- << 抗認知症薬の開始時期
- HOME
- 近藤誠医師は医師法違反!? >>
このたびURLを下記に変更しました。
お気に入り等に登録されている方は、新URLへの変更をお願いします。
新URL http://blog.drnagao.com
小松秀樹先生の地域包括ケア論
2015年10月31日(土)
日本中、どこへ行っても「地域包括ケア」なのだが、
なんのことかサッパリ分からんという人も多い。
小松秀樹先生が、MRICに3回に分けて書かれた。
なんのことかサッパリ分からんという人も多い。
小松秀樹先生が、MRICに3回に分けて書かれた。
小松先生の文章は難解で有名。
頭が良すぎる、とよく言われている。
小松先生から先日、著書が届いた。
「地域包括ケアの課題と未来」
時間のある方にどうぞ。
**************************************************************************************************
『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (1) : 出版にあたって
この記事は Socinnov Blog(http://www.socinnov.org)からの転載です。
小松秀樹
2015年10月3日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
---------------------------------------------------------------------
2015年8月末、『地域包括ケアの課題と未来―看取り方と看取られ方』(ロハスメディア)がやっと出版までこぎつけた。映像シリーズ制作が主目的で、本書はシナリオを書籍化したものである。この話が持ち込まれて以後、次々と障害が立ちふさがり苦労の連続だった。
妨害のため、映像シリーズのDVD化と地域包括ケアの規格化プロジェクトは、断念せざるを得なくなった。本だけは何としても世に出したいと考え、法律家、出版社を交えて協議し、出版妨害を避けるための方法を考えた。
映像シリーズ、書籍の内容ともに、特定非営利活動法人ソシノフのウェブサイトhttp://www.socinnov.org上に公開していくので是非ご覧いただきたい。また、編集にあたって、筆者が考えたことを書き綴っていく予定である。地域包括ケアについての理解が、より多元的に、かつ立体的になれば幸いである。
地域包括ケアは高齢者対策として議論されている。しかし、日本では格差が広がり、高齢者以外にも、社会からの支援を必要としている人が増えている。健康問題も高齢者に限ったことではない。バブル崩壊後、経済停滞が続き、国には莫大な債務が積み上がっている。本書では日本の社会状況を俯瞰することから議論を始めた。地域包括ケアの対象、提供すべきサービスについては、想定をできるだけ広げた。章立ては、地域包括ケア全体を考える基本的な枠組みを意識して作った。当然だが、貧困と健康についてもプログラムに組み込んだ。
日本の国力が衰える中で、ケアの恩恵の総量を最大にするだけでなく、ケアを日本の将来の発展につなげなければならない。限られた資源を有効に活用するためには、地域包括ケアを社会全体の中で位置づけ、ケアの優先順位を考え、その選択を政治プロセスに乗せる必要がある。
社会保障費が抑制される中で、生活保護一歩手前の生計困難者は社会の支援の外に押しやられがちである。2014年9月、千葉県銚子市の県営住宅に住む母子家庭で、母親が無理心中を図って、13歳の中学生の娘の首を絞めて殺すという悲惨な事件があった。
以下、2015年6月12日の朝日新聞digitalから引用する。
「給食センターでパートとして働き、児童扶養手当などを合わせても、月の収入はおおむね11万~14万円。時期によって極端に少ない月もあった。2012年途中から家賃を滞納。可純さんの中学入学の準備のため、13年2月ごろヤミ金に手を出した。可純さんにはバレーボール部のジャージーやシューズ、アイドルのグッズなどを買ってあげた。強制執行日の昨年9月24日朝。同じ布団で寝ていた可純さんの首を、はちまきで絞めた。数日前にあった体育祭で可純さんがしていたものだった。地裁支部の執行官らが室内に入ったとき、被告は可純さんの頭をなでながら、体育祭で活躍する可純さんの映像を見ていた。」
この事件は、犯罪として処理されたが、精神的ならびに肉体的健康の問題でもある。県住宅課は母子の生活の困窮を知る立場にあった。利用可能な支援制度について積極的に情報提供をしなかったばかりか、司法を利用して追い出そうとした。母親は、銚子市役所の社会福祉課には一度相談に訪れたが、その後相談はなかったという。日本の役所の福祉の窓口は、申請主義を盾に、しばしば弱者に冷淡である。
現在の日本では、こうした母子家庭より、高齢者への支援が手厚い。地域包括ケアの対象に母子家庭は含まれていない。2010年の後期高齢者医療制度の総医療費は患者負担を含めて12兆7000億円だった。一方で2013年度の文教予算は5兆4000億円に過ぎない。75歳以上の高齢者の医療費に、研究費を含む全文教予算の2.5倍の金がつぎ込まれている。日本は、教育への公的支出の対GDP比が先進国の中で最低である。しかも、こどもの貧困率が上昇し、2012年には16.3%に達した。経済格差は教育格差を生み、教育格差は将来の経済格差を生む。貧困が世代間で継承されることになる。
医療費には節約できる部分がある。高齢者への多剤投与は、無駄であるばかりか危険でもある。最近発売されている抗がん剤は、効果が小さい割に、極めて高価なものが多い。
