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敬愛申し上げる内山裕先生のお言葉
2014年08月18日(月)
8月15日、69回目の終戦の日を自分は台北市の台北駅で迎えた。
日本にとっても台湾にとってもこの日は運命の日であり、現在進行形である。
この日のために敬愛申し上げる鹿児島の内山裕先生のお言葉を紹介したい。
日本にとっても台湾にとってもこの日は運命の日であり、現在進行形である。
この日のために敬愛申し上げる鹿児島の内山裕先生のお言葉を紹介したい。
内山先生は、鹿児島県の公衆衛生畑をずっと歩まれた巨匠。
終末期医療にもご造詣が深く、私にとっては雲の上の医師だ。
昨秋、御縁あって、内山先生のお宅前にも行き、車内でお話もさせて頂いた。
恩とし、90歳になられる内山先生が某メーリングリストで発せられたお言葉。
とてもクローズドではもったいない。
広く人に読んで頂きたいと願い、ここに転載させて頂く。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
勿論、先の大戦の意義を論じようとしたり、我が国の有り様を論ずるつもりではありません。
ただ、歳月の流れが速すぎて、私のような存在は「負の意識」に耐えられないだけです。
私の竹馬の友の「殉死」が忘れられないだけです。
夏が訪れると、辛いのです、哀しいのです、ただ生きているだけで、申し訳ないのです。
彼のことを詳しく話そうと考えているのでもありません。
ただ彼の自啓録ー遺書ーに残された二首は忘れられません。
君が代の ただ君が代の咲きくませと 祈り嘆きて 生きにしものを
遅れても 遅れても亦卿達に 誓いし言葉 われ忘れめや
悲愁の色濃い戦場にあって、唯ひたすらに祖国を守り抜こうとして、挽回の一縷の望みを必死必殺の人間
魚雷「回天」に託していた彼にとって、終戦の大詔は、何と哀しく、何と切なく拝されたことでしょう。
死に赴いた部下、同僚に涙し、敗戦の責めを謝した彼には、最早「生」への選択はあり得なかったのでしょう。
何よりも愛した祖国に、そして父母や弟妹に、静かに決別し、遺書をしたためた彼は、愛艇の前に真っ白い
軍装を赤く染めて、従容として自らの手でその命を絶ったのです。時に昭和20年8月18日午前3時、所は山口県
平生の回天特別攻撃隊基地。橋口寛海軍大尉、齢ようやく21歳。
君が信じ愛したこの風土の中に生きて、私は君に会えたとき何を語ればよいのでしょうか。
せめて、昭和59年5月20日、霧島の山並みの一角、自然薬草の森で、昭和天皇の御散策に約30分供奉した折の
陛下の心優しいお言葉、微笑まれたご表情、陛下に申し上げた自然と人との調和・・・
それとも矢張り、祖国のため、人のため世のために役立つ何事かを成し遂げたと、胸を張って君に語れると
思えたときに、漸く「負の意識」が消えて、心に平安が訪れるのでしょうか。
最後に、俳句もどきを書いておきます。
負の意識 消さずに生きる 敗戦日
回天の 友に負い目の 敗戦忌
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
私事にわたりますが、先程書いた「負の意識」に、補足を書かせてください。
私の小学1年の秋、満州事変が起き、中学1年の夏には廬溝橋事件が勃発して日中
戦争が始まり、中学5年の冬、ハワイ攻撃で、太平洋戦争が始まりました。
戦いは苛烈を極めました。大陸に、大海原に、ジャングルに、孤島に、海に、空に、
果てしもなく広がった戦火は、本土にも及んできました。
鹿児島の地も戦場と化し、全市が焼き尽くされました。医学生だった私は、枯渇
していた医療陣の中にあって、戦いに明け暮れました。
私の左腕に今でも残る傷跡は、グラマン戦闘機から放たれた機銃弾の残傷です。
そして、やがて、長かった戦いにも終焉の時がきました。見渡す限り瓦礫が続き、
余燼が白く燻り、所々に水道の栓が白く水を噴き上げていたあの廃墟の中で、私は、
還ってくるであろう竹馬の友・橋口寛を待っていました。
そんな私の処へ届いたのは、悲痛な知らせでした。自らの手で命を絶ち、その血で
