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「自宅での看取りをあまり啓蒙しないでほしい」

2015年07月27日(月)

笹岡大史先生のメルマガを愛読している。
「自宅での看取りをあまり啓蒙してほしくない」という意見があったが、
私自身も明らかに当事者であるので、よく考えないといけないと思った。
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『柔軟な選択肢』
看取りの場所の、理想と現実があります。
理想は、家族に囲まれて、日中も家族に囲まれながら最後の日を迎えることです。しかし、現実には在宅医療環境も不十分な地域が沢山あります。家族介護力が乏しい家庭もあります。

生活介護福祉医療に関わるものたちは、理想に近い環境を如何に作れるか、一昼夜には社会環境は変わりませんが、ビジョンを明確に共有していけば、近づくことは必ずできると信じます。

在宅療養が困難な場合も、在宅に近い環境で、最後に旅立つ親と一緒に過ごし易い住まいがあれば、仕事帰りに囲碁も打てると思います。ファミリールームのある、サ高住、有料老人ホーム、ホスピスなど、既存のインフラで出来ることもあると思います。
オムツを替えてもたっら親に、楽しい思い出を最後に作ってあげたいと思います。




自宅での看取りをあまり啓蒙しないでほしい

2015/7/24 尾藤誠司(東京医療センター)

 先日父親が他界しました。もともと体が弱かったのですが、2年前に腰を痛めてからベッド上の生活が多くなり、食事も十分にとることができなくなってきていました。何度も誤嚥を起こしていたのですが、2カ月前に本格的な肺炎を起こし病院に入院しました。その後はいわゆるフレイル(脆弱)の状態となり、まあまあ安らかに息を引き取りました。

病院での看取り

 私の実家は愛知県なのですが、私自身は東京に住んでいるので、父親が弱ってから親孝行らしいことはほとんどできませんでした。要介護3だったので、ケアの資源をいろいろ利用したほうがよいと繰り返しアドバイスはしたのですが、父も母も他人に家に入られることに抵抗があったようです。

 母はもともと働き者で、私が生まれる前に美容室を開業し、何人もの従業員を養っていました。晩年は働き過ぎがたたって肩の関節を壊してしまい、ハサミを置いたのですが、父が倒れてからは1人で父の介護をしていました。

 それでもさすがに2人とも85歳を超え、立派な老老介護の状況になりました。特にここ1年くらいはさすがに介護の負担がキャパを超えはじめ、そろそろ長期療養施設への入所も現実的に考えなければならないなあと家族で相談していた矢先に、父が肺炎を起こし入院になったのです。入院後、病院も父自身も回復に向け頑張ってくれたのですが、やはり脆弱化が進行しそのまま臨終となりました。

 父は自宅から歩いていくことができる個人病院に入院したのですが、それは父と私たち家族にとって大変良い選択でした。この病院では、厳しい入院のゴールを設定されることはなく、病気の治療と生活の支援の両方を目的に入院を続けることができました。私たち家族も、父親が人生の最終段階にあることを時間をかけて徐々に受け入れていくことができました。もし市民病院のような大きな病院に入院していたら、肺炎の治癒後すぐにまた家でケアを継続するための環境を整えるための準備を始めなければならなかったでしょう。

 私自身は、いわゆる大病院に勤務する医師です。ですから、入院患者さんをケアする上では、明確な入院のゴールを設定して、患者さんが医学的なゴールに到達する見込みがついた場合には、速やかに退院への支援に取り組んでいきます。急性期病院なんだから、それは正論なんです。ただ、患者側、家族側にとってそれはあくまで病院側の一方的な理屈で早期の退院を迫られたように映ってしまう。そんなことを考えながら毎日急性期病院で診療していたのですが、こうやってフレイル患者の家族の立場にあらためて立ってみるとそれがよくわかります。