2014年度、薬剤売上ランキングのトップは、抗血栓症薬プラビックスの1288億円だった。1人1日分282.7円で、同じ目的で使われるバイアスピリン5.6円の50倍である。値段差は大きいが、心血管イベントの予防効果の差はごくわずかでしかない。薬価と効果の差を説明することを前提に、バイアスピリンとの差額を患者負担にしてはどうか。
進行前立腺がん患者に使われるジェブタナという薬剤は、1バイアル60万円で3週間に1回投与される。ほとんどの患者に有害事象が発生する。ジェブタナ投与群の生存期間の中央値が15.1か月、対照群は12.7か月とその差はわずかである。厚労省は、このような薬剤まで保険診療で使用することを認めている。
高価な新薬の多くが外国で開発されているので、医療費として使われた金が外国に流れる。その分、高齢者の生活を支えるための人件費が削られる。ジェブタナを保険診療から外して、混合診療で使えるようにしても問題は生じない。
日本では、出生率の低い状況が続いている。働き手は継続的に減少し続けるが、戦後のベビーブームの影響で高齢者は当面増加し続ける。現状のまま推移すれば、2053年、日本の後期高齢者数は最大になり、2010年の1.70倍になる。一方で、20歳から64歳の働き手は2010年の59%に減少する。将来の働き手の人口を増やし、収入を高めなければ、日本社会は到底維持できない。子育て支援と教育への投資は、将来の高齢者対策でもある。
***************************************************************************************************
『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (2): 猪飼周平「地域包括ケアの歴史的必然性」を語る
小松秀樹
2015年10月17日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
---------------------------------------------------------------------
猪飼氏は、2010年に出版した『病院の世紀の理論』(有斐閣)で、イギリス、アメリカ、日本の医療システムを比較しつつ、独創性の高い議論を展開し、医療が医学モデルから生活モデルに大きく転換されようとしていることを説いた。
猪飼氏は、19世紀までの西洋医学は、「患者を治すという点でたいしたことはできず、その中で経験的に患者の苦痛を和らげる手段が用いられたり、食事や休息が与えられたりする、それが医療システムの基本的な姿」であり、「いわば福祉システムの一種」だったとする。20世紀に入り、一部の病気が治療可能になった。以後、多大な期待と共に、医療の目標が患者を医学的な意味での治癒に導くことに変化した(医学モデル)。
1990年代以降、福祉領域の後追いをする形で、ケアに対する社会の期待が、医学的な意味での治癒から、患者の生活の質を高めることに変化してきた。「医療システムは、患者の医学的治癒を目的とするシステムから、患者の生活の質を支えるシステム(生活モデル)へと変貌するように、社会的圧力」を受けている。
今後も、医学モデルはケアの一つの選択肢として残るが、全体に占める割合が小さくなる。
『病院の世紀の理論』の記述の多くは、基本的に過去についてのものであるが、大胆にも近未来も予測している。すなわち、病院の世紀の終焉の後に生じる事態について、以下の6項目を挙げている。
1.「健康」の概念が「病気と認められないこと」から「心身の状態に応じて生活の質が最大限に確保された状態」に変わる。医学モデルでは、病気の明確な定義が、診断や治療の背景にあった。ところが、生活の質は人それぞれに違っている。本人を含めて、何が良いのか厳密に知っているものはいない。新しい健康概念とは、多様性と不可知性を含み込んだ概念にならざるをえない。健康の明確な定義はもはや存在しないということになる。
2.予防を含めて、保健サービスの役割が大きくなる。時代の中心となる生活習慣病が基本的には完治しないため、治療の期待を引き下げ、治療以外のアプローチの相対的な位置を引き上げる。予防によって、病気に罹らずに健やかにすごせる期間(いわゆる「健康寿命」)と寿命のギャップを短くすることができれば、高齢者の生活基盤の充実に資することになるといえる。
3.保健(予防)・医療・高齢者福祉が、一つの目標の下に包括的ケアとして統合される。
4.健康を支える活動の場が、生活の場に近くなり、医療が人々の固有の価値・ニーズを理解するための情報収集に重きを置く活動へと変わっていく。
5.ケアの中心が、病院から地域に移行していく。生活を構成する要素が、圧倒的に多岐にわたるため、病院だけではサービスを供給できない。
6.ケアの担い手が医師を頂点とする階層システムから、多様な職種や地域住民とのネットワークに移行する。
筆者は上記6項目のほとんどに賛成するが、医師としての実感として、生活習慣病の予防のための保健サービスに、効果が期待できるとは思えない。さらに、予防によって「健康寿命」と寿命とのギャップを短くすることができるとは思えない。ギャップを短くすることが可能だとすれば、予防を含む保健活動ではなく、適切な条件が満たされた場合に、以後の治療やケアを控えることぐらいだろうと想像する。実際、北欧で寝たきりが少ないのは、自分で食事を摂取できなくなった時は、死に時だと多くの人が考えており、食事介助が一般的に行われていないからだと聞いた。
