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エンドオブライフケアとグリーフケア
2016年02月18日(木)
地域ケアリング第5回 エンドオブライフケアとグリーフケア 長尾和宏
49日まで
在宅で亡くなられた方の家に、1週間後に勇気を出して立ち寄ってみる。亡くなったのにいつもの曜日にいつもの時間に立ちよることは、最初は少し勇気がいる。しかし「死んだら終わり」ではない。深い悲しみの中にいる家族をねぎらい、なによりも仏壇に手を合わせながら故人と心を通わそうと念じる。ナラテイブという視点では、看取った家族との物語はまだ続いているのだ。本人のスピリチュアルペインはもちろん、家族のスピリチュアルペインにも寄り添うのが医療職の務めであろう。そして私たち医療者自身が感じるスピリチュアルペインも、死後の訪問で癒される。当院ではわざわざグリーフケアという言葉は使うこともなく、当たり前のような顔をして日常業務の中で患者さん死後も関わりを持ち続けている。
なかには49日まで毎週訪問することもある。毎週、故人と対話し、家族と雑談していると生きている時にはまったく気が付かなかった逸話に花が咲く。そしてやがて少しずつ自然に足が遠のいていく。そのうちにその家の前を通る時だけにその人を思い出すように関わりは薄れていく。そしていつしか忘れかけた時に、今度は配偶者や身内の在宅依頼が新たに舞い込む。そこでまた物語の続きが始まる。下町での在宅ホスピスとは、まさにご縁の連鎖であり、我々も大きな力に生かされていることを肌で感じるようになった。
やよい会、お花見、クリスマス会
前述したように、当院では忙しさにかまけて特にグリーフケアをやっていない。しかし毎年3月になると「やよい会」をやる。家族と我々の振り返りの会である。年間90名くらいの看取らせて頂いた家族に案内を差しあげると、3分の1位の家族が参加して下さる。その会ではできる限り我々は聞き役に徹する。半年前のことを思い出して号泣される家族もいれば、無我夢中の在宅療養の話しをしだしたら止まらなくなる家族もいる。我々はみんな知っているが、参加者同士は初めて会う方ばかり。そこでご家族同士の新たなご縁が生まれることもある。
こうした振り返りの会以外に、毎年恒例のクリニック主催のお花見やクリスマス会の際には、看取りを経験して何年か経過したご家族にも案内状を出すこともある。これは「忘れてはいませんよ」、「ご縁に感謝いたします」というメッセージである。クリニックの訪問看護師やケアマネさんたちが毎年、いろんな企画をしてくれる。私はただそこに行って、家族や新たな在宅患者さんたちと楽しい時間を過すだけであるが、大変好評である。クリスマス会は例年公民館などでやっていたが、昨年から搬送車の横付けがしやすいホテルに変えた。ホテルマンたちもとても協力的で貴重な時間を演出できている。地域包括ケアとは看取りのあとも続くもの、すなわち地縁であると考えている。
七変化できる臨床宗教師
亡くなられた後に関わる宗教者として日本人はもちろん仏教者が多い。時間があればお通夜や葬儀にも参加する。なかにはキリスト教はじめ様々な宗教者と関わることになる。たとえば、クリスチャンの場合は神父さんの話を一緒に聞いたり儀式に参加することもある。病院勤務医時代は霊安室からのお見送りですべてが終わりだったのが、在宅医になってからは葬儀の最後のほうまでお付き合いすることになる。きっと病院医療者が見たら滑稽な光景かもしれないが、在宅をやっていると自然にそのようになる。
臨床宗教師さんの活躍が最近盛んに報じられている。とてもいいことだと思う。私自身も僧侶の資格は無いが、亡くなりそうな在宅患者さんを囲んで臨終儀式をやることもある。クリニックに臨床宗教師さんがいつもいてくれたらなあ、と思うこともある。様々なストレスを抱える人には、心理カウンセラーが対応しているが本当は臨床宗教師のほうが相応しい場合もある。ただ、お坊さんの格好を嫌う患者さんやご家族がいるのも事実である。そういった場合にはもし臨床宗教師さんに平服で在宅患者さんのところに行って頂ければ有難い。制服が似会うシチュエーションと似会わないシチュエーションがあるので、時と場合によって七変化できる臨床宗教師がもっと増えて欲しい。
