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認知症という言葉が無い国

2016年03月06日(日)

産経新聞の連載の3月1日には、タイについて書いた。
「認知症という言葉が無い村」というタイトルをつけた。→こちら
日本もアジア(40年前の日本)に見習うべき点があるのでは。
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産経新聞認知症の基礎知識シリーズ 第11話 タイ王国コンケン県
                               認知症という言葉が無い村
 
2月11~14日、ある研究のためタイ国を生まれてはじめて訪問しました。バンコクから飛行機を乗り継ぎタイの東北部にあるコンケン県という地方都市に着きました。日本に喩えるならば福島県のような場所です。そこから車で1時間ほど揺られるうちに目的地のあるお寺に到着。人口わずか200数十人の小さな村です。実はコンケンには認知症という言葉が無いという触れ込みでした。そこは小さな村ですから村長さんやお寺のお坊さんは、どこにどんな病人がおられるのか正確に把握されていました。私はお寺のお坊さんに連れられてその村に数人いる寝たきり状態の高齢者の家を訪問しました。

果たしてそんな小さな村にもちゃんと認知症の人は、いました。どうして認知症って分かるかって?実は通訳さんを介して年齢を聞いてみたのです。答えた年齢が10歳以上も離れていたらそりゃ認知症でしょう(笑)。でも本当に認知症に相当する言葉はありませんでした。家族はみな「歳をとれば仕方が無いこと」と諦めているようでした。ちなみにコンケンには介護に相当する言葉もありませんでした。もちろん介護保険制度も介護施設もケアマネージャーも福祉用具も介護に関係する言葉は一切ありませんでした。ついでに言うなら日本の国民皆保険制度に相当する医療制度もありません。庶民のため最低限の医療制度として30バーツ医療(日本円で100円相当)があります。見るからに死期が迫っていり高齢者は家の軒下で近所の子供たちと寝ころんだまま遊んでいました。古い水道管で工作した歩行器でトイレまで歩き、歩けない人は床を這っていました。犬や猫や鶏たちも一匹たりとも鎖に繋がれている動物は見書けませんでした。もちろん高齢者もみんな“放し飼い”ではありませんが、好きなように移動していました。そして自宅の軒先で枯れるように家族やお坊さんに見守られながら旅立つというのです。

結局、タイの田舎に村にあったのは「老い」という言葉だけ。日本の介護施設のように二重、三重鍵や抑制や虐待は皆無。参考までにお坊さんが日本よりずっと尊敬されていると感じました。日本のお坊さんは大切な人が亡くなってから登場しますが、タイのお坊さんは毎朝村人と共に食事を食べ村を巡回し、小学校では子供たちに声をかけ、午後は医者の代わりに村人たちの相談に乗っていました。タイのお坊さんはまさに今、生きている人のために活動し、お寺は地域の中心、公民館のような場所でした。

さて、日本では90歳台の人が腰や膝が痛いという訴えで専門医を受診されます。そこでその人にもし「老い」という言葉を使うものなら怒りだす90歳台の方がたくさんおられます。おまけに後で怒鳴りこんで来る子供さんもおられます。日本では、アンチエイジング医学でどこまでも老いと闘おうとする医療がもてはやされます。裸の王様ではありませんが私のように、本当のことを言うと患者さんもご家族も二度と寄り付かなくなります。

我が国の高齢者医療や介護は何かと欧米を見本にしたがります。しかし今回の視察でタイの田舎など東南アジアに学ぶべきこともいっぱいあると思い直しました。それは老いを病ではなく自然な変化として受け入れる、日本人が忘れた文化だと思いました。
 
 
キーワード タイ王国
面積は日本の約1.4倍で人口は6千600万人。94%が仏教徒で5%がイスラム教徒。伝統的に柔軟な全方位外交を維持しつつ,ASEAN諸国との連携と日本などの主要国との協調が外交の基本方針である。
 
 
 

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この記事へのコメント

福祉に携わってみると、日本人は管理される事を良しとし、分類される事を好むということが
よく分かります。お医者さんは尚のこと、そう実感しながら、それを求める患者=日本人の要求に
応えてカルテに病名を記すのでしょうね。
先頃、カウンセラーである友人の言葉に、興味し納得しました。
認知症に関する会話ではありませんが、現在の日本医療を物語る話だったと思います。
「本人に病識が無ければ病気とは、ならない。病人にすることはできない。」
自ずから、分類される道へと足を運ぶ必要は無い、ということなのだと思います。

Posted by もも at 2016年03月06日 11:02 | 返信

認知症という言葉が無い国 ・・・・・・ を読んで


タイ国には、認知症という言葉も、介護という言葉も
ない、と記述されていますが ・・・・・・・
日本で介護保険が施行されたのが2000年4月、そして
呆け/痴呆という言葉が差別用語と言われ“認知症”という
言葉が創設されたのが2004年ですから、日本国に於い
ても、20年前には今のタイ国と同様の状況であったので
はないか? と想像しています。
私が子どもの頃、高齢期を迎えていた祖父は枯れるよう、
そして祖母は萎むように自宅で静かに息を引き取りました。
当時は50歳を越えると、日常時の医療の介入が今ほど
濃密ではなかったように記憶しています。
老いは病気ではありません。
呆けも、年相応の老化であり、病気ではないと思っています。
ここいらでもう一度、日本に “痴呆 / 呆け”という言葉を
復活させることは出来ないものでしょうか?

Posted by 小林 文夫 at 2016年03月07日 12:09 | 返信

おはようございます。
私も病気ではなかった「ボケ」の時代でよかったと感じます。
認知症と呼ぶことで病気になってしまった。厚○省と製薬会社の陰謀(-_-;)。
子供時代、まわりには普通にボケた老人が多かったけど、年寄はそんな
もんだ、という自然の受け入れでした。
人間はいつの間にか必要以上のものを求めすぎるようになったと感じ
ますが、それは与えすぎてきた(国政)結果と、それを標準にして
しまったところに問題があるように思います。
でも、かつての自然に戻ることはもう無理なのかもしれませんね。
先生が周辺の理解にご苦労されているほどではないですが、私も
死生観や認知症の視点を周辺に話すと、異質な目で見られます(^_^;)…
でも、ひそかにレジスタンスは続けます~

Posted by 匿名 at 2016年03月08日 07:34 | 返信

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