もう一つ、『病院の世紀の理論』には、病院の世紀以前の日本の病床について、注目すべき記述があった。全病床の統計が初めて出そろった1913年、「伝染病床」や「娼妓病床」など「特殊病床」が治療目的の一般病床よりはるかに多かったことである。伝染病床だけで、全病床の72%も占めていた。「特殊病床」には他に「結核病床」「癩病床」があった。これらの病床は社会防衛が目的であって、「収容された者にとっては、むしろ生命の危険が増大した。」入院は「本人の希望によって行われたのではなく、日本の場合、特に警察権力を背景とする強制力によって行われたのである。」
現在の日本国憲法では、個人の権利は、公共の福祉に反しない限り、最大限尊重されなければならない。人権の制限はギリギリの利益衡量の中で行われる。
国連は、公益目的で人権を制限する場合の詳細な原則(シラクサ原則)を定めている[1]。WHOは、薬剤耐性結核の対策で人権を制限するには、シラクサ原則に含まれる5つの基準全てを満たす必要があるとしている[2]。
1.人権制限は、法に基づいて行使される。
2.人権制限は、多くの人たちが関心を寄せる正当な目的の達成に役立つ。
3.人権制限は、民主主義社会においては、目的達成にどうしても必要な場合に限られる。
4.目的を達成するのに、強要や人権制限が、必要最小限にとどまるような方法を採らなければならない。
5.人権制限は、科学的根拠に基づくべきである。独断で決めてはならない。つまり、合理性を欠いたり、差別的だったりしてはならない。
日本の医療行政は歴史的に管理色が強く、安易に人権侵害に手を染めてきた。ハンセン病患者の生涯隔離政策は、医学的正当性を失った後も50年近く継続した。2009年の新型インフルエンザ騒動では、WHOが反対声明を出す中、科学的根拠のない検疫と停留措置を行った。戦前、警察、医療・保健行政に区別がなく、内務省に所属していたことが影響しているのではないか。
2012年のインフルエンザ特措法が、内閣府の警察官僚主導で制定されたのも、こうした歴史的経緯に由来するのだろう。同年10月12日に開催された日本感染症学会の緊急討論会で、法案の制定で日本感染症学会には相談がなかったこと、日本感染症学会所属の専門家の多くは、インフルエンザ特措法に問題があると考えていたことが明らかになった。
歴史的に、医系技官とくに感染症に関係した官僚たちは、上意下達のピラミッド構造を望み、他の分野でもそれを進めようとしがちである。
地域包括ケアの推進には現場のニーズを、現場に近いところで、多様な職種が直接認識するネットワーク構造が適していることを強調したい。
文献
1.United Nations, Economic and Social Council, U.N. Sub-Commission on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities: Siracusa Principles on the Limitation and Derogation of Provisions in the International Covenant on Civil and Political Rights, Annex, UN Doc E/CN.4/1984/4, 1984. https://www1.umn.edu/humanrts/instree/siracusaprinciples.html (2015.10.10).
2.WHO Guidance on human rights and involuntary detention for xdr-tb control. http://www.who.int/tb/features_archive/involuntary_treatment/en/index.html (2015.10.10).
********************************************************************************************
『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (3): 小松秀樹「人口の変化と社会保障」を語る
小松秀樹
2015年10月31日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
---------------------------------------------------------------------
日本では、合計特殊出生率が低い状態が長期間継続している。今後、一貫して出生数が減少し続ける。このため、20歳から64歳の現役世代が減少し続ける。
問題は社会保障である。人口の大きい団塊世代、団塊ジュニア世代が高齢化していく。65歳以上の高齢者人口がピークになる2042年には、1人あたりの負担を固定して単純計算すると、高齢者1人あたりの社会保障給付が2010年の3分の1程度になる。2057年には後期高齢者人口が前期高齢者の2倍を超え、状況はさらに悪化する。社会保障制度に頼る人がいる状態で、給付が減らされると、適応できない人が増えてくる。対応を誤ると餓死が日常的現象になる可能性がある。
近年、「2025年問題」という言葉が使われているが、2025年に問題が生じる、あるいは、2025年に最悪の状態になり、その後改善されるという誤解を与えかねない。2025年は通過点にすぎず、状況はその後も悪化し続ける。筆者が直接見聞した限りでは、中央官庁のキャリアは、国立社会保障・人口問題研究所の推計が示す絶望的世界を正しく認識している。しかし、行政もメディアも国民に正直に伝えていない。
