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女医さんの救援活動日記

2011年04月15日(金)

知り合いの吉村千恵先生が被災地での救援に入られました。
詳細な活動日記が届きましたので、転載させて頂きます。
これから被災地に入られる医師には参考になると思います。
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大阪赤十字病院・第5班救援活動報告 呼吸器科 吉村千恵

 

3月27-31日まで大阪赤十字病院第5班として宮城県庁前に救援に行ったその活動を、日時を追って報告させていただきます。(日記調でどうでもよい内容も入りますが状況がよくわかるようにと思いました。長文にてご容赦ください)

 

<大阪赤十字病院からの派遣経過>

大阪赤十字病院では3月11日1447分の地震発災直後15時過ぎに初動班メンバー(常時15班を編成。2年間毎で交代。この間様々な訓練があります。医師は転勤が多いので2年を終了しても交代することが難しい。)に緊急アラートが入り約30分後に高槻赤十字病院と合わせ救護班初動チーム3班を編成。1725分にdERUとコースター(マイクロバス型救急車)の2台が病院を出発し、小牧から中央道、長野道、上信越ー新潟から山越えで翌日に宮城に入り宮城県庁前でdERU(テント型の診療室)を展開、診療を開始しました。
以後そこを拠点に4月3日まで4泊5日ずつリレー診療。
仙台地区の医療が通常体制に戻ったため3月31日からの第6班を二班に分け、宮城県庁前での診療は4月3日で終了、4月4日にdERUを撤退しました。
また第6班のうちもう一班を岩手県山田町に移し現在はこちらを拠点にリレー診療中であり4月12日から第9班が山田町にて救援活動を行っています。
大阪赤十字病院では12班まで派遣が確定、20班までの班編成が終了し、8班より心のケアチームが同行しております。
また赤十字本社より石巻赤十字病院へも派遣要請が来ており現在勤務調整可能な医師を募っているところです。

 

<5班救援活動報告>

27日の朝(日曜日)7時病院に集合、ロジスティックセンターで制服に着替えたのち7:30に出発し伊丹空港から山形空港に入りました。

同じ飛行機には私たちの他に九州から来た赤十字の人(二名)もいました。他にインフルエンザキットをもった人や、NPOの人、多分読売テレビのアナウンサーもいて50席の飛行機は満席。子供連れも何組かいました。

到着時の山形は2℃、雪もちらほら降っていて周囲の山まだ雪景色でした。東北での道は第4班の時からかなり改善し、東北道が開通したため一部東北道を利用でき、一時間半ぐらいbusに揺られ宮城県庁前に着きました。

県庁前では第4班が今か今かと待ち構えていて、私たちを見ると満面の笑みで迎えてくれました。やはりお風呂に入れない雑魚寝、非常食の毎日は大変なんだろうなあとの感想を抱きつつ下車。リーダーの私は言われるがまま赤十字宮城県支部、仙台市役所、宮城県庁の各コーディネーターの方々に支部の現地対策本部の方、4班の同役割の方々とともに引き継ぎに出かけました。赤十字宮城県支部では人がほとんどおらず、局長も不在で引き継ぎ挨拶も「気もそぞろ」という様子であり第4班支部の方より「仙台は落ち着いてきているが気瀬沼や石巻が悲惨な状態で気持ちがそっちに向かっている。」と説明を受けました。私が各役所を回っている間に他のメンバーはそれぞれの役の方から引き次を受け午後二時に第4班と分かれ、いよいよ活動開始しました。

活動と言ってもその日の午後からの巡回診療は中止となり、dERUでの診療のみでしたので二班に分かれて海側の視察に行きました。

海まではかなりの距離があり車で30分以上走ります。遠くに見える三陸自動車道の高架を越えるとそこを境に海側と街側ではまったく景色が変わりました。海側には家は殆ど無く(奇跡的に残った家は微塵も潰れず掃除をされて過ごされていましたが)電柱や大木が根っこからもぎ取られた状態でゴロゴロ流されていました。一方で街側は地震の影響で潰れた様なところが殆ど無いことに驚きと地震大国日本の力強さを感じました。引き継ぎで訪れた市役所の1階では耐震構造についての展示があり今回の地震前より対策を行っていたようでした。それが生かされたのだと確信しました。仙台の街側は(初めて来るので多分ですが)地震の前と変わらない景色が広がり、阪神大震災の時のように大都市のビルが全てなぎ倒された状態ではありません。地震に備えてきたために仙台では県庁、市役所も機能していることが、素晴らしいと感じられ早い復興への良い条件のひとつではないかと思いました。もちろん被害を受けたところは一切合財何もかも無くなってしまいました。この未曽有の大災害に人々の受けた傷もまた甚大なのだろうという印象を持ちました。

