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消えた街

2012年07月29日(日)

福島第一原発の手前、行けるところまで行ってみた。
消えた街、という言葉しか浮かばない。
誰もいない海岸の限界地点に立って、叫んでみた。
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仙台から相馬まで車で1時間。
相馬市から南相馬市まで30分。

南相馬市は、3つの地区からなる。
北から順に、鹿島、原町、小高。

野馬追いは、原町地区で開催。
ここは都市が機能している。

市民病院の中も整然としていたし、
コンビニも食堂もやっている。
子供もたくさん見た。

しかしそこから数キロ南下すると、徐々に寂しくなる。

小高地区は、居住が禁止されている。
入ることは許される。

まるで廃墟のような街。
瓦礫も家もそのまま。
時間が止まっている。

消えた街、という言葉しか浮かばない。
消えた鉄道も、再開通することはない。

ここでも行き先を示す道路標識には「いわき」と書いてある。
「いわき」には、「南相馬」と書いてあった。
二度と開通することがないのに、何のために書いてあるのか理解できない。

南相馬市と浪江町の境界あたりから、通行止めとなる。
群馬県の機動隊が、警備していた。 海岸線に出てみた。
福島第一原発が見えそうな距離だ。

何も無かったかのように波はうちつける。
とてもいい場所だ。
しかし誰も入らない街になってしまった。

ここに来て本当によかった、と思った。
現場に来ないと知りえない情報が一杯あった。
難しい理論より、あの海岸に立って、感じることからすべては始まるのでは。

失われた虚しさ。

これを感じることからしか未来は見えない。

原町地区の、仮設住宅の方とも話をした。
病院の看護師さんとも話をした。
みなさん、凛とされていた。

ひとつのアイデアが浮かんできた。
これは明日から、朝日新聞電子版アピタルに書いてみよう。


以下、南相馬市立病院が書かれた文章を
MRICから転載させていただく。

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福島での暮らし

 

南相馬市立総合病院・神経内科 

小鷹  昌明

 

2012728日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

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「行く春」の中、街の様子や私の暮らしぶりについて、一度ご紹介しておくことにする。

ただ、これから話すことは、原発被災地に関心のあるものか、私個人に興味を抱くもの以外には退屈な話になってしまうので、MRIC読者の、おそらくはひじょうにお忙しい方にとっては、時間の無駄になる。

特に後者に該当しない方は、私の“NKK(長い・暗い・くどい)な話”に付き合わせてしまっては申し訳ないので、早めに退散されたし。

 

それでは、少数でも残っている読者のために伝えたいことがある。

現在における私の最大の関心事と言えば(言うまでもないことだが)、「この南相馬市で暮らすこと」である。しかも、ただ暮らすだけではなく、仲間を作りながら、医療を支えながら、心象描写を繰り返しながら生活することである。

要は、「志を同じくする人たちと出会い、共通する目標を掲げて楽しく働き、エッセイなどというものを綴ることで日々振り返りながら過ごす」ということであり、はっきり言って、生活すること自体が趣味になっている。英国留学以来、「新規の生活を立ち上げるという、久しぶりの快楽に浸っている」と言い換えてもいいかもしれない。

 

さて、私の中には、時間停止した事項がたくさんある(だから、この街にもすぐ慣れたのかもしれない)。

携帯電話は、電話がかけられて、ショート・メール程度の文字が打てれば十分だし。パソコンは中期あたりのVAIOで、インターネットが閲覧できて、通販によるお買い物やホテルの予約が取れればそれでいい(むしろ、携帯電話やモバイル通信などは、どのような設定条件にすればもっとも便利で得なのか、ずっとわからないでいる)。

もっと言うなら、オーディオはBOSEのWAVE MUSIC SYSTEMだし、リスニングは邦楽ならストリート・スライダース、洋楽ならハノイ・ロックスである。アイドルは篠原涼子で、ジャニーズは、せいぜいキムタクまでである。アニメは銀河鉄道999、ジブリ映画は「千と千尋の神隠し」で止まっている。

野球は桑田・清原・イチローだし、サッカーの話題には、まったく付いて行けない。車はJEEPで、時計はカルティエのタンク、万年筆はモンブランである。

この市立病院に勤務してから、カルテはオーダリングシステムから紙媒体に戻ったが、個人的にはまったく不自由していない。むしろ、再度万年筆が多用できて嬉しく思っている。

ジャンルや物品によって、時期はまちまちだが、とにかくそういう感覚である。ついでに言うなら、どういうわけか、私はここに来る前に、軟式グローブとボールを買い、木製知恵の板タングラム(温泉とかにある木のパズル)を譲り受けたのである。きっとそれは、“物の少なかった時代に返る”感覚だったのかもしれない。

 