はたして、国立社会保障・人口問題研究所の推計通りに事が運ぶのだろうか。危機が大きければ社会の側に対応が生じ、未来予測の前提が崩れる。グンター・トイブナーは「社会科学においては、将来の出来事の理論的予測はあまり流行らない。まして、予測どおりの出来事が起こるのは稀だというのが、普通である。」(グローバル化時代における法の役割変化『グローバル化と法』マルチュケ、村上淳一編)と述べている。
筆者は「人口の変化と社会保障」の中で、以下の結論を述べた。
「将来の現役世代を増やし、その収入を増やさない限り、日本の社会保障を維持するのは困難である。出生率が向上しなければ、大規模な移民を受け入れざるを得ない。移民してもらうとすれば、収入の少ない単純労働者ではなく、高学歴層でなければ、社会保障を支えるのに役立たない。起業能力のある人材が欲しいが、移民する側にとって、日本に魅力があるかどうか分からない。」
上記結論は、国民国家の枠組みにとらわれ過ぎていたと反省している。危機的状況になったとき、日本の国民国家としての在り様に変化が生じる可能性がある。危機が大きいだけに、国家と日本人の根幹部分に変化がなければ対応できない。
国民国家とは、現在の日本人が想起する「普通の国」のことである。固有の法体系によって統治され、国土、官僚群、常備軍を持ち、国民は国籍を有する。他の国家に対して利己的に振る舞う。国民の同質性を求める考え方をとることが多く、複数の民族を抱える国で、紛争の原因となった。国民国家につながる主権国家体制は30年戦争の後、1648年、ウェストファリア条約によってもたらされた。国民国家とは、歴史的には比較的新しく、きわめて人工的なものである。未来永劫継続するとは限らない。
内田樹は、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったとして以下のように主張した。http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_1230.php
国民国家とは「国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である」はずが、政府がグローバル企業を国民より優先するようになった。「日本企業」を経済戦争の担い手にしたて、「どうすれば日本は勝てるのか?」と執拗に問いたてる。企業の利益を増やすための環境コスト、製造コスト、流通コスト、人材育成コストを国家に支払わせようとする。実は、「日本企業」はグローバル企業であり、「企業利益の増大=国益の増大」という等式は虚偽である。現状は国民国家の「末期」のかたちである。
実際、大企業が儲かっていても、地方は疲弊している。地方を支えてきた公共事業は、財政赤字と過疎化によって激減した。製造業の海外移転が進んだため、地方で工場が閉鎖された。製造業が日本に残るには、付加価値の高い製品を作るか、あるいは、徹底した機械化で人員を削減しなければならない。日本では技能職より、技術職、新規ビジネス開発者、管理的事務職の役割が相対的に大きくなった。いずれも、大都市あるいは外国の住民である。大企業全体として利益が積み上がっているが、高い報酬を受け取ることのできる日本人の数は多くない。地方では雇用が失われ、過疎化と貧困化が進行している。
内田の議論には国民国家への期待が若干残るが、宮崎学は日本型国民国家そのものに現在の苦境の原因があるとする(『法と掟』洋泉社)。日本では、明治維新後、政府が、農村や都市にみられた自治組織、職能団体などの個別社会の自治を破壊し、全体社会として統合した。宮崎は、華僑の相互扶助組織と個人の強さ、たくましさを高く評価する。宮崎の結論部分を引用する。
「それぞれの国民が国民国家単位でどうまとまって行動していくか、ということよりも、それぞれの個々人が個人としてアジアの中で、あるいは世界の中で、どう独立して行動していくのか、ということのほうが、まず優先されなければならない。いま国民国家の枠が日本の社会を全体社会一本にまとめあげることによって、個別社会の、したがってまた個人の活力を発揮することを妨げている。個人と個別社会をこの枠から解放することが、1990年代以降に現れた時代の変貌の中で、最も重要な課題になっているのだ。」
明治維新後の個別社会の破壊は、中間団体を旧体制として否定し、徹底して破壊したフランス革命に似ている。フランス革命は、旧体制を嫌悪したが、旧体制のもたらした行政的中央集権をさらに強めた。旧体制以上に、思考が画一化され、多様性と自由を奪った。トクビルの記述は、日本の衰退に重なる。
「ある権威があるとする。それは、わたくしの歓楽が平穏に満たされるのを見張っており、わたくしの行く先々を先廻りして、わたくしが心配しないでもすむようにすべての危険をまぬがれるようにしてくれる。この権威はこのようにしてわたくしが通過する途上でどのような小さなとげも除いてくれると同時に、わたしの生活の絶対的な主人でもある。そしてまた、この権威はそれが衰えるときにはその周囲ですべてのものが衰え、それが眠るときにはすべてのものが眠り、それが亡びるならばすべてのものが死滅するにちがいないほどに、それが運動と生存とを独占している。」(『アメリカの民主正義』講談社学術文庫)
社会の変化は、その社会で生活している人たちが考えるより早く、激しい。現在の日本がこのまま維持されることがないことは間違いない。
頭が良すぎる、とよく言われている。
小松先生から先日、著書が届いた。
「地域包括ケアの課題と未来」
時間のある方にどうぞ。
**************************************************************************************************
『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (1) : 出版にあたって