宗教とスピリチュアルケアはたいへん深くて大切なテーマである。エンドオブライフケア協会理事の小澤竹俊先生が最近出された書籍「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」(アスコム)は素晴らしい内容だ。まるでお坊さんの説教を聞いているように心が洗われる。タイトルや目次を眺めているだけでも強烈にインスパイアされる。患者さんやご家族は私たち、関わる側を映す鏡でもある。私たちが変われば相手も大きく変わる。因果がそのままはね返ってくるのが在宅ホスピスの醍醐味である。私自身はまだまだ達観できないが、今日一日をしっかり生きていきたい。まさに「置かれた場所で咲きなさい」の心境である。
49日まで
在宅で亡くなられた方の家に、1週間後に勇気を出して立ち寄ってみる。亡くなったのにいつもの曜日にいつもの時間に立ちよることは、最初は少し勇気がいる。しかし「死んだら終わり」ではない。深い悲しみの中にいる家族をねぎらい、なによりも仏壇に手を合わせながら故人と心を通わそうと念じる。ナラテイブという視点では、看取った家族との物語はまだ続いているのだ。本人のスピリチュアルペインはもちろん、家族のスピリチュアルペインにも寄り添うのが医療職の務めであろう。そして私たち医療者自身が感じるスピリチュアルペインも、死後の訪問で癒される。当院ではわざわざグリーフケアという言葉は使うこともなく、当たり前のような顔をして日常業務の中で患者さん死後も関わりを持ち続けている。
なかには49日まで毎週訪問することもある。毎週、故人と対話し、家族と雑談していると生きている時にはまったく気が付かなかった逸話に花が咲く。そしてやがて少しずつ自然に足が遠のいていく。そのうちにその家の前を通る時だけにその人を思い出すように関わりは薄れていく。そしていつしか忘れかけた時に、今度は配偶者や身内の在宅依頼が新たに舞い込む。そこでまた物語の続きが始まる。下町での在宅ホスピスとは、まさにご縁の連鎖であり、我々も大きな力に生かされていることを肌で感じるようになった。
やよい会、お花見、クリスマス会
前述したように、当院では忙しさにかまけて特にグリーフケアをやっていない。しかし毎年3月になると「やよい会」をやる。家族と我々の振り返りの会である。年間90名くらいの看取らせて頂いた家族に案内を差しあげると、3分の1位の家族が参加して下さる。その会ではできる限り我々は聞き役に徹する。半年前のことを思い出して号泣される家族もいれば、無我夢中の在宅療養の話しをしだしたら止まらなくなる家族もいる。我々はみんな知っているが、参加者同士は初めて会う方ばかり。そこでご家族同士の新たなご縁が生まれることもある。
こうした振り返りの会以外に、毎年恒例のクリニック主催のお花見やクリスマス会の際には、看取りを経験して何年か経過したご家族にも案内状を出すこともある。これは「忘れてはいませんよ」、「ご縁に感謝いたします」というメッセージである。クリニックの訪問看護師やケアマネさんたちが毎年、いろんな企画をしてくれる。私はただそこに行って、家族や新たな在宅患者さんたちと楽しい時間を過すだけであるが、大変好評である。クリスマス会は例年公民館などでやっていたが、昨年から搬送車の横付けがしやすいホテルに変えた。ホテルマンたちもとても協力的で貴重な時間を演出できている。地域包括ケアとは看取りのあとも続くもの、すなわち地縁であると考えている。
七変化できる臨床宗教師
