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「管理」からの卒業

2015年08月09日(日)

先日、カラオケボックスで久々に尾崎豊を何曲か熱唱した。
なかでも「卒業」という歌が好きだ。
「管理からの卒業」のために、私は書き、歌い、生きている。

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「管理」からの卒業
 

 
「管理」が認知症を悪化させる

 老人はいつの時代からか「管理」される存在になった。いや、正確に言うと医療保険や介護保険のお世話になる限りは、「管理されること」を甘受しなければならない。病院に入院すると、1日に何度かバイタルサインをチェックされる。介護施設に入所しても同様。デイサービスや訪問入浴でさえ、「管理」の下で行われる。この世に「管理」がある限り、必ず「管理する側」と「管理される側」に分れる。管理職と労働者の関係と同様に、そこには必ず上下関係が生まれる。こうしてできあがる「上から目線」は、必ずジワジワと別の問題を生み出す。
 
 もし認知症の人を上から目線状態に晒したらどうなるか?不安、徘徊、怒り、暴言など、いわゆる周辺症状と呼ばれる症状が出るはず。それを見た管理する側は、「それみたことか」とさらに管理を強化する。身体拘束や抑制や鎮静である。「管理」した結果の症状に対してさらに管理を強化することは、なにひとつ当事者を利することはない。しかしその理不尽さに気がついている“管理者”は、まだまだわずかだ。私に言わせれば、それに気がついていない管理者こそ、本質を認知する能力に相当の課題がある、と言わざるを得ないのだが。

 では、管理をしなければどうすればいいのか。「自由」にさせてただただ「見守る」ことだ。よほどのことが起こらない限り、“放置プレー”でいい。“放牧”でいい。ただし横からしっかり見守っていればいい。しかしヨチヨチ歩きの赤ちゃんの見守りはできても、ヨチヨチ歩きの高齢者の見守りができる専門職は、日本にはそう多くはない。なぜなら「管理」したほうがずっと簡単で、自分が楽だからだ。
 
 2000年以前は、介護保険制度なんてものはこの世に無かった。「措置の時代」と呼ばれていたが、今ほどに「管理」という言葉も意識も無く、ずいぶんおおらかな時代だった。介護保険ができてからケアマネジメントという概念が導入され、「管理、管理」となった。確かに管理しましたよという証(あかし)を、しっかり記録に残すことこそがいい仕事になった。人を看ることより、人を管理することが医療職・介護職の仕事に変容した。
 

“自由”が残っているの施設とは

 人はなぜ生きるのか?何のために生きるのか?そんな答えが出ない命題にも真剣に向き合った時期が誰にでもある。青春時代は、過ぎてから分るもの。しかし人間は人生の後半になればなるほど、そんなことを考えなくなる。考えても意味がない。私自身も57歳になり、もうそんなことを考えることがほとんど無くなった。しかし「もうすぐ死ぬのに、何のために生きているの?」と問われたら、なんて答えるのか。きっと、「良く分からないけど、自由を楽しむために生きているのかなあ」と答えるだろう。
 
 私は幸か不幸かまだ牢屋に入った経験が無い。あまりの忙しさに、どこか静かな場所で粗食に読書三昧したいな、なんて想う時がある。「じゃあ、牢屋がピッタリじゃないか」と、誰かに言われた。それを聞いてから、もし機会があれば1週間でも牢屋生活をするのも悪くないかも、なんて想像する。しかしよく考えれば、牢屋に入るとは、「移動の自由」を奪われること。囚人服を着せられて看守に見張られたら、どれほどのストレスかかかるのか。きっと想像以上のストレスがかかるのだろう。
 
 しかし考えてみれば「病院」という場所も牢屋とそれほど変わらない所。病人着を着せられ、手錠の代わりに腕輪を付けられ、時間が来れば機械的に病人食を食べないといけない。寝る時間も起きる時間も看護師という看守に監視されている。どこまでも牢屋と似ている。ただ病院が牢屋と決定的に違うのは、管理されることを我慢した結果、病院では「病気を治してもらえる」という御褒美がもらえる点。素晴らしい果実が待っているからこそ、辛い監禁生活にも耐えて耐えて忍んでいるのが大半の入院患者さんだ。しかしもし、その御褒美が無かったらどうなるのか。
 
 期待した成果が出なければ、「落胆」という新たな大きなストレスが生まれる。それでも「管理」というムチが容赦なく入るのが病院という場所。病院という場所は、それほど一人の人間の自由を奪いながらも奇跡を期待させる場である。
 
 さて、話を介護施設に移そう。元来、施設とは病院と違って自由で楽しい場所だった。しかし2000年以降、施設も医療の悪い面を後追いしている気がしてならない。つまり介護も「管理、管理」の世界に年々なっている。大病院の看護師は1日中、看護記録を書いているように、施設の介護士も介護記録に追いまわされて、本来の業務に手が回らないところがある。そこに厳しい人手不足が重なり、大変なことになっている。
 
 そんな介護施設の中で、唯一「管理」と縁遠い場所がある。それは小規模多機能だ。宅老所と呼ばれていたものが介護保険制度にのり8年が経過した。利用者にとって一番自由で使い勝手のいい、居心地がいいのが小規模多機能だが、思ったように増えていないことは大変残念でならない。増えない最大の理由は、あまり儲からないから。こぶし園の故・小山剛さんは、「長尾先生、小規模多機能は上手くやれば黒字になるんですよ」なんて笑っていたが、現実には経営は厳しい、と聞く。