この記事は Socinnov Blog(http://www.socinnov.org)からの転載です。
小松秀樹
2015年10月3日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
---------------------------------------------------------------------
2015年8月末、『地域包括ケアの課題と未来―看取り方と看取られ方』(ロハスメディア)がやっと出版までこぎつけた。映像シリーズ制作が主目的で、本書はシナリオを書籍化したものである。この話が持ち込まれて以後、次々と障害が立ちふさがり苦労の連続だった。
妨害のため、映像シリーズのDVD化と地域包括ケアの規格化プロジェクトは、断念せざるを得なくなった。本だけは何としても世に出したいと考え、法律家、出版社を交えて協議し、出版妨害を避けるための方法を考えた。
映像シリーズ、書籍の内容ともに、特定非営利活動法人ソシノフのウェブサイトhttp://www.socinnov.org上に公開していくので是非ご覧いただきたい。また、編集にあたって、筆者が考えたことを書き綴っていく予定である。地域包括ケアについての理解が、より多元的に、かつ立体的になれば幸いである。
地域包括ケアは高齢者対策として議論されている。しかし、日本では格差が広がり、高齢者以外にも、社会からの支援を必要としている人が増えている。健康問題も高齢者に限ったことではない。バブル崩壊後、経済停滞が続き、国には莫大な債務が積み上がっている。本書では日本の社会状況を俯瞰することから議論を始めた。地域包括ケアの対象、提供すべきサービスについては、想定をできるだけ広げた。章立ては、地域包括ケア全体を考える基本的な枠組みを意識して作った。当然だが、貧困と健康についてもプログラムに組み込んだ。
日本の国力が衰える中で、ケアの恩恵の総量を最大にするだけでなく、ケアを日本の将来の発展につなげなければならない。限られた資源を有効に活用するためには、地域包括ケアを社会全体の中で位置づけ、ケアの優先順位を考え、その選択を政治プロセスに乗せる必要がある。
社会保障費が抑制される中で、生活保護一歩手前の生計困難者は社会の支援の外に押しやられがちである。2014年9月、千葉県銚子市の県営住宅に住む母子家庭で、母親が無理心中を図って、13歳の中学生の娘の首を絞めて殺すという悲惨な事件があった。
以下、2015年6月12日の朝日新聞digitalから引用する。
「給食センターでパートとして働き、児童扶養手当などを合わせても、月の収入はおおむね11万~14万円。時期によって極端に少ない月もあった。2012年途中から家賃を滞納。可純さんの中学入学の準備のため、13年2月ごろヤミ金に手を出した。可純さんにはバレーボール部のジャージーやシューズ、アイドルのグッズなどを買ってあげた。強制執行日の昨年9月24日朝。同じ布団で寝ていた可純さんの首を、はちまきで絞めた。数日前にあった体育祭で可純さんがしていたものだった。地裁支部の執行官らが室内に入ったとき、被告は可純さんの頭をなでながら、体育祭で活躍する可純さんの映像を見ていた。」
この事件は、犯罪として処理されたが、精神的ならびに肉体的健康の問題でもある。県住宅課は母子の生活の困窮を知る立場にあった。利用可能な支援制度について積極的に情報提供をしなかったばかりか、司法を利用して追い出そうとした。母親は、銚子市役所の社会福祉課には一度相談に訪れたが、その後相談はなかったという。日本の役所の福祉の窓口は、申請主義を盾に、しばしば弱者に冷淡である。
現在の日本では、こうした母子家庭より、高齢者への支援が手厚い。地域包括ケアの対象に母子家庭は含まれていない。2010年の後期高齢者医療制度の総医療費は患者負担を含めて12兆7000億円だった。一方で2013年度の文教予算は5兆4000億円に過ぎない。75歳以上の高齢者の医療費に、研究費を含む全文教予算の2.5倍の金がつぎ込まれている。日本は、教育への公的支出の対GDP比が先進国の中で最低である。しかも、こどもの貧困率が上昇し、2012年には16.3%に達した。経済格差は教育格差を生み、教育格差は将来の経済格差を生む。貧困が世代間で継承されることになる。
医療費には節約できる部分がある。高齢者への多剤投与は、無駄であるばかりか危険でもある。最近発売されている抗がん剤は、効果が小さい割に、極めて高価なものが多い。
2014年度、薬剤売上ランキングのトップは、抗血栓症薬プラビックスの1288億円だった。1人1日分282.7円で、同じ目的で使われるバイアスピリン5.6円の50倍である。値段差は大きいが、心血管イベントの予防効果の差はごくわずかでしかない。薬価と効果の差を説明することを前提に、バイアスピリンとの差額を患者負担にしてはどうか。
進行前立腺がん患者に使われるジェブタナという薬剤は、1バイアル60万円で3週間に1回投与される。ほとんどの患者に有害事象が発生する。ジェブタナ投与群の生存期間の中央値が15.1か月、対照群は12.7か月とその差はわずかである。厚労省は、このような薬剤まで保険診療で使用することを認めている。
高価な新薬の多くが外国で開発されているので、医療費として使われた金が外国に流れる。その分、高齢者の生活を支えるための人件費が削られる。ジェブタナを保険診療から外して、混合診療で使えるようにしても問題は生じない。