亡くなられた後に関わる宗教者として日本人はもちろん仏教者が多い。時間があればお通夜や葬儀にも参加する。なかにはキリスト教はじめ様々な宗教者と関わることになる。たとえば、クリスチャンの場合は神父さんの話を一緒に聞いたり儀式に参加することもある。病院勤務医時代は霊安室からのお見送りですべてが終わりだったのが、在宅医になってからは葬儀の最後のほうまでお付き合いすることになる。きっと病院医療者が見たら滑稽な光景かもしれないが、在宅をやっていると自然にそのようになる。
臨床宗教師さんの活躍が最近盛んに報じられている。とてもいいことだと思う。私自身も僧侶の資格は無いが、亡くなりそうな在宅患者さんを囲んで臨終儀式をやることもある。クリニックに臨床宗教師さんがいつもいてくれたらなあ、と思うこともある。様々なストレスを抱える人には、心理カウンセラーが対応しているが本当は臨床宗教師のほうが相応しい場合もある。ただ、お坊さんの格好を嫌う患者さんやご家族がいるのも事実である。そういった場合にはもし臨床宗教師さんに平服で在宅患者さんのところに行って頂ければ有難い。制服が似会うシチュエーションと似会わないシチュエーションがあるので、時と場合によって七変化できる臨床宗教師がもっと増えて欲しい。
宗教とスピリチュアルケアはたいへん深くて大切なテーマである。エンドオブライフケア協会理事の小澤竹俊先生が最近出された書籍「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」(アスコム)は素晴らしい内容だ。まるでお坊さんの説教を聞いているように心が洗われる。タイトルや目次を眺めているだけでも強烈にインスパイアされる。患者さんやご家族は私たち、関わる側を映す鏡でもある。私たちが変われば相手も大きく変わる。因果がそのままはね返ってくるのが在宅ホスピスの醍醐味である。私自身はまだまだ達観できないが、今日一日をしっかり生きていきたい。まさに「置かれた場所で咲きなさい」の心境である。
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この記事へのコメント
臨床宗教師さんという言葉を初めて拝見したのですが、とてもいいお話です。
以前、身内を亡くした時に長らく辛い思いをしましたが、札所巡りをするうちに
お坊さんからお説法を何度かお聞きする機会があり、そこからずいぶん精神的に
救われた気がします。
宗教とは本来、そういうものですよね。お釈迦様は生老病死など四苦八苦を
救うために修行された…。
こんな時代だからこそ、宗教(どんな宗教でも)は原点に戻って民を導いて
ほしいものです。
もちろん、医療も(~_~;)。。。
Posted by 匿名 at 2016年02月18日 06:55 | 返信
私もとある勉強会で良いターミナルケアは良いグリーフケアにつながると聞いたことがあります。
今日の記事を読んで改めて2つは別のものではなくつながっているものだと思いました。
信仰を持っている方はもちろん持ってない方にとってもターミナル期は特に宗教者による宗教的ケアは
有用だと思います。
小澤先生の本読んでみます。
Posted by 匿名 at 2016年02月18日 07:29 | 返信
↑
すみません。変換間違えました。有用ではなく必要でした。
Posted by 匿名 at 2016年02月18日 07:45 | 返信
地域ケアリング3月号を拝読しました。
長尾先生の日常を読みながら、『輪廻』という文字が思い出されました。
人生ってそんなものなのかも..なァ..と思いました。
人生の末路に僧侶が訪れることを忌み嫌う風潮が、改められる時期が訪れると
いいですね。折に触れて仏教教育などがあれば、そのような偏見も減るかも知れません。
なにかと「癒し」ブームなのですから、仏教は安全域で、一番日本人にとって理解し易い
領域分野だと思います。
仏教の本場タイで、一糸乱れぬお経の声は、さぞかし荘厳だったのではないでしょうか。
Posted by もも at 2016年02月18日 07:39 | 返信
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