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4つの痛みってなんだ?
2015年10月18日(日)
地域ケアリング第一回 (11月号) 4つの痛みってなんだ? 長尾和宏
「痛み」は本人しか分からない
恥ずかしながら、私は「痛み」について学校で習った記憶がない。たぶん習ったのであろうが、真剣に聞いていなかったのだろう。そして医者になってからも、「痛み」について真剣に考える機会もなく、30年が経過した。「痛み」について真剣に考えるようになったのは、この数年のことである。かといって、研修医時代にモルヒネカクテルを処方していた記憶があるから、それなりに考えていたのであろう。「それなりに」と書いたのは、「痛み」とは常に私では無い他人に起きていることであり、ついつい他人ごとのようになってしまうので、それではいけない、と一生懸命になっているという意味である。「痛み」を考える医学や看護、すなわち緩和医療や緩和ケアが今ほどに医療の幹になりつつあるのはこの数年のことである。
「痛み」は本人しか分からない。だからこそ、それを感じる側の感受性が問われる。同じ痛みであっても、看る人によって痛みの強さには大きな差があるのであろう。まったくの私見だが、感受性は百倍以上の個人差があるような気がする。感じる人には感じ、感じない人には感じるのが「痛み」ではないか。本人が言葉で「痛い、痛い」と叫べば、誰もが感じるであろうが、それでも痛みの大きさは色々ではないか。「痛み」は、決して検査値で「測る」ものではなく、どこまでも「感じる」ものであるとずっと思っている。
4つの痛みは区別できるのか
「痛み」には4つある、という。肉体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、そして魂の痛みだ。たとえば社会的痛みとは、たとえば「ああ、仕事に行けない」という痛みだそうだ。しかしこれは精神的痛みや魂の痛みとどう違うのだろう?とずっと気になっていた。
そもそも本当に4つに分けられるのだろうか?重なりは無いのだろうか?という疑問があった。そしてなにより、いつも4番目に書いてある「魂の痛み」とはなんなんだ?偉い先生の講義を何度か聞いたが、結局、分かったような分からないような話ばかりだった。そしてそれを聞いたところで、目の前で痛みを訴える患者さんにどう役立つのかがずっと不明のまま、歳だけとった。
肉体的痛みだけはなんとなく分かる、ような気がする。要するに「ズキズキ、ジンジン」痛い、と訴えるのだ。たぶん、いや間違いなく痛いのだろう。それには、医療用麻薬をはじめ沢山のお薬が在宅でも使えるようになった。飲み薬、座薬、貼り薬、そして注射などラインアップはほぼ完璧だ。30年前とは隔世の感がある。一方、その他の3つの痛みは、相変わらずよく分からないままだ。実は、4つの痛みは区別するものではなく、「トータルペイン」として捉えるものなんだよ、しかし分かりにくいので、とりあえず、4つに分けて考えると分かり易いというだけだよ、と誰かが教えてくれた。なるほど、それなら少し分かる。ような気がした。
でもどうしてもよく分からないし、気になるのは4番目の魂の痛み、スピリチュアルペインである。教科書によっては「霊的痛み」と書いてあり、どこかオカルトチックな匂いもする。そんないい加減な痛みって本当にあるのだろうか?どんなものだろう?いや、もしかしたら、これこそが一番大切な痛みかもしれない、と臨床経験を重ねるうちに思い至るようになった。
スピリチュアルケアこそが平穏死の条件
どうやら、スピリチュアルペインとやらがとても大切なようだ、と知り、有名な先生の講演を何度か聞きに行った。しかし、正直、よく分らなかった。綺麗ごとばかりのようでどこか心に響かなかった。医学書も買って読んだが、僕には難解で観念的なものに思えた。
そんなある日、NHKのテレビを見ていたらある在宅ホスピス医がスピリチュアルペインについて語っていた。正直、暗くて重い話に感じた。緩和ケアというより「対話」であると思った。末期がんで死にゆく患者さんとその在宅医の会話は、記録係により文章として記録されていった。その記録こそが緩和ケアであり、スピリチュアルケアであるという。「なるほど、スピリチュアルケアとは対話なのか」と少し分かったような気がした。しかしその対話の中に、なにか仕掛けのようなものがあるような気がした。現場に裏付けられた理論というか技術のようなものが、きっとあるのだろうと。
その後、ある学会でそのスピリチュアルケアの第一人者の講演を聞いた。テレビではあんなに暗かったのに、講演は笑いと涙が交互に来るような楽しいものだった。きっと誰でも元気になるような話だったのが意外だった。その講師が小澤竹俊先生という在宅医であることを知ったのは、それから半年位経ってからのこと。