資源がない、と言ってほしい

 適切な場所で適切なケアがマクロなレベルで行われるためには、大きな病院でのケアは急性期に限られるべきです。そして、現在施設ベースで行われるケアの多くは在宅でのケアに移行されるべきだということについてはその通りだとも思います。ただ、その根拠の一部は、患者と患者家族にとって最適な環境の観点よりも、有限資源の公正な配分の規範に基づくものだと私は認識しています。だから、施設側には「申し訳ないんだけど、資源としてのベッドがないんですよ」といってほしいのです。それなら「ですよねー」と、家族としても受け入れることができます。

 医療提供者側に私が言いたいことは、在宅で患者をケアすることを負担に感じる家族を「患者にとっては家が一番なんだよ」という啓蒙的な言葉で追い込まないでほしいということです。

 介護力のキャパに余裕があれば、自宅で看たいというのが家族の考えです。一方で誰もが限られた資源しか持っていません。そして、その限られた資源の中でいっぱいいっぱいになりながら生きているのだと思います。家で家族をケアし続ける負担と、「家が一番」という正論のスローガンは「大切な家族を自宅でケア使用しない人間は冷たい人間だ」というメッセージをケアする家族側にしばしば与えます。

 ただでさえ家族は追い込まれています。そこに「患者のためにはやっぱり家でしょ?」という言葉はズーンと重くのしかかってしまうのです。啓蒙的な言葉は反論がなかなかできません。だからこそ、医療者としての自分も啓蒙的な言葉には十分注意しようと思うのです。
 父親の死に対して、息子としてひとつだけ後悔がありました。それは、病室で囲碁の相手をすればよかったということです。父親はあまり趣味らしい趣味がなかったのですが、唯一囲碁は大好きでした。私自身は囲碁も将棋も全く興味が湧かずじまいだったのですが、それでも昔は父親の囲碁に付き合っていました。

 碁盤を棺桶に入れるなどというのは茶番なのかと思うのですが、先が長くないことを自覚していた父親と、最後に碁石を交わすことができればよかったと思いました。なんか、思い残すことって、だいたいはそんなことなのかと思います。

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この記事へのコメント

とつとつと、ご家族のことをお話になっているので、胸に染みます。
皆が皆、在宅介護でないといけないとは、思ったことは無いはずでしたけど、「在宅介護はできない」と言う声はkomachiさんが仰るまでは、どなたも仰いませんでしたね。
私も66歳の一人っ子なので、家じゅうゴミだらけで、他人に見せられたものではありません。
でも、皆が「在宅介護が当然って言われるのいやだなあ」と思っていたのに言えなかったと思うと、ワルカッタナアと思いました。
長尾先生が「私も当事者と思われるけど、考えなくては」と仰ってるのが、おかしくて笑ってしまいました。

