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人は死なない
2012年08月30日(木)
東大の偉い先生が書いた「人は死なない」という本が売れている。
なんとなく言いたいことが分かるような気がする。
しかし、本当に「我が親だけは絶対に死なない」と思っている子供は結構多い。
なんとなく言いたいことが分かるような気がする。
しかし、本当に「我が親だけは絶対に死なない」と思っている子供は結構多い。
死亡宣告をしても違和感を覚える。
1分前まで生きていたものを、「死んだ」と判定することへの違和感。
だから、わざと1時間時間をおいて訪問したりする。
まだ皮膚は少し温かく、
生きていた余韻が充分ある。
それでも、書類を書かねばならない。
95歳の親が、まだまだ死なないと思っている子供や孫が結構いる。
まだ10年は生きると、本気で思っている。
人間は、自分のわずかな経験を容易に一般化する傾向がある。
「10年間、寝たきりでも生きてきた」
「だからこれからも10年間生きるはずだ」
と、信じているひとが結構いる。
その人が亡くなったら、それは全くの想定外の事件であり、
原因は医療者や施設にあると考える人がいる。
本当は、単に寿命がきただけなのだが。
人は死なない、といえば死なない。
宗教の世界では生き続けるのだろう。
しかし、現実には、「死」は刻まれる。
人の死に対する感受性は、人によってかなりの差がある。
感覚的には、100倍、1000倍という差があると感じる。
これは痛みの感受性と似ている差、だ。
日本人の死生観はあまりにも脆弱。
しかし今後、強くなることはないだろう。
戦争や貧困くらいしか、強くなる機会はないのか。
死生観が脆弱ということは、国が平和で、社会保障が行き届いているということ。
水と空気の有難さに誰も気がつかないのと同じ。
それはそれで、おめでたいことかも。
看取りをやっていて、時に、アホらしくなることがある。
大往生でも医療ミスに転嫁させられそうになる時がある。
大きな悲しみに直面したとき、人は、「転嫁」という逃避行動を無意識のうちに選ぶことがある。
言葉では通じない。
感覚の問題は、理屈では無理だ。
そんな人たちと、どう対峙するのか、事前に察知し、予測し、対策を練ることが大切だ。
1分前まで生きていたものを、「死んだ」と判定することへの違和感。
だから、わざと1時間時間をおいて訪問したりする。
まだ皮膚は少し温かく、
生きていた余韻が充分ある。
それでも、書類を書かねばならない。
95歳の親が、まだまだ死なないと思っている子供や孫が結構いる。
まだ10年は生きると、本気で思っている。
人間は、自分のわずかな経験を容易に一般化する傾向がある。
「10年間、寝たきりでも生きてきた」
「だからこれからも10年間生きるはずだ」
と、信じているひとが結構いる。
その人が亡くなったら、それは全くの想定外の事件であり、
原因は医療者や施設にあると考える人がいる。
本当は、単に寿命がきただけなのだが。
人は死なない、といえば死なない。
宗教の世界では生き続けるのだろう。
しかし、現実には、「死」は刻まれる。
人の死に対する感受性は、人によってかなりの差がある。
感覚的には、100倍、1000倍という差があると感じる。
これは痛みの感受性と似ている差、だ。
日本人の死生観はあまりにも脆弱。
しかし今後、強くなることはないだろう。
戦争や貧困くらいしか、強くなる機会はないのか。
死生観が脆弱ということは、国が平和で、社会保障が行き届いているということ。
水と空気の有難さに誰も気がつかないのと同じ。
それはそれで、おめでたいことかも。
看取りをやっていて、時に、アホらしくなることがある。
大往生でも医療ミスに転嫁させられそうになる時がある。
大きな悲しみに直面したとき、人は、「転嫁」という逃避行動を無意識のうちに選ぶことがある。
言葉では通じない。
感覚の問題は、理屈では無理だ。
そんな人たちと、どう対峙するのか、事前に察知し、予測し、対策を練ることが大切だ。
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この記事へのコメント
「看取りをやっていて、時に、アホらしくなることがある。」それでも…精力的に活動されてる長尾先生の「言葉」に毎日「生きる力」をいただいてます。私と同じ世代の先生がAKBを楽しんでらっしゃるお姿を想像して…「あ~<普通の人間>やんな~長尾先生も…(半永久的なエイリアンみたいな、怪物みたいなパワーで生きてらっしゃるので…失礼!)」って、変に安心させられて…(^^)
毎日毎日先生の記事読ませていただいて、喜怒哀楽全開で、言葉では通じない感性に刺激与えられ、今日も急性期病院から追い出される?!患者さんの相談にのらせていただいてます…と、共に医師法20条の都市伝説の?!誤解をとくために医療現場に資料回したりもしながら…(#^.^#)
Posted by あい at 2012年08月30日 04:20 | 返信
患者の家族としては、耳の痛いお話で、確かに、父があっけなく、死ぬとは、思っていませんでした。患者の家族にも、反省すべき点は多いと、思います。
でも、長尾先生も、前に比べたら、随分お忙しそうに見えます。
そんな時が魔の時です。以前は患者と共に泣いて、家族と共に、故人を偲ぶ、そういう余裕があったのではないでしょうか。
一日に何人も、看取りをしていらっしゃったら、なにか、事務的になってしまったり、「ああ疲れた」と顔に出てしまう。そんな時に、お互いの気持ちの行き違いになるのではとお見受けしました。
なんとか、別のお医者様に代わって頂かないと、事故のもとのように思いました。
エラそうに申し上げて済みません。
Posted by 大谷佳子 at 2012年08月30日 05:42 | 返信
私も、小さい脳みそで、考えたのですが、アメリカなんかはプロテスタントの宗教国家でうから、亡くなる時は、牧師さんが来て、慰めるし、亡くなったあとは、家族にブリーフィングとかっていう、心理的な治療もしてくれるらしいです。ヨーロッパでも、神父さんが慰めに来てくれます。医者は全く宗教的な治療と関係なく、科学的というか、治療と亡くなったという証明書を書くだけです。
日本は、亡くなる前の慰めや、亡くなった後のブリーフィングなんて無いから、在宅医が宗教的役割を、期待されてしまうのかも知れません。医師はそんなつもりはなくても、期待される。
昔から、看ている患者さん家族なら、あうんの呼吸で、付き合いができるけど、普段から看ていないと、どうしても、死亡診断書を書くだけになってしまいますね。
「長尾先生に看て貰って良かった」という噂だけが、先行すると、「評判と違うやないの」と勝手に思い込む人もいるかもしれません。むつかしいですね。
料理や、商品と違いますからね。そんな事を考えました。
Posted by 大谷佳子 at 2012年09月02日 02:38 | 返信
「宗教の世界では生き続けるのだろう。」
これがすでに個人的願望や先入観からくる言葉ではないですか? 科学的ではないです。
否定する方は総じて勉強不足であるように思われます。
こういった研究は日本では非常に遅れています。
レイモンド・ムーディー、マイクル・セイボムなどの本をおすすめします。
みんな医者です。
Posted by 臨床事実か at 2013年07月03日 05:35 | 返信
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