日本では、出生率の低い状況が続いている。働き手は継続的に減少し続けるが、戦後のベビーブームの影響で高齢者は当面増加し続ける。現状のまま推移すれば、2053年、日本の後期高齢者数は最大になり、2010年の1.70倍になる。一方で、20歳から64歳の働き手は2010年の59%に減少する。将来の働き手の人口を増やし、収入を高めなければ、日本社会は到底維持できない。子育て支援と教育への投資は、将来の高齢者対策でもある。
***************************************************************************************************
『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (2): 猪飼周平「地域包括ケアの歴史的必然性」を語る
小松秀樹
2015年10月17日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
---------------------------------------------------------------------
猪飼氏は、2010年に出版した『病院の世紀の理論』(有斐閣)で、イギリス、アメリカ、日本の医療システムを比較しつつ、独創性の高い議論を展開し、医療が医学モデルから生活モデルに大きく転換されようとしていることを説いた。
猪飼氏は、19世紀までの西洋医学は、「患者を治すという点でたいしたことはできず、その中で経験的に患者の苦痛を和らげる手段が用いられたり、食事や休息が与えられたりする、それが医療システムの基本的な姿」であり、「いわば福祉システムの一種」だったとする。20世紀に入り、一部の病気が治療可能になった。以後、多大な期待と共に、医療の目標が患者を医学的な意味での治癒に導くことに変化した(医学モデル)。
1990年代以降、福祉領域の後追いをする形で、ケアに対する社会の期待が、医学的な意味での治癒から、患者の生活の質を高めることに変化してきた。「医療システムは、患者の医学的治癒を目的とするシステムから、患者の生活の質を支えるシステム(生活モデル)へと変貌するように、社会的圧力」を受けている。
今後も、医学モデルはケアの一つの選択肢として残るが、全体に占める割合が小さくなる。
『病院の世紀の理論』の記述の多くは、基本的に過去についてのものであるが、大胆にも近未来も予測している。すなわち、病院の世紀の終焉の後に生じる事態について、以下の6項目を挙げている。
1.「健康」の概念が「病気と認められないこと」から「心身の状態に応じて生活の質が最大限に確保された状態」に変わる。医学モデルでは、病気の明確な定義が、診断や治療の背景にあった。ところが、生活の質は人それぞれに違っている。本人を含めて、何が良いのか厳密に知っているものはいない。新しい健康概念とは、多様性と不可知性を含み込んだ概念にならざるをえない。健康の明確な定義はもはや存在しないということになる。
2.予防を含めて、保健サービスの役割が大きくなる。時代の中心となる生活習慣病が基本的には完治しないため、治療の期待を引き下げ、治療以外のアプローチの相対的な位置を引き上げる。予防によって、病気に罹らずに健やかにすごせる期間(いわゆる「健康寿命」)と寿命のギャップを短くすることができれば、高齢者の生活基盤の充実に資することになるといえる。
3.保健(予防)・医療・高齢者福祉が、一つの目標の下に包括的ケアとして統合される。
4.健康を支える活動の場が、生活の場に近くなり、医療が人々の固有の価値・ニーズを理解するための情報収集に重きを置く活動へと変わっていく。
5.ケアの中心が、病院から地域に移行していく。生活を構成する要素が、圧倒的に多岐にわたるため、病院だけではサービスを供給できない。
6.ケアの担い手が医師を頂点とする階層システムから、多様な職種や地域住民とのネットワークに移行する。
筆者は上記6項目のほとんどに賛成するが、医師としての実感として、生活習慣病の予防のための保健サービスに、効果が期待できるとは思えない。さらに、予防によって「健康寿命」と寿命とのギャップを短くすることができるとは思えない。ギャップを短くすることが可能だとすれば、予防を含む保健活動ではなく、適切な条件が満たされた場合に、以後の治療やケアを控えることぐらいだろうと想像する。実際、北欧で寝たきりが少ないのは、自分で食事を摂取できなくなった時は、死に時だと多くの人が考えており、食事介助が一般的に行われていないからだと聞いた。
もう一つ、『病院の世紀の理論』には、病院の世紀以前の日本の病床について、注目すべき記述があった。全病床の統計が初めて出そろった1913年、「伝染病床」や「娼妓病床」など「特殊病床」が治療目的の一般病床よりはるかに多かったことである。伝染病床だけで、全病床の72%も占めていた。「特殊病床」には他に「結核病床」「癩病床」があった。これらの病床は社会防衛が目的であって、「収容された者にとっては、むしろ生命の危険が増大した。」入院は「本人の希望によって行われたのではなく、日本の場合、特に警察権力を背景とする強制力によって行われたのである。」
現在の日本国憲法では、個人の権利は、公共の福祉に反しない限り、最大限尊重されなければならない。人権の制限はギリギリの利益衡量の中で行われる。
国連は、公益目的で人権を制限する場合の詳細な原則(シラクサ原則)を定めている[1]。WHOは、薬剤耐性結核の対策で人権を制限するには、シラクサ原則に含まれる5つの基準全てを満たす必要があるとしている[2]。
1.人権制限は、法に基づいて行使される。
2.人権制限は、多くの人たちが関心を寄せる正当な目的の達成に役立つ。
3.人権制限は、民主主義社会においては、目的達成にどうしても必要な場合に限られる。
4.目的を達成するのに、強要や人権制限が、必要最小限にとどまるような方法を採らなければならない。
