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あれから21年
2016年01月17日(日)
阪神大震災から21年目を迎えた。
あの朝のことは一生忘れることがない。
一方、東北の復興のおくれが気になる。
あの朝のことは一生忘れることがない。
一方、東北の復興のおくれが気になる。
21年前のこの日の朝、私は36歳だった。
市立芦屋病院の勤務医だった。
たいへんな状況だった。
言葉が不適当かもしれないが、この時刻に観た光景はまさに地獄絵だった。
先日、映画「海難1890」を観た時に21年前のこの日を思い出した。
それでも必死で闘った。
自分のほうが先に死ぬのではないかと思いながら、
この世の終わりと思いながら無我夢中の日々だった。
病院の玄関で開胸心マッサージなんてあり得ないだろう。
そのへんに子供の遺体なんてあり得ないだろう。
トラウマの中、震災の5ケ月後に開業して、無我夢中で仮設住宅を回っていた。
現在の自分の原点の半分は、21年前の出来事にある。
そのあり得ないことが、その16年後に東北でまた起きた。
圧死と溺死という違いはあれど、多くの命が一瞬で奪われた。
だから「防災」というものに目覚めた。
阪神のような倒壊の場合は、事前の耐震補強。
津波の場合は「防災とは逃げること!」という趣旨の
復興支援の講演を何度かしたことが、役に立つだろうか。
震災4ケ月後の7月11日には、「共震ドクター 阪神そして東北」を書いた。
また「無常素描」という映画造りに全面的に協力して、世界中で公開された。
書籍も映画も、どちらも世界で一番早かった。
焦りがあった。力ずくでもなんとかしたかった。
阪神の教訓を、なんとしても東北に活かしたかった。
しかし、私ごときが何かをしても何も変わらないことを思い知らされた。
一昨日、気仙沼の大島の方とお話をした。
「5年経つが何も変わっていない」、と言われた。
そこらじゅうに震災の爪痕が残ったままだと。
人口は減少して学校は閉鎖になったと。
仮設住宅での孤独死は阪神の時と同じ。
声を聞きながら、阪神の経験が活かされていないと力が抜けた。
「忘れてはならない。忘れてはならない」と刻んだ。
でも、本当にこれから何をすればいいのだろうか。
繰り返される自然災害の前では人間は無力。
しかし、それでも生きていく。
だからまずは、今日を楽しむ。
楽しいことだけやって、悔いのない1日を過そうと思う。
阪神の爪痕は被災者の心の中で消えていない。
東北の爪痕も100年後も残っているだろう。
中島みゆきの「ファイト」という歌が聞こえてくる。
みんなそれなりに、それぞれに頑張ろう。
市立芦屋病院の勤務医だった。
たいへんな状況だった。
言葉が不適当かもしれないが、この時刻に観た光景はまさに地獄絵だった。
先日、映画「海難1890」を観た時に21年前のこの日を思い出した。
それでも必死で闘った。
自分のほうが先に死ぬのではないかと思いながら、
この世の終わりと思いながら無我夢中の日々だった。
病院の玄関で開胸心マッサージなんてあり得ないだろう。
そのへんに子供の遺体なんてあり得ないだろう。
トラウマの中、震災の5ケ月後に開業して、無我夢中で仮設住宅を回っていた。
現在の自分の原点の半分は、21年前の出来事にある。
そのあり得ないことが、その16年後に東北でまた起きた。
圧死と溺死という違いはあれど、多くの命が一瞬で奪われた。
だから「防災」というものに目覚めた。
阪神のような倒壊の場合は、事前の耐震補強。
津波の場合は「防災とは逃げること!」という趣旨の
復興支援の講演を何度かしたことが、役に立つだろうか。
震災4ケ月後の7月11日には、「共震ドクター 阪神そして東北」を書いた。
また「無常素描」という映画造りに全面的に協力して、世界中で公開された。
書籍も映画も、どちらも世界で一番早かった。
焦りがあった。力ずくでもなんとかしたかった。
阪神の教訓を、なんとしても東北に活かしたかった。
しかし、私ごときが何かをしても何も変わらないことを思い知らされた。
一昨日、気仙沼の大島の方とお話をした。
「5年経つが何も変わっていない」、と言われた。
そこらじゅうに震災の爪痕が残ったままだと。
人口は減少して学校は閉鎖になったと。
仮設住宅での孤独死は阪神の時と同じ。
声を聞きながら、阪神の経験が活かされていないと力が抜けた。
「忘れてはならない。忘れてはならない」と刻んだ。
でも、本当にこれから何をすればいいのだろうか。
繰り返される自然災害の前では人間は無力。
しかし、それでも生きていく。
だからまずは、今日を楽しむ。
楽しいことだけやって、悔いのない1日を過そうと思う。
阪神の爪痕は被災者の心の中で消えていない。
