は過剰な延命治療は控えたほうがいい
・延命と縮命の分水嶺を意識しないと酷い目にあう
・抗がん剤の“やめどき”を間違うと、後悔が残る
・平穏死とは、治療の“やめどき”を自己決定すること
実は、5つとも同じことを言っているのです。
慶応大学の近藤誠氏がいう「がん放置療法」とは、実は終末期の人へのメッセージです。
しかし間違ってはいけないのは、終末期以降のがんは放置したほうがいいが、
患者は放置してはいけない、充分な緩和医療が必須、ということです。
がんの放置と
患者の放置は、まったく意味が違います。
私もがんの放置はいくらでもありますが、患者を放置することは絶対ありません。
10分3万円のセカンドオピニオンで患者を突き放すような行為は理解できない。
一方、がんは放置しないが、患者の尊厳は放置する大病院の現状も理解できない。
つまり、「どっちもどっちやなあ・・・」と。
桜木町からの帰りの地下鉄の中で、そんなことを考えていました。
この研究会に入ったからこそそんな視点を持つことができました。
参考文献) 「長尾先生、近藤誠理論のどこが間違っているのですか?」(ブックマン社)
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この記事へのコメント
60歳過ぎて頑固なのはピック病だとか。
私は、安倍首相になり替わってお詫びします。
私は、母(91歳)の介護をしています。
母は「アルツハイマー」と言われましたが、私は「正常圧水頭症ではないか」と思っています。
しかし、アリセプト3mmを服用していて、メマリーも一緒に服用したら「譫妄状態」になりました。私は疲れ果てたのですが、薬を服用する事を止めると母の譫妄状態は消えました。
2013年の6月5日に大阪国際会議場リーガロイヤルNCBで日本ケアマネジャー学会第12回研究大会が開催されて、「丸善淳久」の本屋さんの売台に、河野和彦先生の「ピック病の症状と治療」の本が並んでいました。
帰りの電車の中で読んで見ると、母の症状と同一で「アリセプトとメマリーを服用して譫妄状態、興奮状態になる患者はピック病と診断する」と載っていました。
私の母の症状と一緒だったのでうれしくなって担当医にも相談すると「こんな本があるんだね」と驚かれていました。
私はこのことを長尾先生にもこのブログのコメント欄で報告したと思っていました。何故ならその直前くらいに西梅田のアサコムホールで朝日カルチチャーセンターの長尾先生の講演会で母の症状について質問したからです。長尾先生は「アリセプトは興奮系で、メマリーは抑制系だからアルツハイマーの薬なんだけど、患者さんの体調とかさじ加減で譫妄状態がでるのではないか」と言うような事をお教え下さったからです。
その後何等かの機会で長尾先生は河野和彦先生とお会いになって、お互いに同じ様な方向で研究なさっていらっしゃるように私には思えてうれしく思ってをりました。
ですから、尼崎のシビックホールで「認知症フォーラム、河野メソッドについて教えます」とパソコンの画面で広告があったので河野先生の本を4冊ぐらい持って参加しました。
でも河野先生が発明した「認知症を止める薬の話」とか森高千里さんのカラオケをバックにに「認知症のお婆さん」に扮した長尾先生がスカートを履いて白髪のカツラを振り乱して、替え歌を歌われたのにはびっくりしました。長尾先生のスタッフの方達も歌って踊っていました。私は長尾先生が扮している「認知症のお婆さん」が私の母の様な、私自身であるような気がして不愉快でした。
私の隣に座った若い清楚なお嬢さんもじっと動きませんでした。
終わった時は皆、無言で階段を逃げるように降りて、帰って来ました。
「河野メソッドについて教えます」と書いてあったのに、何が何だかさっぱりわかりませんでした。私は認知症の母の介護をしているのでアリセプトとメマリーについて教えて欲しかったのです。
私は介護支援専門員だったからケアマネジャー学会で河野和彦先生の本を読むことができました。
介護保険の諸悪の根源がケアマネジャーだとは誰にも言われたくありません。そんな事を言う人は自分がなれないから言っているだけだと思います。
長尾先生に当たり散らしたのは、フォーラムのスタッフも「河野メソッド」なんか知らない癖に皆で長尾先生の「認知症のお婆さん」を笑いものにしたからです。長尾先生は認知症のお爺さんではなくおばあさんになったのでしょう?ですから「長尾ばばあ」と申し上げてのです。でも言って終って、すっきりしたけど、長尾先生が落ち込んでいるかなあと思うとすまないと思う気持ちが強くなって余計に気が晴れません。2013年の6月7月のコメントを調べましたけど、私が長尾先生に「河野メソッド」について報告した形跡は有りません。
長尾先生に当たり散らして、どうも申し訳ありませんでした。
Posted by 大谷佳子 at 2015年09月03日 01:43 | 返信
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