 それにしても一番儲からない施設が一番楽しい介護、もっと言うならば質の高い介護を実現できているという現実は不思議な話だ。もしかしたら我々の青春時代のように貧乏だから自由であり、管理から遠いので楽しめるのかもしれない。当院の近くにも小規模多機能があり、独居の認知症の方が何人かお世話になっている。ここに入るとみるみる元気になる。普通の生活を見守るだけの人がいるからだろう。ここはいつ訪問しても、「笑顔率」が高い。介護スタッフからの電話が少ないのも、この小規模多機能だ。実は小規模多機能は正確には介護施設ではなく「機能」であることは指摘しておかねばならない。

 
小規模多機能と地域包括ケア

 地域包括ケア時代に必要なものは、ひとことで言うと「管理からの卒業」ではないか。歳を取り、認知症が出て、一人で歩けなくなっても、もし足りないところだけを補ってくれる人がいれば住み慣れた地域で普通に生活できる。自由に食べること、移動すること、排泄すること。それに必要な“機能”こそが、小規模多機能だ。なにより地域に密着している。その最大の特徴は、介護報酬が包括制だが、これは病院のDPC制度とどこか似ている。
 
 さらに言うなら地域包括ケアとは、街全体を小規模多機能化することだ。ちょっと分りにくいかもしれないが、中学校区がひとつの小規模多機能化していく。いや、そうなると“大規模多機能”と言ったほうがいいのかもしれない。そしておそらく近い将来、地域でパイを奪い合うのではなく、パイを分け合う時代になるはず。出来高から包括制への移行は必至である、と個人的に考えている。

 そうなると、“小規模多機能”というヘンテコな名前はもっと親しみ易い名前に早く改名して、各地域にもっともっと増やさないといけない。いや、医療政策的には既存のサービス付き高齢者向け住宅を、小規模多機能へ転換したほうが早いかもしれない。そして、有料老人ホーム、グループホーム、療養病床にまで「管理からの脱却」が広がっていけばいい、と夢見ている。
 
 さきほど「管理からの卒業」と書いたが、この言葉を理解できる医療者がどれだけいるのか。個人的にたいへん興味のあるところだ。私の勝手な推測では、おそらく1%もいないのではないか。骨の髄まで「管理」が沁み込んでいる中堅以上のスタッフにはどう説明しても理解できないだろう。しかしだからこそやり甲斐があるのが、地域包括ケアである。

 こんなことを書くと、専門志向のお医者さんや看護師さんは益々混乱するだろう。怒り狂う医者もいるだろう。しかしそれを書くのが自分の仕事だと思っている。20年後、今日ここに書いた文章が、医学の教科書に載る日まで、そんなことを言い続けたい。

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この記事へのコメント

今日も暑かったですね…

精神看護訪問にも 伺っています
看護師という職業が つい お薬 飲んでますか?と聞きたくなっちゃいます
ぐ〜っと我慢なんです
訪問に伺っている30分〜1時間を 一緒に過ごすことをことを心掛けています
何かをしてあげようなんて…それは 傲りですよね

Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2015年08月09日 09:35 | 返信

尾崎豊世代を語るには少し年増ですが、彼が不慮の死を遂げてからは世代を超えてファン層を
広げた伝説の人"和製ジェームスディーン"。うら淋しい歌詞のようでいて、若いエネルギーと未来を
感じます。「卒業」の歌詞の中に「管理からの卒業」とあります。私は「15の夜」が好きです。
「なんてちっぽけで意味のない、なんて無力な15の夜」「自由を求め続けた15の夜」と思春期の思い
のようでいて、終生に渡り人が思い続けるテーマであるような気もします。

Posted by もも at 2015年08月09日 10:29 | 返信

長尾先生、「措置」がまだ生き残っている世界があります。
養護老人ホームです。
小規模多機能が成立するためには、住む場所があるのが大前提。養護の対象となる人にはそれがありません。
必然的に施設での生活と相成ります。
となれば、管理管理の施設生活です。措置権者は行政ですから推して…。

小規模多機能は自由な感じがします。養護から見ると理想的な援助環境に思えます。
養護も地域包括ケアに溶け込ませられないかなぁとあれこれ夢想しています。

ま、夜が明ければまた現実に引き戻されますが。
目指すは、「養護の小山剛先生」。
身の程知らずです。でも理想は高く。

Posted by 小太郎 at 2015年08月10日 02:24 | 返信

 NHKの福祉番組:ハートネットTV 戦後70年シリーズ「児童養護施設 舞鶴学園」を偶然視聴
しました。たくさんの戦争孤児のための対策として設立された、京都の舞鶴学園の歴史を見ながら
長尾先生が纏めて下さった、この "介護施設の現状と小規模多機能への転換" を提案された内容が
そのまま映像化されたような番組でした。戦後の混乱期に孤児を収容するのは、子供のためでもあり
社会からの隔離の意味もあったと、有識者が解説していらっしゃいました。100人もの子供を統率
するためには体罰も止む無しの時代が続いていた、ともありました。
 現代の介護福祉施設も大なり小なりコンセプトはこれと一緒だと、視聴しながら思いました。
舞鶴学園の現施設長が語っていらっしゃいます。そして、歴史を振り返り、また子供らの養育に長年
携わる御経験の中で、現在の舞鶴学園の敷地にはまさに小規模多機能な住宅が建設されていました。
施設に入所なさっていた卒園生が、学園の存在を「家庭である」と語っている事が印象的でした。

Posted by もも at 2015年08月10日 08:57 | 返信

有料老人ホームに入所中のおばあちゃまのバルン交換の依頼で初訪問看護に伺った

1日5回 ヘルパーさんが入るらしい
おばあちゃまに どこでご飯を食べるの〜?って聞いたら ここよ
車椅子に 乗るの〜?って聞いたら 乗ったことがない
んんん〜?部屋の周りを見渡して見たら 車椅子はなかった

24時間 ベッドでの生活…
わたしだったら イヤですね
なんとかしたい

Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2015年08月10日 11:02 | 返信

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