この日夜dERUには9歳の女の子の父親が顔をのぞかせました。聞けば熱発した娘を連れて病院を車で探しここまで来たとのこと。病気で動けない子供のために車まで出向いて診療したところインフルエンザ陽性でありリレンザキットに加え私たちの食料であるイオン飲料水も渡しました。イオン飲料水などはまだ手に入らず非常に感謝されました。またお金を払おうとして「無料診療」であることに大変驚かれ恐縮もされていました。受け手にこのような感情のある間は無料診療が必要な時期だと思います。

当直の若手男性3名を残し、県庁管財課に確保していただいた寝場所としての9階の会議室に移動しました。水も出るしトイレも使えるため「赤ちゃん用おしりふき」で身体全体を清拭し床に毛布、寝袋を敷いて就寝、一日を終えることが出来ました。

 

2日目(28日月曜日)です。

二日目の朝(月曜日)は大きな地震があったようですが、dERU付近揺れはしたものの(震度4)大きな変化はなく街は通常業務を開始しました。主要幹線道がつながりガソリンが徐々に行き渡っているのか街には1日目よりさらに多くの車が多く行き交っています。ガスも徐々に復旧していて(翌日の新聞情報で仙台市6.4%の復旧)内陸部の医療機関はほぼ通常診療になってきているとのことでした。院内のブリーフィングでは毎朝どこの診療所が開いているかの情報を見てそこに誘導するようにという申し送りを受けていましたが、月曜日から通常診療となっているところが多いということで「近くの医院へ行くように」という誘導に変えました。

ミーティングで皆の健康状態と今日のスケジュールを確認した後、朝の巡回診療は20-30代の若いチームが行き、私はdERUに残り診療。

クスリも無く無防備に外を歩くしかない人達は花粉症でかなり悩まされていて皆さん「風邪を悪化した」と仰い来院されます。そこからさらに悪化して喘息や副鼻腔炎にまで至る人も見受けられました。幸い私は呼吸器内科医であり、検査が出来ない中ではありましたが普段の診療を活かす事が出来たと思います。喘息が疑わしい方に紙コップをつなぎ合わせた手作りスペーサーを使ってメプチンエアを吸入して頂き(スペーサーが清潔を保つ効果もあり色んな方々にメプチンエア使うことが可能。ネブライザーの代わりになります)、改善(圧迫感が取れた、呼吸しやすくなった)事を確認しフルタイドとホクナリンテープ等処方。夜間不眠を訴えるような人にはプレドニン4錠を処方するようガイドライン通りの治療も可能でした。実は地震直後アレルギー学会東北支部より地震で投薬継続が困難な方々のために診療可能な病院・診療所は連絡してほしいとのメールが来ていました。国際救援部長の許可を得て初動班が帰阪後、現場状況を確認の上学会東北支部へ連絡しホームページに掲載してもらうことができました。その事もあり喘息診療については、薬や検査がはフル装備とは言わないまでもそれなりの診療が行える体制を確保していただいたと思います。

呼吸器科医として用意したものは他にもあります。チームには初日夜に喘息用にスペーサーの作り方とCOPDや高齢の方用にながいき呼吸体操法、誤燕性肺炎予防のため全国在宅歯科連絡会が出している口腔ケアの方法コピーを渡し指導をお願いしました。それらも巡回診療時に使うことが出来ました。

この日はそろそろ支援者(県庁職員、自衛隊員、警察官など)の疲れがピークのようでdERUにはそういう方々が良く来られました。東北NHKのクルーの人が三名立て続けにインフルエンザで来られ(1日目は前日夜に一人来院)大変つらそうでした。