真っ赤に染まった海軍大尉の正装と、血と涙で綴られた遺書とに接して、ご両親の
前でただ声もなく泣きました。
自らの手で苛烈な死を選んだ君よ、あのまま青春を凝結させた君よ、君が信じ愛した
この風土の中に生きて、せめて君の死を耐えたい。心にそう誓いながら私は、君の
影を引きずったまま、あれからの永い歳月をとにかくも生きてきました。
そして、気がつけば数えて90歳、所謂卒寿を生きています。
医師になった私が「公衆衛生」の途を選択したのも、君が一番納得してくれそうだったし、
復帰直後の奄美群島の保健所長を引き受けたのも、君が望んでいたように思えたし、
農山漁村の集落に移動検診車を走らせたり、夜な夜な幻灯機持参で衛生講話に没頭
したのも、君が声援しているように信じられたからに違いありません。
虚脱、混迷、復興、安定、そして繁栄と、時代が移ろう中、高度経済成長の余波が
及び、公害・環境という未知の行政分野の責めを負うことになりました。
水俣病と出会い、人の命の尊さを態度で示さなければならない公衆衛生医の、それは
背負わなければならない十字架だと自分に言い聞かせていました。
疾風怒濤の環境行政を担当しながら、科学技術の発達とは人に幸せをもたらすもの
なのか、人の生き方が試されているのではないのか、自らに問うていました。
そんな時君の声がしました。「足るを知る」そんな東洋の古くからの哲学でした。
医療行政を所管してからも、私は医療の主役・脇役を論じました。肉体に心に傷を
持った人々の痛みを、自分の痛みとして受け止め行動しているのか。
お前がはっきりと哲学を持っているのか、と、彼はいつでも弱者の味方でした。
今「終末期医療」に拘っています。私が君に会えるのも、案外近いかも知れません。
身辺整理を終え、自分の生きた人生をそれなりに納得し、妻や子供達に有り難うと
伝えたら、「負の意識」も薄れ、君の澄みきった目に会えるだろう。
君は変わっていないだろうが、俺には目印がいるだろうな・・・。
「回天の友に負い目の敗戦忌」
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
私の「敗戦忌」
2014年8月18日
元鹿児島県衛生部長・日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕
昭和20年8月18日は私にとって忘れられない日である。私にとっての「敗戦忌」である。
私の小学1年の秋、満州事変が起き、中学1年の夏には廬溝橋事件が勃発して日中戦争が始まり、中学5年の冬、ハワイ攻撃で太平洋戦争が始まった。
戦いは苛烈を極めた。大陸に、大海原に、ジャングルに、孤島に、海に、空に、果てしもなく広がった戦火は、本土にも及んできた。
鹿児島の地も戦場であった。医学生だった私は枯渇していた医療陣の中にあって戦いに明け暮れた。私の左腕に今も残る傷跡はあの頃、県立病院への途次、グラマン戦闘機から放たれた機銃弾の残傷である。
そして、やがて、長かった戦いにも終焉の時がきた。見渡す限り瓦礫が続き、余燼が白く燻り、所々に水道の栓が白く水を噴き上げていたあの廃墟の中で、私は、還ってくるであろう竹馬の友・橋口 寛を待っていた。
そんな私の処へ届いたのは、悲痛な知らせだった。自らの拳銃で胸を撃ち、真っ赤に染まった海軍大尉の正装と、血と涙で綴られた手記とに接して、ご両親の前でただ声もなく泣いた。
悲愁の色濃い戦場にあって、唯ひたすらに祖国を守り抜こうとして、挽回の一縷の望みを託した彼は、自らを必死必殺の人間魚雷「回天」の隊長の責めにおいていたのだった。
その彼に、終戦の大詔は、何と哀しく、何と切なく拝されたことか。死に赴いた部下・同僚に涙し、敗戦の責めを謝した彼には、最早生への選択はあり得なかったのであろう。何より愛した祖国に、そして父母や弟妹に静かに決別し、遺書をしたためた彼は、
君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを
遅れても遅れても亦卿達に 誓いし言葉われ忘れめや
辞世の二首を遺して、愛艇の中で真っ白い軍装を赤く染めて、従容として自らの手でその命を絶った。