Posted by 大谷佳子 at 2015年07月28日 12:46 | 返信

脆弱な患者さんが、家に帰りたいと思っている時に、介護を期待されているご家族が同じくご高齢だったり、脆弱とは言えないまでも病気がちであれば、それを全面的にバックアップしてくれる介護保険体制があればよいのですけど、実際には「女の家族が居てはんねんから」と言われて、身体介護(入浴介護)のへるぱーさんは来てくれますけど、生活介護ヘルパーさんは、別に有償(交通費)ボランティアに頼まなければいけません。
ボランティアさんですから、プライバシーは守ってくれるかどうか不明です。
話は変わりますが、最近スーパーの近所の阪急鉄道の小さい低いトンネルのところでフラフラと歩いて来た高齢女性が居ました。こちら側から大きな乗用車がトンネルを潜ろうとして、高齢女性が倒れそうなので、「大丈夫ですか?危ないですよ」と声をかけました。お婆さんは青い顔をして電鉄の土手の石垣にもたれています。私がニッコリ笑って「こっちにいらっしゃい」と声をかけると少し表情が和んで私に話かけました。ご主人が、亡くなって一人暮らしていたら、最近息子夫婦が同居してくれた。喜んでいたが、嫁が何故か段々不機嫌になって、朝昼晩の食事を作ってくれるのだけど、黙って何の言葉かけもなくテーブルに料理を、置くだけ。最近は、おばあさんが言いもしない事を仕事から帰った息子に言いつけた。
すると息子が母親の言い分も聞かずに、妻の言いなりになって母親を口汚くなじった。
「私の言いもしない事を嘘をついて言いつけて、私が叱られて悔しい...。」と手で口元を覆うのですけど、嗚咽が漏れてしまう。私が、気の毒にと思ってみていると、ハッと気が付いたように泣くのを止めて「デイサービスにも行ったけど気の合う人もいないし、毎日こうやってスーパーに来て、友達に会っては愚痴を聞いてもらうしか仕方がない」とため息をつく。
どうやら息子夫婦は、急きょ親と同居したが、嫁は姑の幸福な長寿を願っているわけではなさそうです。息子も狭いアパートにいるより相続税対策で同居を選んだものの、母親の味方をして嫁に逃げられたら大変と思うのか嫁の味方しかしない。
在宅で親をみているといっても、親のしてみれば地獄の思いです。
「車の往来も激しいから、早く気を付けておうちに帰って下さい。また会いましょう」と言ったら「また会いましょう」と答えて下さって別れました。
私の母は、はたして私と同居して幸せなのだろうか?と暗澹たる気持ちでした。

Posted by にゃんにゃん at 2015年07月28日 11:24 | 返信

介護施設は人手不足でスタッフにも余裕がないのか、DVや劣悪介護の問題が増えている気がします。
さりとて「自宅で終末期介護・看取りをするのがスタンダードでしないのは逃避行為だという昨今の介護ファシズム的な空気感にも違和感を覚えます。そういう空気感が介護者を疲弊させている印象を感じます。日本独特の不健康長寿化の副産物とはいえ、そろそろ欧州のような消極的医療を導入することを考えないとこのままでは医療も介護もエンドレスで全部パンクしそうですね。

Posted by 関東実践医 at 2015年07月28日 05:51 | 返信

人生の最終章…
あなたは どうしますか〜?っていうことですよね

「ご自由にどうぞ〜」って決めれるといいですねー
にんげんって たいへんです

Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2015年07月28日 10:35 | 返信

年寄り抱えている人は、みんな「捨て身」だと思います。

地域性もあると思いますが、長尾先生のこれまでの文章の端々から、(熱烈な信者という意味でなく)仏教や神道的な思想背景を感じていました。ゆえに、長尾先生がブログにも実際に書いておられたように「赤ちゃんの時におむつを替えてもらった親が年取ったら子供が世話するのは当たり前」といった発想から、長尾先生が逃れられないのは、仕方ないなぁと、思っていました。
しかし、同時にそれが、「医師兼思想家 長尾和宏の限界」であり、この方はこの線を乗り越えられないだろうとも。

親の面倒を看なくていい立場の人ほど、「家族による直接介護」を美化する傾向にある、それは、自分は家族という名の老人から解放されている優越感と自責の念とが、入り混じっていると思います。家族という名の老人と離れて暮らしていると、その狡猾さを知らずに温和なオモテヅラに惹かれてしまう人が多い。

私は、捨て身です。
母が先に逝き、絶対に一つ屋根の下にいっしょに暮らしたくない父が残りました。
私が自分の老後のためにと思って、金のかかる趣味も友人も持たずにこつこつ貯めたおカネを全部吐き出して家も処分すれば、88歳の父が100歳を超えてもなんとか施設に入れ続けることができます。
私はいつもおカネの計算ばかりやってます。スーパーで値引きになる前の食品を買うことができなくて値下がるまで待っているから時間がかかる。・・・100歳超えて105歳は・・・ナイと思うけど。

