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がんは二度生きられる
2016年03月12日(土)
「地域ケアリング」4月号の連載は「がんは二度生きられる」。
もちろんエンドオブライフ協会の活動も紹介されている。
最終回なので、個人的な話、母の死についても触れた。
もちろんエンドオブライフ協会の活動も紹介されている。
最終回なので、個人的な話、母の死についても触れた。
「がんは二度生きられる病気」→こちら
きっと反発する人もいるのだるう。
受け止めかたは千差万別だろう。
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地域ケアリング第6回 がんは二度生きられる病気 長尾和宏
「がんになって良かった」
がん=死、ではない。しかしたいていの人はがんを宣告された瞬間、ガーンと落ち込む。たぶん私もそうだろう。やじゃり、がん=死というイメージは根強い。しかしがん全体の10年生存率は約6割である。がんを宣告されても10年後に生きている確率のほうが高い。まして前立腺がんや乳がんの10年生存率は9割である。10年後も9割が生きている。だからがん宣告=死、ではないのは明らかだ。少なくともがんを宣告されて2~3ケ月で死ぬことはない。
先日、大腸がんを6回手術したという人と対談をして食事もした。その人は大腸がんを2回手術、肝転移を2回手術、そして左右の肺転移を2回手術と合計6回のがん手術を乗り越えてから10数年経つが元気一杯の人だ。ステージⅣの大腸がんを外科手術と抗がん剤で見事に乗り切ったわけなので、近藤誠医師の本がいくら売れようが「がん放置療法」が間違い、であることを証明している生き証人でもある。
その人に限らず、がんサバイバーのなかには「がんになって良かった」という趣旨のことを言われる方が多い。「それまで当たり前だったことがそうではないことに気が付いた」とか「生かされていることに気が付いた」みたいなことを言われる。サムシンググレイトに目覚めたのであろう。より活き活きと、利他の精神で生きている姿を見ながら「やはりこの人は生かされているのだ」と私自身も感慨に耽る。つまり、がんは二度生きられる病気であると思う機会が増えてきた。
君は死の淵を見たことがあるか
戦争体験も同様かもしれないが、やはり「死の淵」を見て生き延びた人は強い。私はまだ死の淵を見たことが無いくせに偉そうに死ぬ本ばかり書いている。しかし所詮は素人であり、ひよっ子だと自覚している。がん検診など受けていないくせに「いい歳だし体のどこかにがんがあるかも?」という心配も心のどこかにあり、「いつかは観念せんとあかんやろな」という迷いも交錯するこの頃である。
日々在宅医療で末期がんの患者さんと接している。患者さんの苦悩をトータルペインとして受けとめよう、スピリチュアルペインにしっかり向き合おう、と思いながらも実際にそれができているのか?と問われたら自信は無い。「たぶん、少しは…」程度であろう。スピリチュアルペインはどこまで行っても、1人称でない限り実感できないものかもしれない。しかし少なくとも3人称ではなく、2.5人称としてスピリチュアルペインを捉えられる医療者になりたいとは願う。小澤竹俊先生の講演を聞く度にそう思う。おそらく多くの医療職、介護職も同様ではないか。そして講演を聞き、たくさんの本を読み、研鑽を重ね続けることが専門職の務めであろう。
母の死
本連載は今回で最終回であるので少し個人的なことを書かせて頂く。私の母が先日、交通事故で亡くなった。86歳であったがまだまだ元気であったので長男として残念である。ほぼ即死であったのだが、人工呼吸器のおかげで集中治療室の中で5日ほど生かせて頂いた。もちろん意識もなく意思疎通もできない状態だ。そんな母の顔を毎日見に行きながら、どんなスピリチュアルペインを息子として感じることができるのか、自問していた。正直、母親の痛みを感じることができたとは思えなかった。本人が一番、自分が今置かれている状況を知らないので可哀そうだと思った。交通事故死とはそんなものであろう。私は2000人以上の死に関わってきたので、きっと母が無くなっても泣かないだろうと思っていた。主治医から「心臓が止まった」と宣告されても涙は出なかった。しかし集中治療室の片隅に置かれていた母の衣類が入ったビニール袋を開け、轢かれた衝撃でボロボロになったダウンジャケットから飛び出た羽毛とそれに5日間付着したままの血の匂いを嗅いだ瞬間に涙が溢れ出た。母の無念さを感じたからだ。母親のスピリチュアルペインどころか自分自身のスピリチュアルペインに泣いた。
40年前の冬に自死をした父親と別れ、この冬には老いた母との別れが待っていた。両親とも終末期が無い突然死に分類される最期であった。患者さんのスピリチュアルペインばかりにエネルギーを費やし、一番お世話になった両親のスピリチュアルペインには何の恩返しもできなかった世界一、親不幸な息子であった。きっと私自身も同様な最期であろう。しかしそれでも医療者という道を選び、在宅という素敵なステージに立ち続け、少しは分かったような顔をしてスピリチュアルペインを語っているのだから、母親も49日を迎え少しは納得してくれるのではないか・・・
半年間、お付き合い頂いた皆様に御礼を申し上げたい。今後も一般社団法人エンドオブライフケア協会をよろしくお願いいたします。
みなさまと共に、笑顔で2025年を迎えましょう。ありがとうございました。
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この記事へのコメント
結果論ですが、これまで何かしらの仕事に従事してきた自分は、人と出会うために働いてきたのかも
知れないと思うことがあります。(もちろん経済的理由は第一)
何かの折に、深み重みのある良い話(ためになる言葉)を頂く機会を持つことができたから、又そういう
言葉を持ち合わせる人物と出会うことができたのは、仕事がもたらした出会いであるから、そう思える
のかも知れません。つい最近にも、愚痴のような世間話の中で、人生の大先輩から
「降りかかったことには、全て意味がある」という言葉を頂きました。
苦労、苦難の大小こそあれ、染み入る言葉でした。ふと、そんな会話を思い出しました。
長尾ブログを訪れて、spirit of Mr.Nagao に触れる心地良さがあるのです。
理屈や理論を活字にすると、あーでもない、こうでもない..が溢れてしまいますが、そうではなくて
人各々が独自に感じるspiritual があるのです。その時に個々の胸の内にあるspiritual pain が
癒されているのだと思います。
Posted by もも at 2016年03月12日 09:46 | 返信
おはようございます。
昨日の小林麻央さんのブログ開始のニュースを聞き、ブログを読んで涙が出ました。
彼女のブログを読んで正にがんは二度生きられるという言葉そのものだなと思いました。
てっきりブログで先生もコメントされるかと思っていたのですが。。。
それにしても改めて患者さんにとって医師の言葉は大きな影響があるんだなと思いました。
Posted by 匿名 at 2016年09月02日 07:02 | 返信
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