若者チームが巡回診療より戻ってきた後、支部の現地災害対策本部の方より「先生、ガソリンを入れに行くついでに今日、もう一度宮城県赤十字支部に一緒に同行下さい」という要望がありガソリンの状況も確認するため同行させてもらいました。私たちがガソリンを調達しても良いと申し送りを受けたガソリンスタンドは支部の近く道路を挟んで斜め前にあります。そこは照明を落とし一般車両が入れないようにロープで周囲を囲んでいるため到底業務を行っているとは思えない様子です。しかし、我々赤十字マークを付けた車両がガソリンスタンドに近づいた時、中から4,5名の人が飛び出してきてロープを取り払い「ご苦労様です」と丁寧に対応してくれました。他のガソリンスタンドにできている長い車の行列を横目に、並ばなくても手に入れることのできる緊急車両のためのガソリンとそれを分けてくださる人手に「申し訳ない」気持ちと「感謝」の気持ちが交錯します。

県庁ロビーには毎日新聞が貼られています。任務中はテレビを見たりすることが出来ず、世間では何処まで復興しているのか、福島の原子炉がどうなっているのか皆目わかりません。そんな中情報収集目的で毎朝トイレ休憩の時に壁に貼ってある新聞を読む事が出来たのは有難いことでした。28日の新聞には瓦礫の撤去には宮城県予算の23年分がかかると何とも辛い試算が見出しにありました。一方で道路がいつ繋がるかの予定も貼り出され復興も着々進んでいることに安心もしました。

巡回診療は各避難所の保健師さん(全国からボランティアで交代勤務中の様子)が区役所の担当者に巡回診療を依頼し、区役所の担当者から毎晩連絡が来るシステムです。この日は午前から午後に股がり、若者チームが三ヶ所巡回診療に行き、私はdERUに残り診療していましたが、午後遅く別件飛び入り申し込みがありそちらに巡回に行きました。

避難所では地震直後は頑張って乗り切れたが避難生活も長くなり気力、体力ともに疲れきり自律神経バランスが崩れ始めている方が多い印象でした。そんな過酷な環境の中で生活も大変なんだろうと話を聞くうちに一人の方が珍しい靴下をはかれていることに気づきました。聞くと、硝子を踏んでも大丈夫という手作りの靴下(パンスト二枚を底に入れ縫い付けてある)とのことです。私がそれに感心し、「これは是非写真を撮るべき」とチームメンバーにお願いしていると、続いて避難所入口のテントを工夫して張ったことや、地震の時に役立つ懐中電灯とはこういう種類で持ち方はこうするなどの使い方を教えてくださり、何もない中で生きていくためのアイデアとすばらしい底力を感じました。話をするうちに元気を取り戻され最後にはたいそう笑みを溢され、「久し振りに笑ったよ。楽しかった。ヨオシ、また頑張る!」と言って頂けるなどこっちが勇気付けられたりしました。

夜間帯になり医師は二人のため当直を一日おきに行う必要があります。この日は私が当直担当となりました。夜の寒さについては防寒用の制服である黒のオーバーパンツを出発時にもらい忘れていたため夜の寒さを心配していましたが幸い気温は思ったほど下がらず、パンツのしたにスパッツと毛糸のパンツ、レッグウォーマーとカイロで充分でした。県庁はお湯(なんだろうか?という低温ですが)も出ることをクルーの看護師が発見してくれたので髪を洗うことができました。

 

3日め(29日・火曜日)です。

前日夜に病院より電話があり6班を二つに分け、1班は宮城、もう1班は岩手の山田町にうつるための準備をせよという指示をいただきました。そのため翌日の3日目は在庫確認仕分けチーム、巡回診療チーム、dERU診療チームに小分けして活動することになりました。

午前には私が巡回診療に行きました。そこには105名の方がまだ避難されています。姫路市から来られた保健師さんが予め情報収集し、プライバシーを配慮し別室に診察室を用意してくださりそこで診察しました。やはり、花粉症の悪化による副鼻腔炎や喘息の方がおられました。東北地方では多いと聞かされていた高血圧の方も多くいます。ここでも用意したスペーサーとメプチンエアが役だち、吸入ステロイドを処方してくることが出来ました。