あ、もっと早く合法的に死なせる方法は、あったのですよ。今の施設ではなく前の施設に入れたまま知らん顔していれば良かったのです。医者が勝手に余計な検査をやって余計な薬を処方して看護師が強制的に飲ませますから。副作用が出てもほっとけばいい。私の責任じゃないし。・・・
でも私は、本人が希望しない医療を受けさすなんて、そんなことはできません。希望しない医療を受けない権利は基本的人権です。だから施設を移動させました。医者の専横ゆえに、施設を移動しました。

今の施設は、本人が希望しない医療行為はやらない、薬を増やす場合は必ず事前に話し合う、ことをはっきり約束してくれています。

私は、絶対に父を直接介護しません。しかし、父の基本的人権は、守ります。
現在の過剰医療から、家族という名の老人を守るって、これ、すごく疲れるんですよ。
相手は「お医者様」ですからね。「お医者様が支配する世間」を敵に回すことにもなるし。

私、半年くらい前から会う人ごとに「痩せたね」って言われます。でも特に痛みとか吐き気とか無いし食欲も普通にあるので、「大嫌いな」医者に行く気になれなくて。なんとか46キロはキープしてますが。
私が父より先に逝く場合の準備もしないといけないのかも。

家族という名の老人を抱えている人、みんな、必死なんです。

Posted by komachi at 2015年07月29日 02:50 | 返信

私の事ではないと思いますが、私は宗教的思想家ではありません。どちらかと言えば無宗教です。
お宮参りや七五三を神式で拝み、親族や友人の葬儀は仏式で執り行われれて、それに参列します。
自分が生まれ育つ過程での、そういった儀式は意識や印象が薄いですが、結婚し子育てをする中で、
古くからのしきたりを知る事となり、又このように自分の見解を文章化する時には例え易いと思う
だけの話です。
 真面目な人は哲学的に物事を考えて悩むこと、しばしばだと思いますが、名だたる仏教家に纏わる
本を読みますと、拝み祀られる偉人(仏教の開祖)であっても、元を辿れば真面目で勉強熱心な人間
なのだと理解が及びます。信仰に至らずとも学びと気付きのヒントはあると思います。

Posted by もも at 2015年07月29日 07:49 | 返信

要は、選択肢が色々あって、各自がそれぞれの事情に合わせて選べる社会がよいということですね。
育児や介護が、家庭ですべきとか、社会ですべきとか、言われると、自分の選択を否定されたような気持ちになる人が出てきます。
長尾先生は、親を費用が高い立派な施設に入れることが親孝行と思い込んでる子供に、そういうことじゃない!と言っておられる、不必要に入院させてチューブだらけにされることや、無駄に闘って壮絶死させられることに反論されているのであって、人間としてもっともだと思います。
思想的な押しつけは感じません。
私個人は、深く敬愛する父がずっと家にいてほしい、父本人もずっと家に居たい人なので、最後まで在宅派ですが、親子関係や環境や、色々ありますから、人それぞれですね、、
介護が大変なもの、ややもすると嫌なこと、家族だからと苦労せずにさっくり施設でプロに任せるとよい、という風潮には、私は異論があります。
私にとって介護とは(介護とさえ思ってない)、神様がくれた贈り物。
これまで元気だった父にはプライベートな範疇にまで近づくことなど絶対にできなかったのに、父の身体が不自由になったことをきっかけに、手足をさすり、生活動作を介助し、身体に直接触れるようになりました。
父は、プライドがあるだろうに、私が触ることを許して、受け入れてくれます。
父の手足に触れて、これ以上ない、至福の時です。
心の底から満たされ、悲しいけど、幸福です。
もし、これが最愛の父でなくて、他の人だったならどう感じるかな?
相手の性格にもよるけど、私は、他の人にも、望まれるならば同じように手足をさすり、爪を切ったり着替えや食事を手伝ったりしたい。
本来自分でできていたことを人にされなければならないという、尊厳の問題を考えると、プライバシーに介入してる状況には悲しさも感じるけれど、人間持ちつ持たれつなのだから、いいじゃないか。
介護という言葉の響きは好きでないけど、実際、人との接触に深い精神安定が得られる、満ち足りた幸福がありますよ。
人の肌の温かさは最高ですよ!面倒とか嫌とか、そんな世界ではありませんよ! 

