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余命3ケ月が、1年近くに
2015年03月14日(土)
産経新聞生と死シリーズ第10話 予命3ケ月が、1年近くに
末期がんを隠しながら最期まで働いたHさん
少しずつ春が近づいてきました。そろそろ在宅患者さんを招いてのお花見大会の準備を始めています。この季節になると、どうしてもある患者さんの姿が浮かんできます。
Hさんは、ある介護施設のベテラン職員でした。60歳の節目を前に息苦しさを自覚して病院に駆け込みました。検査の結果、かなり進行した肺がんが見つかりました。すでにあちこちに転移しているので手術の適応は無いと判断されて、抗がん剤治療を受けることに。しかし介護の仕事を続けながら、病院の外来抗がん剤治療を半年以上続けられました。
夏のある日、Hさんが倒れ込むように入ってこられました。調べると大量の胸水が貯まり片側の肺の容積はゼロでした。相当な痛みも予想される状態でした。20年前の私ならすぐに胸水を何リットルも抜いたでしょう。仕事も辞めさせたでしょう。しかしHさんは勤労意欲が強く「職場で死ねたら本望やわ」と言われたので、本人の意志に寄り添う医療を行うことにしました。自らの意思で抗がん剤治療を中止されました。そして利尿剤とステロイドとモルヒネによる緩和医療を開始。すると1週間後には呼吸困難感は軽減し見違えるように元気が戻りました。しかしご家族だけには、「余命は3ケ月程度で、年は越せないでしょう」と説明しました。
秋になってもHさんは、相変わらず仕事を続けていました。自転車に乗り、駅の階段を息を切らしながらも昇りました。肺の容積は3分の1しかないのに本当に不思議な体力です。あまりに元気なので当院の忘年会にご招待しました。ステージに上がり「まだ生きていまーす!」なんて職員を笑わせてくれました。心の中では、「最期の酒やろなあ」と思っていました。「どうせ最期なら」と患者さんにはとても見せられない裸踊りも見せました。
果たして正月を越えて3月になってもまだ働いていて、なんと当直までもされていました。しかし切りのいい3月末で退職され在宅医療に移行しました。まだ少し歩けたので、当院主催の春のお花見大会に招待しました。得意のフルート演奏を披露されましたが、深刻な病状を知っている私には楽器を吹けること自体が不思議でした。介護施設の入所者や花見の招待客は、余命がそう長くはない高齢者や末期がんの人達ばかりです。その中でも、おそらくHさんが一番先に天国に行くはずの状態。しかしHさんは、自分の病気は周囲に一切内緒にして、要介護者を喜ばせることに徹しておられました。
5月後半から徐々に衰弱して痛みが強くなったので緩和医療を強化しました。死期が近いと感じたHさんは葬式の準備だけでなく、お墓の代金や永代供養料まで払っていました。部屋の片隅にはお坊さんへの御礼だけでなく「長尾先生へ」と書かれたポチ袋まで。私が見つけると「これは死んでからあげるの!」と笑っていました。6月初旬、家族や友人、そして訪問看護師さんが見守る中、自宅で穏やかに旅立たれました。Hさんは末期がんでも大量の胸水と共存しながら最期まで好きな仕事を続けられました。そして死後のプロデユースも完璧になされた。そのせいでしょうか、余命3カ月が1年近くのご縁になりました。まさに身をもって素晴らしい生き方、逝き方を教えて頂きました。
キーワード 緩和医療
痛みには、身体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、魂の痛みの4つの痛みがあるとされる。これらのトータルペインを薬剤のみならず傾聴や代替医療などで緩和する医療を緩和医療という。最近はがん以外の疾病にも適応されつつある。
末期がんを隠しながら最期まで働いたHさん
少しずつ春が近づいてきました。そろそろ在宅患者さんを招いてのお花見大会の準備を始めています。この季節になると、どうしてもある患者さんの姿が浮かんできます。
Hさんは、ある介護施設のベテラン職員でした。60歳の節目を前に息苦しさを自覚して病院に駆け込みました。検査の結果、かなり進行した肺がんが見つかりました。すでにあちこちに転移しているので手術の適応は無いと判断されて、抗がん剤治療を受けることに。しかし介護の仕事を続けながら、病院の外来抗がん剤治療を半年以上続けられました。