時に昭和20年8月18日午前3時、所は山口県平生の特攻基地。橋口寛、齢ようやく21歳。
自らの手で苛烈な死を選んだ君よ、あのまま青春を凝結させた君よ、君が信じ愛したこの風土の中に生きてきて、やがて私は満90歳を迎える。なぜか後ろめたさを消せぬまま、負い目のまま生きてきた。せめて君の死を耐えたままで生きてきた。
あれから程なく医師になった私が「公衆衛生医」の道を選択したのは、君が一番納得してくれそうに思えたからに違いなかったし、本土復帰直後の奄美群島を所管する保健所長を進んで引き受けたのも、農山漁村の僻地集落に検診車を走らせたり、夜な夜な幻灯機持参で衛生講話に没頭したのも、君が声援しているように信じられたからに違いない。
あれから時代はめまぐるしく変貌を遂げた。虚脱、混迷、復興、安定、そして繁栄と、経済成長の波は、公害・環境という未知の行政分野を余儀なくし、私はその責任を負うポストに就くことになった。水俣病と出会い、幾多の環境汚染に対応しながら、科学技術の発展は真に人の幸せをもたらすものなのか、自らに問い、君にも尋ねたね。君の答えは、東洋の古くからの哲学「足を知る」だったことは肝に銘じているよ。
医療行政を所菅してからも、終末期医療のボランテイア活動に拘わりながらも、医療の(と言うよりも人生の)主役・脇役を考えてきた。肉体に心に傷を持った人々の痛みを、自分の痛みとして受け止め行動しているのか。所謂弱者の視点を説いてきた。君の澄みきった眼に、暖かい視点をいつも感じていたからに違いない。
自分の生きた人生をそれなりに納得し、人のため世のために役立つ何かを為し遂げたと思えたときに、私の心に真の平安が訪れるに違いない。その時にようやく君への負い目が薄れてくれるに違いない。
君に会えるのも、そう遠い話しではあるまい。君は変わってもいないだろうが、俺には何か目印が要るだろうな・・。
俳句もどきを1句 「回天の友に負い目の敗戦忌」
(添付写真は、人間魚雷「回天」隊長、海軍大尉橋口寛)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ああこの英霊の前では、なんとチッポケな人間を生きているんだろう。
情けなくなる。
内山先生は御健在であるが、この敗戦記念日に自ら綴られたお言葉と
橋口寛大尉の雄姿をネット上に残させていただき、未来永劫、「不戦」を誓いたい。
終末期医療にもご造詣が深く、私にとっては雲の上の医師だ。
昨秋、御縁あって、内山先生のお宅前にも行き、車内でお話もさせて頂いた。
恩とし、90歳になられる内山先生が某メーリングリストで発せられたお言葉。
とてもクローズドではもったいない。
広く人に読んで頂きたいと願い、ここに転載させて頂く。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
勿論、先の大戦の意義を論じようとしたり、我が国の有り様を論ずるつもりではありません。
ただ、歳月の流れが速すぎて、私のような存在は「負の意識」に耐えられないだけです。
私の竹馬の友の「殉死」が忘れられないだけです。
夏が訪れると、辛いのです、哀しいのです、ただ生きているだけで、申し訳ないのです。
彼のことを詳しく話そうと考えているのでもありません。
ただ彼の自啓録ー遺書ーに残された二首は忘れられません。
君が代の ただ君が代の咲きくませと 祈り嘆きて 生きにしものを
遅れても 遅れても亦卿達に 誓いし言葉 われ忘れめや
悲愁の色濃い戦場にあって、唯ひたすらに祖国を守り抜こうとして、挽回の一縷の望みを必死必殺の人間
魚雷「回天」に託していた彼にとって、終戦の大詔は、何と哀しく、何と切なく拝されたことでしょう。
死に赴いた部下、同僚に涙し、敗戦の責めを謝した彼には、最早「生」への選択はあり得なかったのでしょう。
何よりも愛した祖国に、そして父母や弟妹に、静かに決別し、遺書をしたためた彼は、愛艇の前に真っ白い
軍装を赤く染めて、従容として自らの手でその命を絶ったのです。時に昭和20年8月18日午前3時、所は山口県
平生の回天特別攻撃隊基地。橋口寛海軍大尉、齢ようやく21歳。
君が信じ愛したこの風土の中に生きて、私は君に会えたとき何を語ればよいのでしょうか。
