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祝・釜石高校初勝利
2016年03月22日(火)
釜石高校が甲子園で2:1で初勝利をあげた。
相手は小豆島高校となんとも言えないカード。
春の甲子園は、夏と少し違ってどこか切ない。
相手は小豆島高校となんとも言えないカード。
春の甲子園は、夏と少し違ってどこか切ない。
http://mainichi.jp/koshien/articles/20160322/k00/00m/050/046000c
釜石(岩手)のスタンドでは、東日本大震災で家族や友を亡くし、
復興を進める人たちが球児に声援を送った。
記憶に残る21日の甲子園は、
新しい歩みを踏み出す場にもなった。
20年前のセンバツに釜石南(現・釜石)として出場した野球部OB会長の
小国晃也さん(37)は、試合開始と同時にアルプス席でユニホームを高々と掲げた。
「KAMAISHI MINAMI」と校名が入った白い上着は、
2011年の東日本大震災で、32歳の若さで亡くなった宮田豊さんの遺品だ。
「後輩たちが戦うぞ」と亡き友に語りかけた。
宮田さんはその後、岩手県釜石市で運送会社を経営。
5年前の震災で津波に流された。
遺体で見つかったと知った小国さんだが、
「死んだとは思えない」と、今も受け入れられないでいる。
野球部OBらは、お盆の頃に宮田さんらを追悼する試合を開いてきた。
仲間で飲むときは、宮田さんのお酒も注文してテーブルの真ん中に置く。
「みんなに愛されていたな」と宮田さんをしのび、
「あの時は惜しかった」と甲子園の思い出を語る。
釜石の21世紀枠での出場が決まり、
「一緒に連れて行こう」と宮田さんの実家からユニホームを借りてきた。
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私は香川県出身なので小豆島と聞くと胸が切なくなる。
10回以上は立ちより、すみずみまで回ったことがある。
一方、釜石は震災後はじめて足を踏み入れた東北の地。
大型タンカーが家の上に乗ったという家に入っていった。
そこで逢った少女との会話が、映画「無常素描」のラストシーン。
「またここに住む。だって海、好きだもん」とは少女の言葉だった。
町はまだ大変な状態だ。
だからこそ甲子園での一勝は大きな励みになる。
香川県小豆島対岩手県釜石、と聞いた時、
なんという巡りあわせだろうか、と切なくなった。
私は、野球が大好きな子供だった。
小学生時代は、日が暮れるまで毎日野球をしていた。
高校時代もバレーボールの合間に、野球のピッチャーで投げたこともある。
大学でも野球が忘れられず、無医地区活動の合間だが準公式野球部だった。
中学時代は、陸上部で長距離の選手だった。
春休みや夏休みは、宝塚に近い自宅から甲子園まで毎日走っていた。
おそらく毎日、30kmくらいだったのだろう。
無料の外野席で、野球を観戦してからまた走って家に帰った。
それだけ鍛えていたので、生まれて一度も病気をしたことが無い。
小学、中学も皆勤賞だったし、医者になってからも1日も病気で休んだことが無い。
毎日、深夜も仕事をしてメタボになりながらも倒れもせず働けるのは
学生時代に野球や陸上をやっていたからだ、と思っている。
毎日4~5回はコンビニに入り、1~2食は車を運転しながらになる。
そんな無茶苦茶な生活は学生時代の「修行」の貯金でやってきた。
なぜなのか、高校球児を見ると嬉しくなる。
頑張っていい大人になれよ、と声をかけたくなる。
甲子園球場の前を毎日通る。
忙しくて中に入れないが外からエールを送っている。
PS)
1日18時間労働を365日続けているが、私も人間だ。
そろそろ倒れるかもしれない。
今日も信じられないくらい働いた。
最後の往診が終われば、いつも23時位になる。
昼間は秒刻みの戦争だ。
トイレに行く間も無いので膀胱がんになるかも。
プロ野球は賭けで首になったり謝罪したり。
しかしそもそも、なぜ賭けがいけないのか。
仕事もプライベートも賭けばかりなのが人生。
賭けを否定することは人生をも否定することにならないかが心配。
桜が咲き始めた。
待ち望んだ春がやってくる。
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