一人の方が「昨日自衛隊の方がお風呂を用意してくれて、それは有難かったんだけど・・・石鹸まではね。用意が無かったの。贅沢は言えないけど困るよね」と仰るので持参した石鹸(私物)を渡すと非常に喜ばれました。また口腔ケアのために持参した歯ブラシ(私物)などの手荷物もそれなりに役立ちました。目の前にいる人にだけ特別になにかを配ると言うことに「いいのだろうか?」という自問もあります。ただ、少しの配慮で元気になる人(悪化しない人達)がいればそれがまた良い連鎖に繋がるのではないかと思います。私の中ではその様に解釈し「自分にできるわずかな事」として対応することにしていました。

 帰る途中でお肉屋さんを見つけたので人通りもあまり無いため(赤十字の制服は遠くからでも目立つのです。)覗かせて頂きました。「ガスがまだ来てないから揚げ物は無いよ~。お肉は良いのが入ったからどう?」と言われ、現状把握のため覗いただけと伝えて店をでました。

 私が不在中に在庫仕分け確認チームが生活物資の残などカウントし掃除もしてくれていました。岩手行きの生活物資を乗せることと薬剤などの積み込みのため30日朝に大阪をトラック部隊が出発しそれに間に合わせるための情報収集作業が本当に大変でした。

現地対策本部の方が昼からの巡回診療前に「先生、まだお会いできていない区役所の担当者に会いに行きたいので時間を取ってください」と仰るので朝の巡回診療のあと、区役所へ行きました。第6班と交代する31日の午前で巡回診療を終了する事を伝えたところ、「初期から今まで大変協力頂いてありがとうございました。」と労ってくださいました。避難所も6021箇所になり、一番長く巡回診療のチームが残るところも4日までとの事。昨日の月曜日から病院、診療所が通常業務に戻ったところが多く仙台も立ち直って来たと思うとの事でした。

若者チームが午後おそくからの巡回診療に出発(40人強と70人強の方がいらっしゃる避難場所へ)。その間に2.5日間の薬の使用量をチェックしました。病院からは宮城に残す薬と岩手に持っていく薬を必要量に分けて詰めてほしいということで結構頭を使う仕事です。毎日使った薬をカウントしその分量は宮城に必要と判断、またemergency点滅の足りなくなりそうな薬をチェックしてリストアップし病院に携帯電話からメールしました。また、トローチがほとんどない状態だったためdERU にあるメンバーが持ってきて沢山あった「喉あめ」を積極的に配布し29日から薬局(マツキヨなど)などが開くはずという新聞情報を話題提供しながら乗り切ることにしました。

夜の段取りを決めていたころ、一人の女性を乗せたタクシー運転手がdERUを覗かれました。多賀城から車で片道5000円以上の道のりをここまで来たとのことです。事故で全身を打撲し多賀城近辺の病院を受診し入院も勧められたが避難所に子供がいるので入院はできないと断って帰ってきた。しばらくその病院に通おうと思ったが痛みがひどくなった。その病院の手当てが嫌なので他の病院を探してもらおうとタクシーに乗りそこから119に電話したところ「宮城県庁前の赤十字診療所にまず行き、そこで対応不可能なら119にまた電話して下さい」と言われたので来た、と言います。検査も何もできない診療所で入院しなければならないほどの人を対応できるはずもなく、子供を避難所に残して心配であるならなら元いた病院に戻ってもらうのが一番と考えましたが、病院を紹介してくれとの一点張りです。患者さんを診たS先生は「痛い痛い!!何もできないならなんか薬のひとつでもないの?」と叫びまくる患者さんに圧倒され困惑されていました。S先生の呼んだ救急車が色々な病院を探しましたが夜も遅く更けその時間から病院が見つかるはずもなく、またどの病院も最初の病院と同じ対応しかできないとの答えに1時間半ほど膠着した時間を過ごしたのち諦めて元の病院に救急車で帰って行きました。タクシー運転手はこの間メーターを止め、一緒に多賀城に引き上げていきました。勘ぐるのは悪いようですがもしかすると多賀城で対応してもらったよりも良い病院を探すために仙台までやってきて、さらに我々が間に入ることにより良いルートを確保できると考えたのかもしれません。無料診療や赤十字の看板がもたらす悪いパターンなのかもしれないと思いました。

その後夜間帯は平穏に過ぎ翌日の4日めを迎えました。

 