東北の爪痕も100年後も残っているだろう。
中島みゆきの「ファイト」という歌が聞こえてくる。
みんなそれなりに、それぞれに頑張ろう。
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この記事へのコメント
先生。おはようございます。
先生にとって今日は特別な日なんですね。
私のほとんどのクラスメートが被災者だったり先生の様に医療従事者として
当時関わっていた事もあり私も今日を特別な思いで迎えました。
本当に明日何があるかわからないからこそ今日楽しむ事は大切ですね。
Posted by 匿名 at 2016年01月17日 11:21 | 返信
あれから21年...TVニュースでしたが、燃え盛る炎の中にある神戸の街の映像を、茫然と
見つめていた自分を思い出すことが出来ます。子育て真っ最中でしたから、自分の感受性も過敏
な時期であったせいか、と言うよりも、類を見ない映画スクリーンのようであったような、これまで
見た事もない光景が衝撃的だったのだと、記憶しています。
居ても立ってもいられない心境であったことも覚えています。「何かをしなければ」と突き動かされ
ました。幼い子供が居ましたので、できる範囲のことと言いましたら支援物資を送る事位しかできず、
学童用品をミシンで縫う作業をしました。ひたすらミシンを走らせ続けていました。
PTA役員が、物資を取り纏めるために待機した教室に出向きますと、部屋の天井高くまで積み上げ
られた子供用品や生活用品、その光景が目に浮かびます。
「無常素描」というネーミングが、とても深い味わいです。予告映像にあります、渚を走る海の音に
無常を深く感じました。
Posted by もも at 2016年01月18日 01:01 | 返信
あれから21年 ・・・・・・・ を読んで
あれから21年、2016年1月17日【日】 私は“追悼・連帯・
語り継ぐ集い 1.17”のメイン会場である神戸東遊園地に居て、
阪神淡路大震災の経験から私たちは何を学び、そして将来の
災害に対して何をしなければいけないかを、ずっと考え続け
て来ました。
長尾先生は本ブログで、“私ごときが何かをしても何も変わら
ないことを思い知らされた”と記述されています。
本当にそうでしょうか? 大きな自然災害の前で、一人ひとり
の力は確かに微々たるものかもしれませんが、無名のひとの
小さな活動の積み重ねの結果が現在となっていることを考えると、
一人の人が何かをしても何も変わらない ・・・・・ という表現はどう
なのでしょう。
気仙沼の大島の人から、“5年経つが何も変わっていない”という
話を聞かれたと書かれておられますが、私は昨年の10月に女川町
の方と話をする機会があり、その人からは僅かづつではあるが着実
に復興して来ている。 とお聞きしました。
どちらの言葉も、正直にご自分の感じられていることを語られてい
ると思いますが、 “時が経ってもなにも変わらない!” という考え
よりも、やせ我慢かも知れませんが、 “目に見える程ではなくとも、
良く見ると少しづつではあるが確実に復興してきている!”と考える
方が健全な考え方と私は感じます。
諦めて何もしなければ、状況は確実に悪くなって行くと思います。
少しでも復興を目指すならば、少なくとも現状維持を続けようと
思うならば、個々人が何がしかの行動を起こすしかない ・・・・・・
と私は考えています。
同じ文脈で、長尾先生が本ブログで、「防災とは逃げること!」
と記述されていることもちょっと気になります。
確かに、一義的には命を守るため、逃げることが最重要ではあり
ますが、真の防災力・真の減災力を考えるならば、その答えは
“コミュニティの充実!”ではないか? と、私は思っています。
もちろん、逃げて生き延びなければなにも始まりませんので、
「防災とは逃げること!」が最重要であることは間違いありませ
んが ・・・・・・・
震災後21年目に入り、震災を記憶し教訓を継承する活動は、今年
から若い藤本真一氏(31歳)に受け継がれました。
藤本氏は “個々人の力、活動は確かに大きな災害の前に無力なよう
にも思えます。 でも震災復興に “近道” はなく、個々人の小さな
力(活動)の結集と継続しか頼るものはない!”と語られています。
私は、将来の震災への備えと震災からの復興・教訓の継承に関する
限りにおいては、藤本さんの考えに賛同するものです。
個々人の活動が、無力ということは決してないと思います。
Posted by 小林 文夫 at 2016年01月18日 07:18 | 返信
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