せめて、昭和59年5月20日、霧島の山並みの一角、自然薬草の森で、昭和天皇の御散策に約30分供奉した折の
陛下の心優しいお言葉、微笑まれたご表情、陛下に申し上げた自然と人との調和・・・
それとも矢張り、祖国のため、人のため世のために役立つ何事かを成し遂げたと、胸を張って君に語れると
思えたときに、漸く「負の意識」が消えて、心に平安が訪れるのでしょうか。
最後に、俳句もどきを書いておきます。
負の意識 消さずに生きる 敗戦日
回天の 友に負い目の 敗戦忌
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
私事にわたりますが、先程書いた「負の意識」に、補足を書かせてください。
私の小学1年の秋、満州事変が起き、中学1年の夏には廬溝橋事件が勃発して日中
戦争が始まり、中学5年の冬、ハワイ攻撃で、太平洋戦争が始まりました。
戦いは苛烈を極めました。大陸に、大海原に、ジャングルに、孤島に、海に、空に、
果てしもなく広がった戦火は、本土にも及んできました。
鹿児島の地も戦場と化し、全市が焼き尽くされました。医学生だった私は、枯渇
していた医療陣の中にあって、戦いに明け暮れました。
私の左腕に今でも残る傷跡は、グラマン戦闘機から放たれた機銃弾の残傷です。
そして、やがて、長かった戦いにも終焉の時がきました。見渡す限り瓦礫が続き、
余燼が白く燻り、所々に水道の栓が白く水を噴き上げていたあの廃墟の中で、私は、
還ってくるであろう竹馬の友・橋口寛を待っていました。
そんな私の処へ届いたのは、悲痛な知らせでした。自らの手で命を絶ち、その血で
真っ赤に染まった海軍大尉の正装と、血と涙で綴られた遺書とに接して、ご両親の
前でただ声もなく泣きました。
自らの手で苛烈な死を選んだ君よ、あのまま青春を凝結させた君よ、君が信じ愛した
この風土の中に生きて、せめて君の死を耐えたい。心にそう誓いながら私は、君の
影を引きずったまま、あれからの永い歳月をとにかくも生きてきました。
そして、気がつけば数えて90歳、所謂卒寿を生きています。
医師になった私が「公衆衛生」の途を選択したのも、君が一番納得してくれそうだったし、
復帰直後の奄美群島の保健所長を引き受けたのも、君が望んでいたように思えたし、
農山漁村の集落に移動検診車を走らせたり、夜な夜な幻灯機持参で衛生講話に没頭
したのも、君が声援しているように信じられたからに違いありません。
虚脱、混迷、復興、安定、そして繁栄と、時代が移ろう中、高度経済成長の余波が
及び、公害・環境という未知の行政分野の責めを負うことになりました。
水俣病と出会い、人の命の尊さを態度で示さなければならない公衆衛生医の、それは
背負わなければならない十字架だと自分に言い聞かせていました。
疾風怒濤の環境行政を担当しながら、科学技術の発達とは人に幸せをもたらすもの
なのか、人の生き方が試されているのではないのか、自らに問うていました。
そんな時君の声がしました。「足るを知る」そんな東洋の古くからの哲学でした。
医療行政を所管してからも、私は医療の主役・脇役を論じました。肉体に心に傷を
持った人々の痛みを、自分の痛みとして受け止め行動しているのか。
お前がはっきりと哲学を持っているのか、と、彼はいつでも弱者の味方でした。
今「終末期医療」に拘っています。私が君に会えるのも、案外近いかも知れません。
身辺整理を終え、自分の生きた人生をそれなりに納得し、妻や子供達に有り難うと
伝えたら、「負の意識」も薄れ、君の澄みきった目に会えるだろう。
君は変わっていないだろうが、俺には目印がいるだろうな・・・。
「回天の友に負い目の敗戦忌」
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私の「敗戦忌」
2014年8月18日
元鹿児島県衛生部長・日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕
昭和20年8月18日は私にとって忘れられない日である。私にとっての「敗戦忌」である。