ご縁とは不思議なもので、小澤先生とは学生時代から大学は違えど無医地区活動でご縁があったことを知りより親近感を覚えた。私は長野県で、小澤先生は福島県の農村で青春時代を費やした“同志”であった。それから1年ほど経過して、小澤先生から「エンドオブライフケア協会を設立しないか」、という相談があった。総論が多いが各論が少ないスピリチュアルケアを何とかしたいという想いは僕も同じだった。僕も「平穏死」と題した本を何冊か書き、日本尊厳死協会の副理事長を拝任している。緩和ケアこそが平穏死・尊厳死の条件であるので、小澤先生のお誘いに協力することにした。
認知症とスピリチュアルペイン
緩和ケアというと末期がんを連想する人が多いだろう。たしかに在宅現場では死ぬゆく人と様々な言葉を交わしている。しかし現実には、がん以外の病気の痛みに接する機会も多い。特に僕が興味があるのは認知症の人のスピリチュアルペインである。認知症の人が入る介護施設に定期的に訪問診療している。いつ訪問してもみんな机に伏して寝ている。多くの施設ではそこに入所しただけで無気力になる。しかしその中で、いつ行っても起きている婦人がいた。私の名前までしっかり覚えてくれている(認知症じゃない?)。「どうですか?」と聞くと、「はい。みなさまにお世話になって私はすごく幸せものです」との返事が返って来る。顔の表情は能面のようなのでとても幸せそうに見えないのだが、必ずそう返される。まるでオウム返しのように。私はこの人のこの言葉を聞く毎にこの人のスピリチュアルペインを感じてしまう。認知症として一生、死ぬまでここで暮さないと仕方が無い、という嘆きが聞こえてくるような気がしてならないのだ。
エンドオブライフケア協会ではがん患者さんの嘆きだけでなく、がん以外の病態の終末期にも寄り添う方法を学ぶ。「痛み」はあらゆる病気に関わる。極論すれば、生きている動物にはすべてスピリチュアルペインがあると考える。僕の関心事は認知症の人のスピリチュアルペインにどう関わるかがだ。まさに感受性の問題かもしれない。さらにたとえば自分の愛犬が死に瀕した時に我々はどう向き合うのか。
エンドオブライフケア協会では、言葉を大切に扱う。しかし言葉を超えた交流も忘れてはならない、と自分に言い聞かせている。エンドオブライフケア協会に関わることで、スピリチュアルペインの達人とまではいかなくても、もう少し奥義を知りたいと願う57歳です。一緒に学びましょう。どうぞよろしくお願いします。
「痛み」は本人しか分からない
恥ずかしながら、私は「痛み」について学校で習った記憶がない。たぶん習ったのであろうが、真剣に聞いていなかったのだろう。そして医者になってからも、「痛み」について真剣に考える機会もなく、30年が経過した。「痛み」について真剣に考えるようになったのは、この数年のことである。かといって、研修医時代にモルヒネカクテルを処方していた記憶があるから、それなりに考えていたのであろう。「それなりに」と書いたのは、「痛み」とは常に私では無い他人に起きていることであり、ついつい他人ごとのようになってしまうので、それではいけない、と一生懸命になっているという意味である。「痛み」を考える医学や看護、すなわち緩和医療や緩和ケアが今ほどに医療の幹になりつつあるのはこの数年のことである。
「痛み」は本人しか分からない。だからこそ、それを感じる側の感受性が問われる。同じ痛みであっても、看る人によって痛みの強さには大きな差があるのであろう。まったくの私見だが、感受性は百倍以上の個人差があるような気がする。感じる人には感じ、感じない人には感じるのが「痛み」ではないか。本人が言葉で「痛い、痛い」と叫べば、誰もが感じるであろうが、それでも痛みの大きさは色々ではないか。「痛み」は、決して検査値で「測る」ものではなく、どこまでも「感じる」ものであるとずっと思っている。
4つの痛みは区別できるのか
「痛み」には4つある、という。肉体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、そして魂の痛みだ。たとえば社会的痛みとは、たとえば「ああ、仕事に行けない」という痛みだそうだ。しかしこれは精神的痛みや魂の痛みとどう違うのだろう?とずっと気になっていた。
そもそも本当に4つに分けられるのだろうか?重なりは無いのだろうか?という疑問があった。そしてなにより、いつも4番目に書いてある「魂の痛み」とはなんなんだ?偉い先生の講義を何度か聞いたが、結局、分かったような分からないような話ばかりだった。そしてそれを聞いたところで、目の前で痛みを訴える患者さんにどう役立つのかがずっと不明のまま、歳だけとった。
肉体的痛みだけはなんとなく分かる、ような気がする。要するに「ズキズキ、ジンジン」痛い、と訴えるのだ。たぶん、いや間違いなく痛いのだろう。それには、医療用麻薬をはじめ沢山のお薬が在宅でも使えるようになった。飲み薬、座薬、貼り薬、そして注射などラインアップはほぼ完璧だ。30年前とは隔世の感がある。一方、その他の3つの痛みは、相変わらずよく分からないままだ。実は、4つの痛みは区別するものではなく、「トータルペイン」として捉えるものなんだよ、しかし分かりにくいので、とりあえず、4つに分けて考えると分かり易いというだけだよ、と誰かが教えてくれた。なるほど、それなら少し分かる。ような気がした。