夏のある日、Hさんが倒れ込むように入ってこられました。調べると大量の胸水が貯まり片側の肺の容積はゼロでした。相当な痛みも予想される状態でした。20年前の私ならすぐに胸水を何リットルも抜いたでしょう。仕事も辞めさせたでしょう。しかしHさんは勤労意欲が強く「職場で死ねたら本望やわ」と言われたので、本人の意志に寄り添う医療を行うことにしました。自らの意思で抗がん剤治療を中止されました。そして利尿剤とステロイドとモルヒネによる緩和医療を開始。すると1週間後には呼吸困難感は軽減し見違えるように元気が戻りました。しかしご家族だけには、「余命は3ケ月程度で、年は越せないでしょう」と説明しました。
秋になってもHさんは、相変わらず仕事を続けていました。自転車に乗り、駅の階段を息を切らしながらも昇りました。肺の容積は3分の1しかないのに本当に不思議な体力です。あまりに元気なので当院の忘年会にご招待しました。ステージに上がり「まだ生きていまーす!」なんて職員を笑わせてくれました。心の中では、「最期の酒やろなあ」と思っていました。「どうせ最期なら」と患者さんにはとても見せられない裸踊りも見せました。
果たして正月を越えて3月になってもまだ働いていて、なんと当直までもされていました。しかし切りのいい3月末で退職され在宅医療に移行しました。まだ少し歩けたので、当院主催の春のお花見大会に招待しました。得意のフルート演奏を披露されましたが、深刻な病状を知っている私には楽器を吹けること自体が不思議でした。介護施設の入所者や花見の招待客は、余命がそう長くはない高齢者や末期がんの人達ばかりです。その中でも、おそらくHさんが一番先に天国に行くはずの状態。しかしHさんは、自分の病気は周囲に一切内緒にして、要介護者を喜ばせることに徹しておられました。
5月後半から徐々に衰弱して痛みが強くなったので緩和医療を強化しました。死期が近いと感じたHさんは葬式の準備だけでなく、お墓の代金や永代供養料まで払っていました。部屋の片隅にはお坊さんへの御礼だけでなく「長尾先生へ」と書かれたポチ袋まで。私が見つけると「これは死んでからあげるの!」と笑っていました。6月初旬、家族や友人、そして訪問看護師さんが見守る中、自宅で穏やかに旅立たれました。Hさんは末期がんでも大量の胸水と共存しながら最期まで好きな仕事を続けられました。そして死後のプロデユースも完璧になされた。そのせいでしょうか、余命3カ月が1年近くのご縁になりました。まさに身をもって素晴らしい生き方、逝き方を教えて頂きました。
キーワード 緩和医療
痛みには、身体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、魂の痛みの4つの痛みがあるとされる。これらのトータルペインを薬剤のみならず傾聴や代替医療などで緩和する医療を緩和医療という。最近はがん以外の疾病にも適応されつつある。

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この記事へのコメント
私が長尾先生のブログに迷い込んだ当時(4年前)は、今の時代に往診(訪問診療)という考えがあること自体驚きで、入院か外来で診療を受け、「死ぬのは病院」が常識と思っていた当時、その必要を説く先生の考えが理想論に思え、それを実現するのは貼り巡らされた「常識」と言う千畳敷の絨毯をひっくり返すくらい困難なことに思えました。
それがわずか4年にしてさまざまな形で長尾先生の意志を見るようになり、特にこの産経新聞の記事は先生の理想の最高の事例と思いました。
先生のような超人的な行動がすべての医師に出来るとは思えませんが、関寛斎を理想とされた先生の医療が常識となり、平穏死と、「人間を診る」医師が今より一人でも多くなり、先生と同じ医療が全国どこでもうけられるようになる事を願いたいと思います。
Posted by 桜 at 2015年03月14日 11:24 | 返信
とても
いい感じです。
なかなか 難しいかも しれませが、
たいした 先輩に、感謝します。
おこらんど
おぎようこ
墨あそび詩あそび土あそび
Posted by おこらんど at 2015年03月14日 01:01 | 返信
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