Posted by ありが at 2015年07月30日 11:40 | 返信

 先日、母を在宅で看取りました。
 ヘルパーと看護婦の事業所と、訪問医療専門の医師。どちらもよくやってくれたと思っていますし、このスタッフでなければ、末期癌の母をもっと早い時期にホスピスに入れていたと思います。
 兄弟と一緒に介護しましたが、まるで綱渡りのようでしたが、ともかく最後まで家で看取りました。
 終わってみて、おそらくとても理想的な環境だったと思います。広めの持ち家があったので、広い母用の病室を確保できたこと。介護スタッフも事業所総出で来てくれて、1日3回のヘルパーの介助と、毎日1回から2回の看護婦のケア。医師も最後には毎週来てくれましたし、看護婦は24時間体制でしたから、夜間でも呼べる契約でした。まるで我が家は病室のようでした。
 が、それでも思います。在宅介護とは、決して良い選択とは言えないと。
 まず、在宅介護は、特に末期にはナースコールのない病院に老人を入院させているようなものです。契約では夜間でも看護婦も医者も呼べます。でもコールしても20分から1時間は待たなければならず、緊急には間に合いません。在宅看取りをするからには救急車は呼べませんし、何より、自宅で死なせることが目的の介護なのですから、死にそうになったからと言って、家族があたふたして助けを求めることは、そもそも想定されていないのです。これはやってみるとわかります。そもそも、ヘルパーが介助できない症状の患者は在宅介護できません。と言う事は、家族がいれば、必ず介助できる状態であり、また、それ以上のことはしないのが在宅です。となれば、何が起こっても、夜看護婦を呼ぶ必要はないわけです。と言う事がわかってきます。このシステムが、それを要求しているのです。
 実際半年介護して、看護婦を時間外に呼んだのは、末期に4回ほど。そのうち1回は、亡くなったので呼んだのです。医師に関しては、時間外コールはなくなったときだけです。
 まあ、そうでなければ、現在の訪問医療体制は維持できませんけどね。
 基本的に日中のケアは計画されており、我が家の場合はその辺は結構手厚くやってもらいました。その分経費はかかりましたが、もっともお金のかかった最後の1ヶ月でも20万円ほど。それ以前は毎月3万円ほどの負担でしたから、金銭的には施設に入れるよりずっと安価です。でもそれ以外のほとんどの時間は本人だけ。母は独居でしたから、最後の1ヶ月以外は、1人で家で過ごしました。
 夜間、トイレに行こうとしてうずくまってしまったときも、ポータブルからベッドに戻れなくなったときも、母は1人で何時間も待たなければなりませんでした。在宅介護とは、何より本人に一番負担のかかる介護法です。それでも家にいたいという本人の強い意思がなければ続きません。もちろん家族が同居すれば不安は軽減されますが、その分、家族の負担は増えます。もし最初から同居だったら、最後まで看取る前に、私達の方が倒れていたかもしれません。母がぎりぎりまで独居で頑張ってくれたので、子供の負担が軽く、なんとか最後まで持ったというかんじです。
 その母も、最後には自分からホスピスを希望しました。思うようなケアは無理だと悟ったようです。でも、あとひと月とわかっていたので、子供が交代で泊まり込むことを条件に家で留まってもらいました。でもそのことが、母の負担をさらに大きくしたのではないかと今は思います。
 介護は、いずれにしても、介護する側の自己満足につきてしまう側面があります。看取ったとき、ヘルパーにも看護婦にも医者にも、ケアマネにも、「よくやりました」と褒めてもらいました。でも本当にそうだったのでしょうか。
 母は末期癌で、最後には痛み止めが効かなくなりました。しかし、薬の量を増やせば、眠っている時間を延ばすことができ、その間は痛みから解放されるはずでした。医師はそれを認めてくれましたが、看護婦は、「それならばホスピスと同じだ」と言いました。薬を軽減して、その分意識レベルを保ち、家族との時間を確保するのが在宅であると。それが理想の在宅介護、在宅看取りの姿なのだそうです。もしホスピスに送っていれば、延命の点滴をやめていれば、母は2週間ほど早くなくなったと思いますが、その分苦しみも短かったと思います。介護する子供の願いを叶えるために、母は苦しみを長引かせたのでしょう。実際最初から介護していた私から見れば、2週間くらい早く亡くなっても、別に後悔はなく、むしろ母を苦しみから解放できた方が良かったのではないか後悔しています。
 明確な目的がある場合は別ですが、末期になり、苦しくなり、状態が悪くなれば、どの人も楽になりたいという気持ちの方が強くなります。実際、最後に延命のための点滴を止め、嚥下機能を保持するためとして、看護婦が無理に食べさせていた食事をやめた後、それまでとは比べものにならないほど穏やかになり、静かに眠るようになりました。自然に抗わない方が楽なのかもしれないと思った瞬間です。
 ナースコールのない病院に入院させる在宅介護は、家族にとっても不安と負担で押しつぶされそうになるし、本人も不安と苦しさに苛まれます。トイレに自分で行けるうちは、在宅は施設や病院、ホスピスより自由度が有り、住み慣れた家での生活がありますから、選択する価値があるのですが、トイレに行けなくなる頃の高齢者は、全身症状も落ちて、あえて自宅にいる理由がわからなくなります。それなら、数分で看護婦が飛んできてくれる施設の方が良いのではないか。そこに家族が泊まり込む方だ互いに楽なのではないかと思います。
 もちろん、施設の選定は色々問題もあり、お金もかかり、その点では難しいのですが、それは逆に言えば、在宅介護のもっとも大きなメリットは、施設に入る経済的余裕のない人に、多少なりとサポートをつけて、施設に近づけたケアを確保するという事ではないのかと思います。その意味では確かに現実的な選択だからです。
 これからは、在宅しか選べない高齢者はもっと増えてくるでしょうし、お金の問題だという事を明確に現してくれるなら、あり得る政策だと思いますが、現在国はまるでバラ色の介護形態が在宅であるかのようなアナウンスを繰り返しており、とても作為的で嫌だなと思います。