4日目(30日・水曜日)です。

ようやく30日まできたか、という思いの中4日目をスタートしました。今日の巡回診療班に師長をと考えていましたが昨日の生活支援物資の管理に時間を取られ衛生材料の仕分けや薬剤の仕分けが全く進んでいないため物品仕分けチームとして他の看護師とともに残りたいと希望されました。医療材料については師長に一任せざるを得ず、業務負担にかなりの偏りが生じていることを心配しながら二人に任せることにしました。

そこで朝のdERUは私、昼からはS先生とし巡回診療は朝がS医師、昼からを私で担当することとしました。診療所に訪れる人たちも再診の方がちらほらおられ(火傷のフォローアップに来られた方もいる)その方々に「もうすぐここを撤退する」ことを伝えて行きました。

この日目立ったのはいわゆる「水虫」です。火傷もそうですが生命に直接関係がないためか皮膚科の先生の診療が復活しておらず薬もなく処置が後回しになった水虫が悪化して化膿するということでやって来られる方が何人かいました。そこで、これまで後回しにされていた疾患に対応できるよう、つまり31日の交代の便に載せてもらえるよう、抗真菌薬軟膏やロキソニンなどの鎮痛薬、抗生物質など必要と思うものをこの日も順次携帯でメールしていきました。時間経過とともに必要な薬も変わっていくものだと思いました。

昨日からスーパーマーケットが開き、ガソリン供給制限があるものの交通量が格段に増えて巡回診療に行くにも少し時間がかかるようになりました。避難所では「今日が最終日になるかもしれないと聞いた」と患者さんたちも準備されており復旧した診療所から最近処方された薬も持っておられることもわかり復興が徐々に進行していることを感じることが出来ました。

 夜間帯は夜間遅くになってもずっと薬や衛生材料のカウントを行い引っ越しの準備を進めました。そしてこの日を過ぎた夜中の3時に岩手に向かうトラック隊が到着しました。

 

5日目最終日(31日木曜日)です。

この日朝は荷作りにもかかわらず雨でした。

朝起きると(これまでも任務中毎日むくんだ足、むくんだ顔を眺めてきましたが)かつて見たことが無いような顔と足になっていました。じつはこれが一番つらかったです。健康な自分でさえこういう状態になるのだから今後の人たちは血栓症のチェックを忘れないようにしてほしいなど思いながら顔と足を急いでマッサージし、なんとか人前に出られる状態にしあげました。帰宅後のチェックでは+2キロでした。痩せるつもりが太って帰るなんて本当にびっくりです。最後の巡回診療とdERU診療の二班に別れ、行動。平行して昨日の深夜に宮城入り(仙台赤十字に12時、県庁前に3時に到着)したトラック部隊が宮城行きの荷物を荷積みしそれを皆で手伝いました。

dERUには石巻で家を流され県庁に諸手続きにこられていた方々(3人の子供を連れたファミリーも)が受診に来ました。鉄道が繋がり、今後完全撤収の4日まではこういう方々も増えるのではと思います。喘息、花粉症…だらけです。本当に来た甲斐がありました。喘息、アレルギーのクスリは定数を増やしてもらいました。

12時半過ぎに第6班宮城チームが到着。第6班とともに荷作りされてやってきた薬を確認し岩手行きのトラックに載せ、私と次のリーダーとともに挨拶まわりに出かけました。

あいさつ回りから戻りいよいよ山形空港へ。飛行機の時間がかなり遅く時間を持て余してしまい残念でしたが空港のマッサージ機に癒されました。
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第5班リーダーとして救援に参加した体験より

 

「心のケアとは何をすればよいのか?」これは最初から最後までのテーマとなりました。結局、患者さんの話を聞くこと。これに尽きると思います。

患者さんたちは様々なものを失い混乱している状態であり、それが身体に影響して症状と表れている事が多い印象をもちました。患者さん自身が溜めこんでいる話を我々にするつれ、頭が整理されていく様子に度々出会いました。

彼らが前に進めない原因の一つが疾患にある場合は我々の診療が心のケアに大いに役立つだろうと考えます。制度上の問題で前に進めない場合もありそれも一つずつ書き出して解決したことを消していく作業をすればよいのだと伝えるだけでも十分効果があると思います。これから救援に行かれる先生方がありましたら参考になれば幸いです。


大阪赤十字病院 呼吸器科・がんサポートチーム

吉村千恵

 

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