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2度目の新発田講演
2017年03月11日(土)
昨日は、新潟県村上市医師会主催の講演会だったが、今日は
新発田市医師会と新発田市行政が主催する市民講演会だった。
2日間で、結局、4つの講演をしたことになる。今から帰阪。
新発田市医師会と新発田市行政が主催する市民講演会だった。
2日間で、結局、4つの講演をしたことになる。今から帰阪。
新発田市での大きな講演はたしか2回目。
いや3回目?いや、4回目??
よく分からないくらいのご縁ができた。
ある大学の研究者たちが縁結びをしてくれている。
昨夜は、村上市の瀬波温泉にある「大観荘」に宿泊。→こちら
凄い温泉と凄い食事で、とても癒された。
それにしてもこの旅館からの日本海の眺めは最高。
雄大な温泉もサービスもなにもかもが満点のホテルだ。
さて、新発田市での市民フォーラムのテーマは
「救急車を呼ぶということ」であった。
大変重要なテーマであるが、新発田市では看取り搬送が
年間60件くらいあるとのことで、救急車のお話が中心。
村上市と新発田市は近いけど雰囲気や街並みはかなり違う。
村上は村上病院が、新発田は新発田病院が中核病院である。
あっという間の2時間だったが、無事終了してホッとしている。
講演の最後に客席から「頑張って!」との声援を頂き嬉しかった。
4つの新潟講演を終えて、心地よい脱力感に包まれている。
考えてみれば連日連夜、宴会などであまり寝ていない。
患者さんには留守をして心配をおかけしたが、仲間たちが守ってくれた。
もうこんな生活は改めないといけない。
新潟の6人の仲間たちには、2日間、すっとお世話になった。
朝、大観荘の前で記念撮影した。(美女たちに囲まれてニヤリ)
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この記事へのコメント
初めて救急搬送専用の車両が登場したのは、19世紀初めのナポレオン戦争であり、ドミニク・ジャン・ラーレー(Dominique Jean Larrey)が発明したとされる。ナポレオン軍の軍医長に任命されたラーレーは戦傷者への迅速な治療のため軍救急部隊を編成し、戦場にあっても傷病者がいち早く野戦病院へ搬送されるシステムを構築した。このとき傷病者搬送に使用された車両が最初の救急車だとされている。
救急車という呼称(英語の ambulance)は、アメリカ南北戦争の時に始まった。当時は馬車が救急車として使用され馬車救急車(horse ambulance)と呼ばれていた。これらいずれも戦場で負傷した戦士の迅速な治癒を行う上で大きく貢献した。
大衆に自動車が普及し始めた1920年代以降、救急車は自動車をベースに制作されるようになり、20世紀後半以降多くの国・地域で自動車が救急搬送の主要な手段として採用されている。また、陸路を走る救急車を補完するために救急ヘリや救急船などが新たに開発された。ヨーロッパやアメリカなどでは地方都市間の距離が長く、山岳地域も多いことから搬送時間短縮のため救急ヘリが広く普及している。このように地形などの事情で、救急ヘリを使った搬送の方が多い国もある。
救急車も改良が重ねられており、先進国を中心に高度な救命処置をしながら搬送できるよう車内のスペースを拡大したり、新生児専用の救急車を作るなど、高度な医療機器を積載して全ての年齢層に対応できるよう救命率の向上を図っている。その一方で21世紀に入ってからも開発途上国や紛争が続く地域では十分な数の救急車が整備されていないか、傷病者を救急車で搬送する制度が未だ整備されていない状況が続いている。
救急車の歴史は戦争・軍事と深い関係を持つ。戦時国際法の下で赤十字章をつけた救急車は戦闘中であっても攻撃されず傷病者を搬送することが認められている。ただし、救急車への武器の携行は許されていない(衛生兵は護身・防衛用の拳銃を同僚に預け武装解除してから同乗する必要がある)。
Posted by ロモラオ at 2017年03月12日 09:57 | 返信
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