5.人権制限は、科学的根拠に基づくべきである。独断で決めてはならない。つまり、合理性を欠いたり、差別的だったりしてはならない。
日本の医療行政は歴史的に管理色が強く、安易に人権侵害に手を染めてきた。ハンセン病患者の生涯隔離政策は、医学的正当性を失った後も50年近く継続した。2009年の新型インフルエンザ騒動では、WHOが反対声明を出す中、科学的根拠のない検疫と停留措置を行った。戦前、警察、医療・保健行政に区別がなく、内務省に所属していたことが影響しているのではないか。
2012年のインフルエンザ特措法が、内閣府の警察官僚主導で制定されたのも、こうした歴史的経緯に由来するのだろう。同年10月12日に開催された日本感染症学会の緊急討論会で、法案の制定で日本感染症学会には相談がなかったこと、日本感染症学会所属の専門家の多くは、インフルエンザ特措法に問題があると考えていたことが明らかになった。
歴史的に、医系技官とくに感染症に関係した官僚たちは、上意下達のピラミッド構造を望み、他の分野でもそれを進めようとしがちである。
地域包括ケアの推進には現場のニーズを、現場に近いところで、多様な職種が直接認識するネットワーク構造が適していることを強調したい。
文献
1.United Nations, Economic and Social Council, U.N. Sub-Commission on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities: Siracusa Principles on the Limitation and Derogation of Provisions in the International Covenant on Civil and Political Rights, Annex, UN Doc E/CN.4/1984/4, 1984. https://www1.umn.edu/humanrts/instree/siracusaprinciples.html (2015.10.10).
2.WHO Guidance on human rights and involuntary detention for xdr-tb control. http://www.who.int/tb/features_archive/involuntary_treatment/en/index.html (2015.10.10).
********************************************************************************************
『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (3): 小松秀樹「人口の変化と社会保障」を語る
小松秀樹
2015年10月31日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
---------------------------------------------------------------------
日本では、合計特殊出生率が低い状態が長期間継続している。今後、一貫して出生数が減少し続ける。このため、20歳から64歳の現役世代が減少し続ける。
問題は社会保障である。人口の大きい団塊世代、団塊ジュニア世代が高齢化していく。65歳以上の高齢者人口がピークになる2042年には、1人あたりの負担を固定して単純計算すると、高齢者1人あたりの社会保障給付が2010年の3分の1程度になる。2057年には後期高齢者人口が前期高齢者の2倍を超え、状況はさらに悪化する。社会保障制度に頼る人がいる状態で、給付が減らされると、適応できない人が増えてくる。対応を誤ると餓死が日常的現象になる可能性がある。
近年、「2025年問題」という言葉が使われているが、2025年に問題が生じる、あるいは、2025年に最悪の状態になり、その後改善されるという誤解を与えかねない。2025年は通過点にすぎず、状況はその後も悪化し続ける。筆者が直接見聞した限りでは、中央官庁のキャリアは、国立社会保障・人口問題研究所の推計が示す絶望的世界を正しく認識している。しかし、行政もメディアも国民に正直に伝えていない。
はたして、国立社会保障・人口問題研究所の推計通りに事が運ぶのだろうか。危機が大きければ社会の側に対応が生じ、未来予測の前提が崩れる。グンター・トイブナーは「社会科学においては、将来の出来事の理論的予測はあまり流行らない。まして、予測どおりの出来事が起こるのは稀だというのが、普通である。」(グローバル化時代における法の役割変化『グローバル化と法』マルチュケ、村上淳一編)と述べている。
筆者は「人口の変化と社会保障」の中で、以下の結論を述べた。
「将来の現役世代を増やし、その収入を増やさない限り、日本の社会保障を維持するのは困難である。出生率が向上しなければ、大規模な移民を受け入れざるを得ない。移民してもらうとすれば、収入の少ない単純労働者ではなく、高学歴層でなければ、社会保障を支えるのに役立たない。起業能力のある人材が欲しいが、移民する側にとって、日本に魅力があるかどうか分からない。」
上記結論は、国民国家の枠組みにとらわれ過ぎていたと反省している。危機的状況になったとき、日本の国民国家としての在り様に変化が生じる可能性がある。危機が大きいだけに、国家と日本人の根幹部分に変化がなければ対応できない。