 在宅看取りを終えて、思った事は、例え親の介護を拒否するためであっても、施設に入れて一度も会いに行かなかったとしても、それは決して悪い選択ではなく、他人にとやかく言われるような選択ではないという事です。真逆にある在宅看取りであっても、同じように良い選択とは言えないし、結局は、介護する側のエゴの1つの形でしかないからです。だったら、施設に放り込んで専門家に任せたって、それほど大きな違いはないのではないかと、思うようになりました。
 たぶん多くの人はその間で悩むのでしょうけれど、人の言うことなんか気にしないで、自分と家族と高齢者の状況だけを考えて、自分が病気にならないようにすること、兄弟が喧嘩しないようにすることが一番だと思います。
 ちなみに私は、ここ7年ほど両親の介護をして、身体を壊しました。成り行きでこうなったのですが、選択として賢いとは思えません。

Posted by fujimoto at 2018年01月26日 02:23 | 返信

コメントをなさった方に、本来、反応する私ではないのですが、
fujimotoさんの心情を吐露する文章を読ませて頂きまして
「核心をつぃておられる」と同意いたします。
病院であれ、介護施設であれ、「心ある居場所」さえ見つかれば
穏やかで、納得のいく最期を迎えることは可能だと思います。

Posted by もも at 2018年01月29日 10:31 | 返信

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