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自己決定しないという権利?
2012年05月14日(月)
一昨日からずっと気になっている。
「自己決定しないという権利」は、日本において存在するのだろうか?
想定外の主張に戸惑っている。
「自己決定しないという権利」は、日本において存在するのだろうか?
想定外の主張に戸惑っている。
自分の親が認知症終末期になった場合に胃ろうを入れるか。
以前、胃ろうを取材している某大手メデイアのデレクターさんが
最後に放った以下の言葉が忘れられない。
「私は手を汚したくない!」
えー!?
じゃあ、一体誰が手を汚すの?
あるいは、胃ろう患者さんを診ている医師自身の言葉。
「自分の場合は、よくわからないうちに胃ろうを入れて欲しい」
「自己決定しないという選択肢もあると思う」
えー!?
そんなことあり?
日本には、いろんな権利があるんだ。
こんな権利にも対峙しなければいけない臨床現場、
というか対峙した結果が、40万人もも胃ろう患者という現実なのに。
それでも、まだ本質に迫ろうとしない専門家集団には、違和感を感じている。
私もその専門科集団の末席を汚している一員なのだが、
医学会の構成員として正直、恥ずかしかった。
一般の人が聞いたら笑うのではないか?
学会としては、かなり偏った議論だった。
胃ろうを入れない病院が現に存在する。
こうした現実に対峙しようとしないことを憂う。
スポンサーさんにそこまで気を使う必要はない。
プロ意識の中で、現実的議論をすべきだ。
まだまだ胃ろうを巡る混乱は収拾しないと感じた。
ああ、遥かなる胃ろう議論。
以前、胃ろうを取材している某大手メデイアのデレクターさんが
最後に放った以下の言葉が忘れられない。
「私は手を汚したくない!」
えー!?
じゃあ、一体誰が手を汚すの?
あるいは、胃ろう患者さんを診ている医師自身の言葉。
「自分の場合は、よくわからないうちに胃ろうを入れて欲しい」
「自己決定しないという選択肢もあると思う」
えー!?
そんなことあり?
日本には、いろんな権利があるんだ。
こんな権利にも対峙しなければいけない臨床現場、
というか対峙した結果が、40万人もも胃ろう患者という現実なのに。
それでも、まだ本質に迫ろうとしない専門家集団には、違和感を感じている。
私もその専門科集団の末席を汚している一員なのだが、
医学会の構成員として正直、恥ずかしかった。
一般の人が聞いたら笑うのではないか?
学会としては、かなり偏った議論だった。
胃ろうを入れない病院が現に存在する。
こうした現実に対峙しようとしないことを憂う。
スポンサーさんにそこまで気を使う必要はない。
プロ意識の中で、現実的議論をすべきだ。
まだまだ胃ろうを巡る混乱は収拾しないと感じた。
ああ、遥かなる胃ろう議論。
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この記事へのコメント
「自己決定しない権利(選択肢)」それは権利なのでしょうか?権利とは主体性が伴うものだと思います。「自己決定しない権利(選択肢)」は単なる放棄、人任せ、生きることにこだわりなし、思考なしの結果ではないのでしょうか?40万人もの胃ろう患者の何人が胃ろうのことを理解し、自分の考えで選択したのか?とても怪しい・・・。「こんな権利(自己決定しない権利)にも対峙しなければいけない臨床現場」とおっしゃいますが、はたして、どれくらいの医師が対峙しているのでしょうか?胃ろうを設置しないとすぐにでも退院させるようなことを平気でいう医療者、施設入所を断られるなんていうことがまかり通っている現実をどう考えますか?胃ろうをどんどん増やしてそれで看護師不足を取り沙汰する、なんということでしょう。そして介護福祉士にまで一部の医療行為をさせようとしている。しかも、たった50時間の講習で・・・、「ミニナースを作ってどうするの?」といいたい。介護福祉士の中には、なんだか偉くなったような気分になっている人も見え隠れしている・・・。介護福祉士の本質をそれこそ置き忘れている、嘆かわしい限りです。
「本質に迫ろうとしない専門家集団には、違和感を感じている」その本質は医療者だけでなく、むしろ患者自身が一番考えないといけないことです。患者が「自己決定しない権利(選択肢)」なんていっているから医者のいいなりになるのです。そして医者はそれをいいことに上から目線で充分に説明もしないまま胃ろうを勧め続けるのでしょう。患者の医者至上主義・・・。確かにドクターは私たちが到底、理解できないような難しいことをたくさん知っている神様(?)みたいな存在。人が健やかに生きるためには医療は不可欠です。でも、あくまでも「生きる」のは自分です、そのことを忘れてはいけない、そう思うのです・・・。
というかした結果が、40万人ももという
Posted by 岡村 ヒロ子 at 2012年05月15日 01:36 | 返信
松田道雄先生は、『安楽に死にたい』の中で、「介護と医療はちがう」と断言し、
しかし「私が最後に望むのは、Cure(治療)ではなくCare(介護)である」と仰られています。
では介護福祉士の行う胃ろうは、Careなのか、それともCureなのか。
介護に従事する者が、付け焼刃で医療行為を行うということからして、すべてとは言いませんが、
胃ろうがグレーゾーンにあるものとして映ってしまうのです。
訪問看護師の数が足りないから、数合わせで便利屋のように介護士に胃ろうを行わせるとしたら、
胃ろうが、ますます生命の尊厳から離れた機械的・便宜的なものになっていくでしょう。
それでも介護事業所は、「利用者のニーズ」に応えないといけないのか。
このままでは病院のベッドが足りなくて本当の病人が入院できなくなる。
医療費も抑制しなくては。という国の焦りばかり感じて、こんな泥縄式の「在宅死」を
みんな望んでいるのかと思う。
「人は病院で亡くなるもの」と思い込んで、死を、ずっと病院の空間に遠ざけてきたツケを
今から払うわけですが、母を看取ったときに言われた在宅医師の言葉が忘れられられない。
「極端な話。最後のお迎えのときに、医者はいなくても、御家族さんがいてくださったら
いいのですよ」と。
Posted by 花へんろ at 2012年05月17日 09:35 | 返信
河内孝著『自衛する老後ー介護崩壊を防げるかー』(新潮新書)を読みました。
介護士が胃ろうを扱えることをむしろきっかけとして、胃ろう追放に
成功した介護施設を紹介しています。
こんな人間的な職員がいて、その主張をつぶさないで後押しした周囲があるということ。
先入観だけで物事を見てはいけないと反省。
こういう試みが広がっていけば・・・
またまた「理想と現実はちがうよ」との悪魔の声が聞こえてきそうですが、
希望は持ちたいと思う。
Posted by 花へんろ at 2012年05月19日 09:17 | 返信
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