震災と原発のその後に関する沢山の記事を読んだ。
本当に大変で、どんな言葉も発することができなかった。
何を言っても所詮ひとごとに思えたから。
だから朝日新聞アピタルでは、団鬼六先生の言葉を借りるしか無かった。→
こちら
私が言えたことは、ひとつだけ。
年に1~2回、被災地に遊びに行きます。
そんな中、あの日、被災地ではとっても気になったスピーチがあった。
菅原綾加さんの話と、それに続く若者たちのネット上での書き込み。
当然、さまざまな反響を予期していたのだろう。
それを乗り越えて生きるぞ!という決意を感じ、感動した。
言葉を発して、そのまま語りあうことには、意味があると思う。
みなさまは、このやりとりから、何を感じますか?? →
こちら
綾加さんは東京の大学に進学したと書かれている。
是非とも、辛い体験を、大きく活かせるように頑張って勉強して欲しい。
私も、身内の辛い体験が原動力になっている。
だから相馬市の震災孤児たちにもエールを送っている。
菅原 彩加さんのスピーチ(「Tohoku to the world」より) |
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3月11日の日、中学校の卒業式でした。10年間ともに過ごした仲間とのすばらしい別れの一日、一生思い出に残る良い日になるとばかり思っていました。午前中の式を終えてお昼は謝恩会をし、午後二時頃家に帰りました。帰ってすぐでした。
突然の大きな揺れ、「また地震か」。最初はその程度でしたが、どんどん強くなっていく揺れ。今まで感じたことのない程大きな揺れが日本に起きました。何分経っても止まらない長い長い揺れでした。家の中はぐちゃぐちゃで、家族もみんなパニック状態、「どうしよう、どうしよう」。それしか私は頭に出てきませんでした。しかし、少し時間が経つと冷静になり、母や祖母なども「家の中、ガラスとかあぶないから片付けようか」ということになり、私の父、母、祖母、曾祖母そして私の五人で家の中を片付けていました。私はふと「あんなに大きい地震は本当にびっくりしたなあ。震度何だったんだろ?」とふと思い携帯を使い調べてみました。すると震度何だったなどというよりも大きな文字で「大津波警報」と表示されているのが私の目に入りました。「えっ津波?」と思い、その文字をクリックすると地域別に予想される津波の高さが表示されていました。石巻は何メートルかなと、石巻の所を見てみると10メートル以上と表示されていました。 私は「これはヤバい」と思い祖母にそのことを伝えました。すると祖母も「10メートル以上ってことは金谷(私の住んでいた地区)まで来るね。逃げるよってママとかに言ってきて」と言われ私は急いで二階へ行き母にそのことを伝えようとしたその時、「ゴォー」という地鳴りのような音が聞こえてきました。「また余震か」と思ったものの、まったく揺れも来ず、「ゴォー」という音がただただ大きくなるだけでした。すると「みんな早く逃げろー!」よく聞くと隣の家の人の声が私の耳に入りました。「これは津波だ。大変、逃げなきゃ」と思い、母の手を引き階段を降りようとした時、「バキバキッ、ガシャン」という音と共に家は壊れ、私たち家族5人は大きな波に飲まれました。
何が何だかわからなくて、痛くて冷たくて「もう死ぬんだ」ということが私の頭でぐるぐる駆け巡りました。「ギシ、ガチャガチャガチャ」。しばらくの間流されて、私はがれきの山に埋もれ、止まりました。力をふりしぼり、がれきをかき分け出て行くと約20メートルくらいの高さのがれきの山の上にいました。しーんと静まり返り、一言で言えば、“黒い海”という感じでした。そのとき、自分の足下から「ゔ—、ゔ—」とうなり声のようなものが聞こえました。足下のがれきを少しよけてみると私の母の姿がありました。くぎが刺さり木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿。右足が挟まって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならない程の重さ、大きさでした。母のことを助けたいが、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。“助けるか”“逃げるか”。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙が止まらない選択です。最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、もっともっと伝えたいこともたくさんあったし、これ以上辛いことは、もう一生ないのではないかなと思います。その後、私は泳いで小学校へと渡り一夜を明かしました。
この後も、私が体験したことはもっともっとたくさんあります。辛くて辛くて死のうかと思った日もありました。なんでこんなに辛いんだろうと思った日もあるし、家族を思って泣いた日も数えきれないほどありました。今回の震災で私が失った物は、計り知れないほどのものがあります。しかしこの震災によって得られたものもたくさんあります。それはこれから、自分の気持ちや行動次第でいくらでも増やして行けると私は思います。他の人からみれは私はかわいそうな一人の高校生かも知れませんが私はそうは思いません。私には支えてくれるおじいさん、おばあさんがいます。辛い時助けてくれる友達がいます。このような経験をしたから得られたチャンスがあります。そして、どんなことも頑張れる自信もあります。また、辛い人の気持ちを解ってあげることも出来ます。だから私は将来私と同じつらい思いをしている子供たちを助けられる仕事をしたいと思っています。また日本に支援をしてくれた国へ恩返しとして国際ボランティアなどにも取り組んでみたい。
この先、辛いこともまだまだたくさんあるでしょうが、“私にしか出来ないこと”“私だから出来ること”というものをたくさん見つけ誰かの約に立ち、失ったものと同じくだいのものを、この人生を通りて得ていきたいと思っています。
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この記事へのコメント
恐ろしい、悲しいお話ですね。
なんと言って良いのか分かりません。
お母様も、安らかに成仏なさって、お嬢さんも、悲しみを乗り越えて、元気に生きて欲しいです。
東北大震災では、このような悲しいお話がいっぱいあるのでしょう。
Posted by 匿名 at 2015年03月23日 04:42 | 返信
一瞬
自分の耳を
疑いました。
が、
彼女が、
この事実を
語る、
までの
葛藤、苦悩、
に、心馳る。
強さに
感服
必ず、時間が、幼い被災者
の 痛みを、克服。希望いただきました。
おこらんど
おぎようこ
墨あそび詩あそび土あそび
Posted by おこらんど at 2015年03月24日 06:27 | 返信
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