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バイタルサイン依存症
2015年12月24日(木)
今、介護施設や訪問介護の現場は大変なことになっている。
深刻な人出不足だけでなく、教育不足もあり、在宅主治医にも大きなシワ寄せが。
深刻な”バイタルサイン依存症”に陥っているのだ。
深刻な人出不足だけでなく、教育不足もあり、在宅主治医にも大きなシワ寄せが。
深刻な”バイタルサイン依存症”に陥っているのだ。
毎夜、聞いたこともない介護士からの電話が何度も鳴る。
「○○さんのお熱が37度あります」」
「○○さんのsPO2が、95%しかありません」
「血圧が90しかありません」・・・
そもそも、本当かな?
入所者さんは無症状でスヤスヤ寝ているのだけど。
いったいどうすればいいのだろう?
あの世に行こうとしている人のバイタルサインばかり測っても意味が無いのだが。
どういう答えをも求めているのか想像がつかない。
「地域ケアリング1月号」にこのことを書いた。→こちら
いろんな考え方があるだろう。
しかし毎晩、何度も介護施設から電話がかかるのは異常だ。
バイタルサイン依存症に手をつけないと、こちらが殺される。
携帯電話の大半が施設からの電話である。
ほんと、なんとかして欲しい。
介護施設に医療を抜いた政策は誤りである。
介護職員の教育システムを国家レベルで考えないのは誤りである。
今日は、介護施設の協会に陳情に行く。
なんとかバイタルサイン依存症を減らしたい。
書いても言っても無理なら、諦めるしか意味が無い。
しかしもう少しやっていようかと思う。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
地域ケアリング第3回 バイタルサイン依存症 長尾和宏
バイタルサイン花盛り
薬剤師、栄養士、介護士の間でも、バイタルサインの測定が花盛りである。各種講習会が開催され、今や医療職でなくてもバイタルサインを測定するのが当たり前の時代になってきた。血圧や脈拍や体温はともかく、パルスオキシメーターによる酸素飽和度の測定が介護施設でも当たり前の光景になった。しかも看取りが近くなると、頻回に測るようになる。
先日も深夜にこんな電話がかかってきた。「先生、AさんのSpO2が72しかありません!」。急いで往診すると、その72という数字は酸素飽和度ではなく、なんと脈拍数であった。あるいは、今夜が看取りかなという人の最期の夜に介護職が何度も電話をしてきて血圧と酸素飽和度の低下を伝えてくれた。一度も看取りを経験したことがない彼は、死が怖くて怖くてたまらないのである。「不安なので一度来て欲しい」とのことで深夜に施設に往診すると、その介護職員が過換気症候群になっていて対応した。患者さん本人は穏やかに寝ているのだが、治療すべきは介護職員だったのだ。過換気症候群になるまでもバイタルサインに駆りたてるものは何だろうか。またそもそも終末期にバイタルサインを測る目的は何だろうか。
私は医療現場のみならず、介護現場も深刻な「バイタルサイン依存症」に陥っているような気がしてならない。バイタルサインを測れば測るほど、それに対応しないといけないという気持ちになり、「待つ」ということができなくなる。平穏死の条件とは「待つ」こと。終末期においては、待ったほうが有利な場合が圧倒的に多いことを教える人は少ない。
「待つ」ことができた順調先生
30年前、研修病院に変わった先生がいた。看取りが近くなると看護師がバイタルサインの変化を医師に告げる。「先生、血圧が下がっています」「先生、尿量が減りました」「先生、意識レベルが下がっています」・・・。そのベテラン先生は終末期患者に限っては、看護師が何を言ってきても、タバコをふかせながら「順調・・・」としか言わなかった。点滴をどんどん減らしていた。果たして順調先生の患者さんは、みな管だらけにはならず枯れるように死んでいった。一方、研修医の私は、一秒一刻でも寿命を延ばそうとありとあらゆる延命治療を必死に行っていた。それが患者に無用な苦しみを与えて寿命を縮めていることを悟ったのは、その10年後だったのだが。詳しくは近著「犯人は私だった。医療職のための平穏死読本」(日本医事新報社)をご照覧頂きたい。
