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断捨離と孤独死
2026年09月26日(土)
断捨離をやろうと思うが上手くいかない。
そんな日本では孤独死が増えているそう。
でも、フィリピンでは孤独死は少ないと。
僕は65歳になったとき、たくさんの医療関連の雑誌や本を捨てました。何年も触ったことがなかった本であっても、もう読むことはないだろう、と思うと急にせつなくなるものです。長年親しんだ教科書も、あるときをきっかけに、人生から不要になるときがきます。
人生何事も、「やめどき」と「捨てどき」が必要です。
僕も今、断捨離を継続中。捨てるのは、買うのの3倍難しい。なかなかうまくいかないけれどね。 女性は、若いころに着た洋服がなかなか捨てられないといいます。 流行おくれだし、もうウエストが入らないのに「いつか痩せてもう一度着れる日がくる」と信じている人が多いようです。
でも、そんな日は残念ながら来ません......。捨てましょう。 男性は、定年になっても、長年ストックしてきた「名刺」が捨てられないそうです。いつかまた仕事をしたとき、この名刺が役に立つかもしれない......でも、そんな日は残念ながら来ません......。名刺の持ち主だって、もうとっくに肩書が変わっていたり、その組織にはいないはず。思い切って捨てましょう。
若い頃の服も、現役時代に仕事で交わした名刺も、ある年齢を過ぎたらただのゴミ。先日、ある友人から、「長尾君、高齢にあっても必要なものはキョウイクとキョウヨウだよ」と言われました。
え? 何を今さら言っているんだと思いました。
「教育と教養? この人は、僕を馬鹿にしているのかな」と。
でも、そうではなかったのです。
「キョウイク」......今日、行くところ。
「キョウヨウ」......今日、要がある。
つまり、今日、やるべきことがあるということ。会うべき人がいるということ。 行くところがある、するべきことがある、会うべき人がいる。 これこそが、生涯必要なものなのです。
しかし、コロナ禍では、これをすべて高齢者から奪いました。 認知症が早まるのは当然です。そこにワクチンで追い打ちをかけたのですから......孤独と認知症は隣り合わせ。
なぜこんなことを書くかといえば、フィリピンには孤独死する人はほとんどいないそうです。街を歩けば、フラフラと徘徊するように歩く男性は見かけましたけれども、親戚や家族たちが看取るので、孤独に死ぬことはないのだといいます。そこで、僕が考えたその理由を以下にまとめてみます。
■フィリピンに孤独死が少ない本当の理由──出生率の光と影
日本ではいま、孤独死が社会問題として定着しています。
最新の調査によれば、我が国の年間の孤独死数は2万1,000~2万2,000人/年(2024年)。このうち、65歳以上が7~8割。さらにそのうち、男性が8割というから‥‥...僕も決して他人事ではありません。
しかし誰にも看取られずに亡くなる男性高齢者は年々増え、都市部ではそれが日常の風景になりつつあります。一方で、フィリピンでは同じような現象はほとんど報告されません。 この違いは何でしょうか。単に「家族がフレンドリーな国だから!羨ましいぞ!」で片付けてはいけません。
医療者の視点から見ると、その背後には人口構造、宗教倫理、そして「産ませる社会」という構造が存在しています。 まず押さえておくべきは出生率です。 日本の合計特殊出生率は1.2前後と、人口を維持するために必要な2.1を大きく下回っています。一方、フィリピンは依然として2を超えています。
マニラの街を歩いていても、本当に若い子が多い。高齢者ばかりの日本とは大違いです。それは、社会保障的にみれば、「高齢者を支える人間がどれだけ存在するか」という現実的な違いを意味します。
日本では高齢者1人を支える現役世代の数が減り続け、その結果として「誰にも頼れない高齢者」が大量に生まれる構造になっています。孤独死は個人の問題ではなく、人口構造の帰結なのです。
では、なぜフィリピンでは出生率が維持されているのでしょうか? 日本人よりも愛情の深い国民だから? もちろん、そういう側面ももしかしたらあるのかもしれませんが、明確な要因の一つが、カトリック教会を中心とした宗教倫理です。