私は、新しい住居を構えることにほとんど抵抗はなく、遊牧民的な資質があるが、そうは言っても、さすがにここに来た当初は懐郷な想いに駆られていた。

海辺に住むということ自体が初めてであったし、最寄りの高速道路の出口から1時間30分を要するアクセスの悪さにも閉口した。

ましてや放射線の降り注いだ地である。2キロメートル東に行けば、そこは津波によって壊滅した荒涼とした大地が広がり、南に3キロ行けば、除線はおろか瓦礫の撤去も進まないゴーストタウンが存在している。西には連綿と続く阿武隈山が迫り、北には相馬市があるが、似たような状況である。

 

市内に目を転ずれば、これがもう、実に閑散としている。目抜き通りは、いわゆる“シャッター通り”で、郊外のいくつかのスーパーマーケットが(特に生鮮食品などは)、品薄なまま存在している。デパートなし、シネマ・シアターなし、スタジアムなし、在来線なし、ジャズ喫茶なし、エクササイズ・ジムなし、フレンチやイタリアン・レストランなし、オペラやオーケストラなし、美術・博物館なし。およそ娯楽的・文化的な生活とは程遠い状況である。

警戒区域だった土地は、時間が止まったままである。傾いた電柱、乗り上げられた車、崩れたままの家屋が残され、雑草だけが伸び、太陽だけが暑く、心なしかそよ風すらも停滞しているような、そして、何よりも人の誰もいないエリアが広がっている。

どう考えても生活するには不利な、暮らすには不向きな土地で、かろうじて“シティ”としての呈をなしている原発から一番近いこの街で、私は寝食している。

 

一体なぜか?格好いい言葉で言うなら、「そこが“創造のフロンティア”」だからである。自分で考え、自身で探り、己で見出すことができる場所だからである。もちろん、さまざまな弊害はあるし、資源も限られている。

ただ、その中から手仕事、体当たり、向こう見ずといった作業を繰り返すことで、ひとつずつブロックを積み上げるかのように、社会を構成させていく醍醐味がある。

すでに完成されたエレガントでハイソな新興住宅地に住むのもいいが、あえて、20時までしか開いていないスーパーに駆け込んだり、リサイクルショップで使えそうな物資を掘り出したり、丁寧に仕上げてくれるクリーニング店を探し当てたり、ヘアー・サロンを11軒試したり、コミュニティのためのプロジェクトを立ち上げたり、既にある復興計画にコミットしたり、こんな被災地だからこそ、糊の利いた長袖のYシャツに腕を通し、ネクタイを締め、磨かれた靴を履き、日々お洒落をしながら過ごすのも悪くない。

 

五感を研ぎ澄ませ、身体感度を上げ、アンテナを張り、贅肉を削ぎ、骨肉を鍛え、そして、心を洗練させれば、この地ではいろいろなものが見えてくる。

それは、新認識・新知見のための試行錯誤であり、持って回った言葉で言うなら、「そこが“センシティビティにとっての宝庫”」だからである。“Crash and Build”の“Crash”の手間が省けたと前向きに捉えて、“Build”していく歓びがある。

 

私は神経内科医なので、四肢が麻痺したり、言葉を発し難くなったり、記憶が薄れていったりするような患者を多く診ている。そういう患者は、自分の置かれている立場や因果を模索しながら生きている。

不安で困難な環境に適応するために、解決法をその都度探り、調整しながら生活している。「ヘルパーさんとの上手い付き合い方、コミュニケーションの取り方、パソコンなどの電子機器の使い方、家族との関係の持ち方」などを工夫し、彼らは自分の不足な点、不自由な点、不条理な点を補っていく術を身につけていく。そのあまりにも、そして、健気な人間的営みを想像し、街の復興に役立てることである。

 

この一帯は、間違いなく加速度的に高齢化が進んでいく。農業・漁業・林業などの1次産業にとって壊滅的な打撃を受けたこの地の生き残りは、お年寄りや障害者にとっての優しい街を創造していくことである。

「南相馬市に行けば充実した介護が受けられる」という街であり、そこにお金が集まるシステムを造ることである。簡単に言えば、福祉施設を増やすことであり、さらに言うなら、それを支えるマンパワーを育成していくことである。

つまり、“福祉のための地産地消計画”であり、産業や雇用は、人の優しさを通じて増やすことである。ソーラー・パネルによる電力事業や廃炉に向けた原子力事業が必要なのはわかるが、それだけでは街の本当の意味での、根幹の部分での再生はない。

現在私は、保健センターや保健所、訪問看護ステーション、介護事業所などを訪問し、介護士・ケアマネ量産のためのプロジェクトを画策している。

 

思えばこれまで私は、良い人生だったではないか。大した苦労もなく医師になり、とりあえず健康なままバリバリ働くことができたし、結構遊んだりもした。お金はほとんど貯まっていないが、飲み食いには不自由しないでいる。