国民国家とは、現在の日本人が想起する「普通の国」のことである。固有の法体系によって統治され、国土、官僚群、常備軍を持ち、国民は国籍を有する。他の国家に対して利己的に振る舞う。国民の同質性を求める考え方をとることが多く、複数の民族を抱える国で、紛争の原因となった。国民国家につながる主権国家体制は30年戦争の後、1648年、ウェストファリア条約によってもたらされた。国民国家とは、歴史的には比較的新しく、きわめて人工的なものである。未来永劫継続するとは限らない。
内田樹は、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったとして以下のように主張した。http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_1230.php
国民国家とは「国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である」はずが、政府がグローバル企業を国民より優先するようになった。「日本企業」を経済戦争の担い手にしたて、「どうすれば日本は勝てるのか?」と執拗に問いたてる。企業の利益を増やすための環境コスト、製造コスト、流通コスト、人材育成コストを国家に支払わせようとする。実は、「日本企業」はグローバル企業であり、「企業利益の増大=国益の増大」という等式は虚偽である。現状は国民国家の「末期」のかたちである。
実際、大企業が儲かっていても、地方は疲弊している。地方を支えてきた公共事業は、財政赤字と過疎化によって激減した。製造業の海外移転が進んだため、地方で工場が閉鎖された。製造業が日本に残るには、付加価値の高い製品を作るか、あるいは、徹底した機械化で人員を削減しなければならない。日本では技能職より、技術職、新規ビジネス開発者、管理的事務職の役割が相対的に大きくなった。いずれも、大都市あるいは外国の住民である。大企業全体として利益が積み上がっているが、高い報酬を受け取ることのできる日本人の数は多くない。地方では雇用が失われ、過疎化と貧困化が進行している。
内田の議論には国民国家への期待が若干残るが、宮崎学は日本型国民国家そのものに現在の苦境の原因があるとする(『法と掟』洋泉社)。日本では、明治維新後、政府が、農村や都市にみられた自治組織、職能団体などの個別社会の自治を破壊し、全体社会として統合した。宮崎は、華僑の相互扶助組織と個人の強さ、たくましさを高く評価する。宮崎の結論部分を引用する。
「それぞれの国民が国民国家単位でどうまとまって行動していくか、ということよりも、それぞれの個々人が個人としてアジアの中で、あるいは世界の中で、どう独立して行動していくのか、ということのほうが、まず優先されなければならない。いま国民国家の枠が日本の社会を全体社会一本にまとめあげることによって、個別社会の、したがってまた個人の活力を発揮することを妨げている。個人と個別社会をこの枠から解放することが、1990年代以降に現れた時代の変貌の中で、最も重要な課題になっているのだ。」
明治維新後の個別社会の破壊は、中間団体を旧体制として否定し、徹底して破壊したフランス革命に似ている。フランス革命は、旧体制を嫌悪したが、旧体制のもたらした行政的中央集権をさらに強めた。旧体制以上に、思考が画一化され、多様性と自由を奪った。トクビルの記述は、日本の衰退に重なる。
「ある権威があるとする。それは、わたくしの歓楽が平穏に満たされるのを見張っており、わたくしの行く先々を先廻りして、わたくしが心配しないでもすむようにすべての危険をまぬがれるようにしてくれる。この権威はこのようにしてわたくしが通過する途上でどのような小さなとげも除いてくれると同時に、わたしの生活の絶対的な主人でもある。そしてまた、この権威はそれが衰えるときにはその周囲ですべてのものが衰え、それが眠るときにはすべてのものが眠り、それが亡びるならばすべてのものが死滅するにちがいないほどに、それが運動と生存とを独占している。」(『アメリカの民主正義』講談社学術文庫)
社会の変化は、その社会で生活している人たちが考えるより早く、激しい。現在の日本がこのまま維持されることがないことは間違いない。
- << 抗認知症薬の開始時期
- HOME
- 近藤誠医師は医師法違反!? >>
このたびURLを下記に変更しました。
お気に入り等に登録されている方は、新URLへの変更をお願いします。
新URL http://blog.drnagao.com
この記事へのコメント
先生、皆さんこんばんは。
この記事(特に母子家庭の箇所)を読んで改めて社会の歪みのしわ寄せは弱者に来るんだなと思い
複雑な気持ちになりました。
確かに難しく感じる箇所もありましたが、とても大切な事が書いてある記事だと思いました。
教えて下さってありがとうございます。
昨日、第二回認知症治療研究会の告知がありましたが、こちらはやはり参加資格は医療従事者や
介護関係者のみですか?
勉強会に参加したくても会によっては医療従事者や介護関係者のみの場合があり残念に思う事があり
お聞きしました。
Posted by 匿名 at 2015年11月01日 12:57 | 返信
地域包括ケアシステムの構築と国から予算が組まれ 市が開催する不思議な会合に 市内の訪問看護事業所代表で参加していますが
どこに向かっているのか よくわからないのが現実です
本当に他職種が連携して 力が発揮できているのか…
はたまた 他職種が それぞれの足の引っ張り合いをしてるのか…
わたしは いつも 怒れてきます
Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2015年11月02日 12:46 | 返信
コメントする
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL: