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不思議な事
2016年03月08日(火)
生きていると、時々、不思議なことがある。
「よりによって、そんなことが起きるなんて」
それが、起きる時には起きるのですよね。
「よりによって、そんなことが起きるなんて」
それが、起きる時には起きるのですよね。
私はシンクロニシテイに毎日、溢れている。
たとえば、1年ぶりにある人に手紙を出そうと思っていたら
その人から手紙が届いたばかり。 まさに以心伝心だ。
絶対に遭う事の無い人に、絶対に逢うはずの無い場所で偶然出会う。
そんな不思議な体験は、きっと誰にもあるはず。
5年前の津波で流されたアルバムがもたらした再開。
尊敬すり立谷先生の個人的な話。
それにしても、立谷さんの祖母は綺麗な人だったのだ。
もうすぐ5年。
いろんな魂がシンクロしはじめている。
◆━━━ 相馬市長立谷秀清メールマガジン 2016/03/04号 No.300 ━━━◆
----------------------------------------------------------------------
みなさんこんにちは。相馬市長の立谷秀清です。
今回は、私の書き下ろしエッセー「何をば語りたもうや」をお届けします。
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●「何をば語りたもうや」
この美しい女性と、私は今日初めて出会いました。
私に何か言いたげな面持ちのセピア色の写真。
日本女性の凛とした美しさと、どことない愁いを感じます。
彼女に関して多少の事はわかっていましたが、写真を見たのは初めてでした。
この写真が撮影されたのはおそらく1927年。88年前の事です。
彼女は現在の福島市飯野町の出身。東京の女子美術学校を卒業して、同じく福
島県から京都大学に遊学していた男と知り合い、そして結ばれ、ふたりは朝鮮
の釜山に渡りました。
写真はその時代に釜山の写真館で撮られたものと思われます。
ふたりの間にできた男の子を一人残して、その後、悲しくも彼女は23才で亡く
なりました。
私がこの美しい女性と、今日まで出会うことが無かったのには訳があります。
この写真は、東日本大震災の津波で流されていた持ち主不明のアルバムの中に
ありました。
88年前、幼い男の子を残して彼女が亡くなったあと、男は一念発起して、東北
大の大学院で経済学に打ち込みます。仙台の女性とその後に再婚。
遺された男の子に後妻は惜しみ無い愛情を注ぎました。そして一族は、物心つ
かない男の子には、本当の母親でないことをひたすら隠して育てました。後年、
青年期になった遺児が産みの母の事を知り、母のふるさとを訪ねたとき、遺児
の祖父母は一目でわかったそうです。後妻は遺児の成長を写真に修め、節目ご
とに報告していたからです。
そして遺児は、実の母を知ったことを決して顔に出しませんでした。実の母が
亡くなった後、一族が迎えた後妻は、ひたむきな、いつも謙虚で控え目なひと
でした。その人格に応えるが故に、また遺児への秘密を守ろうとしたが故に、
革表紙のアルバムに納められた実の母の写真は、決して遺児の眼に触れぬよう、
土蔵の奥にひっそりとしまいこまれていたのです。
それが、大震災の津波に打たれ壊された土蔵から流れ出て、ボランティアに拾
われ、瓦礫の泥を洗われ、持ち主不明写真の棚の上に置かれていました。
浜にしては瀟洒な、革表紙の古いアルバムに何気なく目を留めた遺児の妻が、
夫の母親のアルバムと気付き、訳を話して持ち帰りました。そして優しかった
姑への義理により、ひとに見せることなく大切に保管していたのです。
今日、入院先の病院から帰宅した高齢の遺児の妻は、きっと彼女が私の手を招
いたに違いない、大事なものだから預かって欲しいと息子に託しました。
それでこの写真(#1)が、いま私の手元にあります。
そう。
その遺児とは、私の父親。
この女性は、私の祖母なのです。
成人となった後、画学生だった母親が遺した自画像(#2)を入手した私の父は、
何よりも大切な宝にしてきました。感謝尽くせぬ育ての親を看取った後、私が
見せてもらったその自画像は、自らの内面を洞察する感性豊かな絵だと思いま
す。
ところがそこに描かれた女性は美しさとは程遠い人でした。しかし父には人生
を勇気付けてくれる大切なお守りだったのです。
父の心を励まし続けた祖母は、母の手を招いて、孫の私に何を語らむがために
来たのでしょう。
(#1)http://www.city.soma.fukushima.jp/mayor/essay/image1.jpg
(#2)http://www.city.soma.fukushima.jp/mayor/essay/image2.jpg
たとえば、1年ぶりにある人に手紙を出そうと思っていたら
その人から手紙が届いたばかり。 まさに以心伝心だ。
絶対に遭う事の無い人に、絶対に逢うはずの無い場所で偶然出会う。
そんな不思議な体験は、きっと誰にもあるはず。
5年前の津波で流されたアルバムがもたらした再開。
尊敬すり立谷先生の個人的な話。
それにしても、立谷さんの祖母は綺麗な人だったのだ。
もうすぐ5年。
いろんな魂がシンクロしはじめている。
◆━━━ 相馬市長立谷秀清メールマガジン 2016/03/04号 No.300 ━━━◆
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みなさんこんにちは。相馬市長の立谷秀清です。
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●「何をば語りたもうや」
この美しい女性と、私は今日初めて出会いました。
私に何か言いたげな面持ちのセピア色の写真。
日本女性の凛とした美しさと、どことない愁いを感じます。
彼女に関して多少の事はわかっていましたが、写真を見たのは初めてでした。
この写真が撮影されたのはおそらく1927年。88年前の事です。
彼女は現在の福島市飯野町の出身。東京の女子美術学校を卒業して、同じく福
島県から京都大学に遊学していた男と知り合い、そして結ばれ、ふたりは朝鮮
の釜山に渡りました。
写真はその時代に釜山の写真館で撮られたものと思われます。
ふたりの間にできた男の子を一人残して、その後、悲しくも彼女は23才で亡く
なりました。
私がこの美しい女性と、今日まで出会うことが無かったのには訳があります。
この写真は、東日本大震災の津波で流されていた持ち主不明のアルバムの中に
ありました。
88年前、幼い男の子を残して彼女が亡くなったあと、男は一念発起して、東北
大の大学院で経済学に打ち込みます。仙台の女性とその後に再婚。
遺された男の子に後妻は惜しみ無い愛情を注ぎました。そして一族は、物心つ
かない男の子には、本当の母親でないことをひたすら隠して育てました。後年、
青年期になった遺児が産みの母の事を知り、母のふるさとを訪ねたとき、遺児
の祖父母は一目でわかったそうです。後妻は遺児の成長を写真に修め、節目ご
とに報告していたからです。
そして遺児は、実の母を知ったことを決して顔に出しませんでした。実の母が
亡くなった後、一族が迎えた後妻は、ひたむきな、いつも謙虚で控え目なひと
でした。その人格に応えるが故に、また遺児への秘密を守ろうとしたが故に、
革表紙のアルバムに納められた実の母の写真は、決して遺児の眼に触れぬよう、
土蔵の奥にひっそりとしまいこまれていたのです。
それが、大震災の津波に打たれ壊された土蔵から流れ出て、ボランティアに拾
われ、瓦礫の泥を洗われ、持ち主不明写真の棚の上に置かれていました。
浜にしては瀟洒な、革表紙の古いアルバムに何気なく目を留めた遺児の妻が、
夫の母親のアルバムと気付き、訳を話して持ち帰りました。そして優しかった
姑への義理により、ひとに見せることなく大切に保管していたのです。
今日、入院先の病院から帰宅した高齢の遺児の妻は、きっと彼女が私の手を招
いたに違いない、大事なものだから預かって欲しいと息子に託しました。
それでこの写真(#1)が、いま私の手元にあります。
そう。
その遺児とは、私の父親。
この女性は、私の祖母なのです。
成人となった後、画学生だった母親が遺した自画像(#2)を入手した私の父は、
何よりも大切な宝にしてきました。感謝尽くせぬ育ての親を看取った後、私が
見せてもらったその自画像は、自らの内面を洞察する感性豊かな絵だと思いま
す。
ところがそこに描かれた女性は美しさとは程遠い人でした。しかし父には人生
を勇気付けてくれる大切なお守りだったのです。
父の心を励まし続けた祖母は、母の手を招いて、孫の私に何を語らむがために
来たのでしょう。
(#1)http://www.city.soma.fukushima.jp/mayor/essay/image1.jpg
(#2)http://www.city.soma.fukushima.jp/mayor/essay/image2.jpg
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この記事へのコメント
お綺麗な女性を映したセピア色の写真と共に、味わい深く又雰囲気を捉えた印象深い絵画の話は
小説のようでした。写真も絵もシンクロを生み易い媒体であると同感です。
美術館に来日する有名な画家による作品を鑑賞していると、何百年も前に描かれた、当時は無名な
売れない画家による作品であったものが、世界各地で多くの人々の目に留まる絵画になろうとは
それ自体がシンクロであると思ったりします。解説による時代背景を読みながら、また画家の
ミステリアスな部分に惹かれたりと、シンクロニシティー = ロマン であると思います。
さしずめ、シンクロを多く経験する方は概してロマンチストでしょう。きっと..。
Posted by もも at 2016年03月09日 07:18 | 返信
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