フィリピンはかつて、スペインの植民地支配を受けたため、現在も9割はキリスト教徒です。どんなにボロボロなバスやタクシーでも(なぜかシートベルトは切られていたりしている)、必ずバックミラーにはロザリオが掛けてある。 カトリックでは原則として人工妊娠中絶が認められていません。
避妊に対しても厳しい立場を取っています。このため、望まない妊娠であっても出産に至るケースが多く、結果として出生数が維持されます。 出生率は多くても、そこには少なからず理不尽な妊娠と出産があるということを忘れてはなりません。
子どもが多い社会では、家族ネットワークが自然と厚くなります。兄弟姉妹、いとこ、孫といった関係性が重層的に存在し、高齢者が孤立しにくくなります。 家族が多い、生涯孤独にならないというのが光の部分だとすれば、影の部分は、望まない妊娠を回避する手段が制限されている社会では、女性の身体的・精神的負担が極めて大きくなるということ。
安全でない闇の中絶手術、貧困家庭での多産、教育機会の喪失......子どもの数が多いことは必ずしも「良い社会」につながるとは限らないのです。一人ひとりに十分な医療や教育が行き届かない現実もあります。
つまりフィリピン社会は、「孤独死が少ない代わりに、別のリスクを引き受けている」と言えます。 日本はその逆です。生殖の自由はほぼ保障されており、避妊や中絶も制度的に整備されています。その結果として出生率は低下し、個人の人生選択の自由は拡大しました。し
かし同時に、「家族に依存しない社会」を作り上げたことで、老後の孤立という問題を生み出しています。 だから「孤独に死ぬことは不幸」「子供のたくさんいる社会は幸せ」という、単純な二項対立ではないという点です。
フィリピンは「産ませることで社会を維持する構造」を持ち、日本は「産まない自由の上に個人を尊重する構造」を選びました。 その結果として、前者は孤独死が少なく、後者は孤独死が増える。
では、日本はどうすべきなのだろう? フィリピンから帰ってきてから、ずっとぼんやりと考えています。いわゆるストリートチルドレンもたくさん見ました。ボロボロの服を着て、棒のような細い脚で、親の仕事を手伝う子どもたちも。この子たちは、学校に行っているのだろうか? 将来が不安でした。 出生率を上げれば孤独死は減るのでしょうか?
―――答えはそんな単純ではありません。
出生率は短期間で回復するものではなく、仮に回復したとしても効果が出るのは数十年後です。今、目の前で進行している孤独死の問題には間に合いません。 したがって今の必要なのは、「血縁に依存しないケアの再構築」です。
地域医療、訪問看護、コミュニティの再生といった仕組みを、制度として再設計していく必要があります。だから僕は、「ジジイは週に2回スナックに行って地域ネットワークを構築するべき」とコロナ前から言い続けています。2回連続お休みすれば、ママや飲み仲間が心配して、電話をくれたり、家を訪ねてきてくれるような仕組みを。
フィリピンのような濃密な人間関係は、宗教、貧困、家族観、そして温暖な気候環境が複雑に絡み合って成立しています。日本が同じものを目指すことは現実的ではありませんし、そもそも望ましいとも限りません。 結局のところ、孤独死の問題とは「人が人にどこまで関わるか」という問題。
干渉しない自由を優先するのか? それとも関わり合う負担を引き受けるのか? これは、日本国内において田舎に住むのか? 都会に住むのか? という問いと相似形ですね。。 フィリピンでは、人は最後まで誰かの中で死にます。 日本では、人はしばしば社会の外側で死にます。
裏を返せば、衛生環境や栄養事情が戦後格段に良くなった我が国において、「孤独死できるまで生きられる国になった」と言えなくもありません。 この違いを、単なる文化の違いとして片付けるのか、それとも自分たちの未来の問題として引き受けるのか。いま、日本の医療と社会は、その選択を突きつけられています......
一筋縄ではいかない。難しいよね。

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