だが、私が40年以上をかけて繰り返してきたことは、結局は自分自身のための消費であった。

だから、ここへきて冷静に思っていることは、「かつて、私が出会い別れていった多くの人や物に対して、少し恩返しをしてあげたくなった」ということなのかもしれない。その結果が、この街の支援なのかもしれない。

 

確かにこの街は、未来永劫、放射線とは切っても切れない関係を続けていかなければならない。

今さら言うまでもないことだが、原子力の弱いところは、ひとたび何かが起これば、長く不毛な処理を続けていくことになる。放射性廃棄物を管理していくには、原子力という技術を捨てるわけにはいかない。

廃炉に向けたビジネスが、社会的に低く見積もられ、誰からも顧みられない地味な作業の繰り返しだとしたら、一体誰がその仕事を担うのであろうか。社会的に批判され続けられるのならば、誰がその業界を維持したいと思うのだろうか。

私たちは、何か思い違いをしていた。森や川や海といった自然は、地球を浄化し続けてくれるものだと思っていた。だが、ひとたび汚染された場合には、そうした自然がもっとも除線できない場所だった。

もう既に使い古された言葉であるし、“想定外”とは言いたくないが、想定外を口にする人たちを頼らざるを得なかったことが、最大の想定外だった。

 

勘違いされないよう強調しておくが、私は何も「震災によって福島が劣化してきている」と言いたいのではない。社会は悪くもなく、良くもなく、ただ混乱の様相を日々強めているだけである。震災によってそれが、より顕在化しただけである。それならば、「それらを一旦整理したらどうですか」と言いたいのである。

勝手な言い方をすれば、福島に限らず社会というものは、そもそも劣悪である。しかし、どれほど劣悪であれ、私たちはその中で生き延びていかなくてはならず、その中で社会を再生・構築していくしかない。できることなら誠実に、前向きに、着実に。重要な真実や意義は、むしろそこにある。

さらに言うなら、震災後の周りでの混沌は、外界のアンチテーゼとして排斥することではなく、むしろ私たち人間の内なる混沌の反映として捉えていくべきものではないかと、私は考えている。

震災というものと、人間が日頃内部に溜め込んでいる矛盾や葛藤や偽善や低俗といった混沌とは、表現型が異なるだけで最終的に同じではないか。被災者の誰かが言っていた。「この震災は、世の中の混乱の代弁だ」と。そう考えていくと、私の気持ちは幾分整理される。

だから些細なことかもしれないが、私の当初抱いていた不安や寂しさは、自宅裏の、今ではすっかりジョギングコースとして定着している新田川の流れと、花びらの舞い散る桜並木とで癒やされた。混沌の中での秩序というか、静謐というか、変わらぬものに、これからの希望を見出すことができた。

 

最後に、この地での執筆活動についての構想を述べる。私のことだから、春夏秋冬を経験した時点で、それらをエッセイとしてまとめるつもりである(と言っても、このMRIC原稿を加筆訂正するだけだろうが)。

確かに私の文章力は、“医学論文”を書くことで培われたが、医学論文より一般書をたくさん読むようになり、非常識な角度で常識を語り、規格外の見方で規格を述べるようになった時点で、医師としての学術的向上は止まった。

書いた文章に私の個人的感情が迷入した時点で、論述的な医学論文も書けなくなった。

普遍性の中に個性を見出そうとして、視野を広く持てるよう物事を観察したが、実際の判断に耐え、語れる文章というものは、そうした中にごくわずかしかないということに気が付いた。そして、そのためには、「言葉にならないことでも、言語に落とし込む必要がある」ということを認識したとき、私は、決定的に科学的思考から遠ざかった。

そして、今、文章を書いていると、突然ドライブがかかる瞬間があるということを感じている。急にギアがシフトダウンし、エンジンの駆動音が聞こえてくることがある。そういう文章を気兼ねなく書けるのも、このエッセイという形式だからであろう。そんなことも、この地での愉しみのひとつになっている。

 

人々は、皆、水面下で悪戦苦闘している。復興で活躍している人たちにしかスポットを当てない情報だけではダメである。サッカー選手のような面識のない日本人を応援するよりも(それが悪いとは言わないが)、隣にいる身近で奮闘している人を応援する方が、余程健全のような気がする。

相変わらず、まとまりのない文章になってしまったかもしれない。しかし、何もないところで人はどのように過ごせばいいのかのヒントを与えたかった。創造していくことの愉しみを伝えたかった。

それは、もう少し哲学的に言うならば、「“生活”を深く味わうことができれば、“人生”をも堪能できる」ということである。今も、そしてこれからも福島での“暮らし”についての極意を伝えていく。

 





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