でもどうしてもよく分からないし、気になるのは4番目の魂の痛み、スピリチュアルペインである。教科書によっては「霊的痛み」と書いてあり、どこかオカルトチックな匂いもする。そんないい加減な痛みって本当にあるのだろうか?どんなものだろう?いや、もしかしたら、これこそが一番大切な痛みかもしれない、と臨床経験を重ねるうちに思い至るようになった。
スピリチュアルケアこそが平穏死の条件
どうやら、スピリチュアルペインとやらがとても大切なようだ、と知り、有名な先生の講演を何度か聞きに行った。しかし、正直、よく分らなかった。綺麗ごとばかりのようでどこか心に響かなかった。医学書も買って読んだが、僕には難解で観念的なものに思えた。
そんなある日、NHKのテレビを見ていたらある在宅ホスピス医がスピリチュアルペインについて語っていた。正直、暗くて重い話に感じた。緩和ケアというより「対話」であると思った。末期がんで死にゆく患者さんとその在宅医の会話は、記録係により文章として記録されていった。その記録こそが緩和ケアであり、スピリチュアルケアであるという。「なるほど、スピリチュアルケアとは対話なのか」と少し分かったような気がした。しかしその対話の中に、なにか仕掛けのようなものがあるような気がした。現場に裏付けられた理論というか技術のようなものが、きっとあるのだろうと。
その後、ある学会でそのスピリチュアルケアの第一人者の講演を聞いた。テレビではあんなに暗かったのに、講演は笑いと涙が交互に来るような楽しいものだった。きっと誰でも元気になるような話だったのが意外だった。その講師が小澤竹俊先生という在宅医であることを知ったのは、それから半年位経ってからのこと。
ご縁とは不思議なもので、小澤先生とは学生時代から大学は違えど無医地区活動でご縁があったことを知りより親近感を覚えた。私は長野県で、小澤先生は福島県の農村で青春時代を費やした“同志”であった。それから1年ほど経過して、小澤先生から「エンドオブライフケア協会を設立しないか」、という相談があった。総論が多いが各論が少ないスピリチュアルケアを何とかしたいという想いは僕も同じだった。僕も「平穏死」と題した本を何冊か書き、日本尊厳死協会の副理事長を拝任している。緩和ケアこそが平穏死・尊厳死の条件であるので、小澤先生のお誘いに協力することにした。
認知症とスピリチュアルペイン
緩和ケアというと末期がんを連想する人が多いだろう。たしかに在宅現場では死ぬゆく人と様々な言葉を交わしている。しかし現実には、がん以外の病気の痛みに接する機会も多い。特に僕が興味があるのは認知症の人のスピリチュアルペインである。認知症の人が入る介護施設に定期的に訪問診療している。いつ訪問してもみんな机に伏して寝ている。多くの施設ではそこに入所しただけで無気力になる。しかしその中で、いつ行っても起きている婦人がいた。私の名前までしっかり覚えてくれている(認知症じゃない?)。「どうですか?」と聞くと、「はい。みなさまにお世話になって私はすごく幸せものです」との返事が返って来る。顔の表情は能面のようなのでとても幸せそうに見えないのだが、必ずそう返される。まるでオウム返しのように。私はこの人のこの言葉を聞く毎にこの人のスピリチュアルペインを感じてしまう。認知症として一生、死ぬまでここで暮さないと仕方が無い、という嘆きが聞こえてくるような気がしてならないのだ。
エンドオブライフケア協会ではがん患者さんの嘆きだけでなく、がん以外の病態の終末期にも寄り添う方法を学ぶ。「痛み」はあらゆる病気に関わる。極論すれば、生きている動物にはすべてスピリチュアルペインがあると考える。僕の関心事は認知症の人のスピリチュアルペインにどう関わるかがだ。まさに感受性の問題かもしれない。さらにたとえば自分の愛犬が死に瀕した時に我々はどう向き合うのか。
エンドオブライフケア協会では、言葉を大切に扱う。しかし言葉を超えた交流も忘れてはならない、と自分に言い聞かせている。エンドオブライフケア協会に関わることで、スピリチュアルペインの達人とまではいかなくても、もう少し奥義を知りたいと願う57歳です。一緒に学びましょう。どうぞよろしくお願いします。
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この記事へのコメント
スピリチュアルペインと言う痛みはあると思います。
「胸が痛む」とか「片腹痛い」とかいう言葉がぴったり当てはまります。
最近帯状疱疹後の痛みやアロデニアとか、多様な痛みの研究がなされているそうです。
未だまだ、発展しそうですね。
Posted by 匿名 at 2015年10月25日 12:19 | 返信
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