私の小学1年の秋、満州事変が起き、中学1年の夏には廬溝橋事件が勃発して日中戦争が始まり、中学5年の冬、ハワイ攻撃で太平洋戦争が始まった。
戦いは苛烈を極めた。大陸に、大海原に、ジャングルに、孤島に、海に、空に、果てしもなく広がった戦火は、本土にも及んできた。
鹿児島の地も戦場であった。医学生だった私は枯渇していた医療陣の中にあって戦いに明け暮れた。私の左腕に今も残る傷跡はあの頃、県立病院への途次、グラマン戦闘機から放たれた機銃弾の残傷である。
そして、やがて、長かった戦いにも終焉の時がきた。見渡す限り瓦礫が続き、余燼が白く燻り、所々に水道の栓が白く水を噴き上げていたあの廃墟の中で、私は、還ってくるであろう竹馬の友・橋口 寛を待っていた。
そんな私の処へ届いたのは、悲痛な知らせだった。自らの拳銃で胸を撃ち、真っ赤に染まった海軍大尉の正装と、血と涙で綴られた手記とに接して、ご両親の前でただ声もなく泣いた。
悲愁の色濃い戦場にあって、唯ひたすらに祖国を守り抜こうとして、挽回の一縷の望みを託した彼は、自らを必死必殺の人間魚雷「回天」の隊長の責めにおいていたのだった。
その彼に、終戦の大詔は、何と哀しく、何と切なく拝されたことか。死に赴いた部下・同僚に涙し、敗戦の責めを謝した彼には、最早生への選択はあり得なかったのであろう。何より愛した祖国に、そして父母や弟妹に静かに決別し、遺書をしたためた彼は、
君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを
遅れても遅れても亦卿達に 誓いし言葉われ忘れめや
辞世の二首を遺して、愛艇の中で真っ白い軍装を赤く染めて、従容として自らの手でその命を絶った。
時に昭和20年8月18日午前3時、所は山口県平生の特攻基地。橋口寛、齢ようやく21歳。
自らの手で苛烈な死を選んだ君よ、あのまま青春を凝結させた君よ、君が信じ愛したこの風土の中に生きてきて、やがて私は満90歳を迎える。なぜか後ろめたさを消せぬまま、負い目のまま生きてきた。せめて君の死を耐えたままで生きてきた。
あれから程なく医師になった私が「公衆衛生医」の道を選択したのは、君が一番納得してくれそうに思えたからに違いなかったし、本土復帰直後の奄美群島を所管する保健所長を進んで引き受けたのも、農山漁村の僻地集落に検診車を走らせたり、夜な夜な幻灯機持参で衛生講話に没頭したのも、君が声援しているように信じられたからに違いない。
あれから時代はめまぐるしく変貌を遂げた。虚脱、混迷、復興、安定、そして繁栄と、経済成長の波は、公害・環境という未知の行政分野を余儀なくし、私はその責任を負うポストに就くことになった。水俣病と出会い、幾多の環境汚染に対応しながら、科学技術の発展は真に人の幸せをもたらすものなのか、自らに問い、君にも尋ねたね。君の答えは、東洋の古くからの哲学「足を知る」だったことは肝に銘じているよ。
医療行政を所菅してからも、終末期医療のボランテイア活動に拘わりながらも、医療の(と言うよりも人生の)主役・脇役を考えてきた。肉体に心に傷を持った人々の痛みを、自分の痛みとして受け止め行動しているのか。所謂弱者の視点を説いてきた。君の澄みきった眼に、暖かい視点をいつも感じていたからに違いない。
自分の生きた人生をそれなりに納得し、人のため世のために役立つ何かを為し遂げたと思えたときに、私の心に真の平安が訪れるに違いない。その時にようやく君への負い目が薄れてくれるに違いない。
君に会えるのも、そう遠い話しではあるまい。君は変わってもいないだろうが、俺には何か目印が要るだろうな・・。
俳句もどきを1句 「回天の友に負い目の敗戦忌」
(添付写真は、人間魚雷「回天」隊長、海軍大尉橋口寛)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ああこの英霊の前では、なんとチッポケな人間を生きているんだろう。
情けなくなる。
内山先生は御健在であるが、この敗戦記念日に自ら綴られたお言葉と
橋口寛大尉の雄姿をネット上に残させていただき、未来永劫、「不戦」を誓いたい。
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