私は、その医師に「順調先生」というあだ名をつけ、内心少し軽蔑していた。患者の命をもてあそんでいるように見えた。もっと生きさせることができるのに、と思っていた。しかし30年後、気がついたら自分自身が「順調先生」になっていた。というのも当院に在宅研修に来る研修医たちは、全員といっていいほど30年前の私と同じようなことを言うからだ。私が「平穏死」について時間を割いて説明しても全員、首をかしげる。病院では、バイタルサインに応じた医療を行うのが当たり前だが、在宅看取りの現場では「物語」を重視した医療をしなければいけない。一生懸命そう説明するのだが、到底理解できない。興味が無いのだ。死は想定外で人ごとなのだ。彼らもまた深刻な「バイタルサイン依存症」に陥っているという自覚が全く無い。30年前の私もそうだったので、強く責めることはしないが、「誰か教えてやれよ」という想いが年々強くなるばかりだ。元・大阪大学総長の鷲田清一先生の名著「待つということ」にあるように、「待つ」ことができない時代に我々は生きている。メールにしてもラインにしてもすぐに反応しないと、仲間はずれになる。医療や介護現場でも、「既読無視」は許されないと誰もが考えているので、バイタルサイン依存症を正面切って治そうという人はなかなかいない。
人生の終末期に寄り添うとは
人生の終末期に「寄り添う」とは、バイタルサインを頻回に測定することではない。この世を去ろうとする人の近くに居て、出て来る言葉に耳を傾け、時々でも言葉を交わすことだ。しかし多くの医療・介護現場では、バイタルサインを測定してばかりしている。「他に何をしていいのか分からないので測っているのですよ!」と、ある介護職員が叫んだ。
私は、「だったら触ってあけてください」と言った。「何のために触るのですか?」と返ってきたので、「体中を励ますようにさすってあげて下さい」と言うと、「そんなことをして何になるのですか?」と若い研修医に笑われた。「それより、最期は何で眠らせるのですか?」と聞いてきたので、「そんなもん在宅では必要無いよ」と答えるとその研修医は、初めて驚いてくれた。「君の病院では末期がんのどれくらいに深い鎮静剤を使うの?」と聞いてみると、「そうですね、半分くらいかな」とのことだった。
エンドオブライフケア以前にやるべきことがまだまだある、とオッサンは感じている。
「○○さんのお熱が37度あります」」
「○○さんのsPO2が、95%しかありません」
「血圧が90しかありません」・・・
そもそも、本当かな?
入所者さんは無症状でスヤスヤ寝ているのだけど。
いったいどうすればいいのだろう?
あの世に行こうとしている人のバイタルサインばかり測っても意味が無いのだが。
どういう答えをも求めているのか想像がつかない。
「地域ケアリング1月号」にこのことを書いた。→こちら
いろんな考え方があるだろう。
しかし毎晩、何度も介護施設から電話がかかるのは異常だ。
バイタルサイン依存症に手をつけないと、こちらが殺される。
携帯電話の大半が施設からの電話である。
ほんと、なんとかして欲しい。
介護施設に医療を抜いた政策は誤りである。
介護職員の教育システムを国家レベルで考えないのは誤りである。
今日は、介護施設の協会に陳情に行く。
なんとかバイタルサイン依存症を減らしたい。
書いても言っても無理なら、諦めるしか意味が無い。
しかしもう少しやっていようかと思う。
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地域ケアリング第3回 バイタルサイン依存症 長尾和宏
バイタルサイン花盛り
薬剤師、栄養士、介護士の間でも、バイタルサインの測定が花盛りである。各種講習会が開催され、今や医療職でなくてもバイタルサインを測定するのが当たり前の時代になってきた。血圧や脈拍や体温はともかく、パルスオキシメーターによる酸素飽和度の測定が介護施設でも当たり前の光景になった。しかも看取りが近くなると、頻回に測るようになる。
先日も深夜にこんな電話がかかってきた。「先生、AさんのSpO2が72しかありません!」。急いで往診すると、その72という数字は酸素飽和度ではなく、なんと脈拍数であった。あるいは、今夜が看取りかなという人の最期の夜に介護職が何度も電話をしてきて血圧と酸素飽和度の低下を伝えてくれた。一度も看取りを経験したことがない彼は、死が怖くて怖くてたまらないのである。「不安なので一度来て欲しい」とのことで深夜に施設に往診すると、その介護職員が過換気症候群になっていて対応した。患者さん本人は穏やかに寝ているのだが、治療すべきは介護職員だったのだ。過換気症候群になるまでもバイタルサインに駆りたてるものは何だろうか。またそもそも終末期にバイタルサインを測る目的は何だろうか。
私は医療現場のみならず、介護現場も深刻な「バイタルサイン依存症」に陥っているような気がしてならない。バイタルサインを測れば測るほど、それに対応しないといけないという気持ちになり、「待つ」ということができなくなる。平穏死の条件とは「待つ」こと。終末期においては、待ったほうが有利な場合が圧倒的に多いことを教える人は少ない。
「待つ」ことができた順調先生
30年前、研修病院に変わった先生がいた。看取りが近くなると看護師がバイタルサインの変化を医師に告げる。「先生、血圧が下がっています」「先生、尿量が減りました」「先生、意識レベルが下がっています」・・・。そのベテラン先生は終末期患者に限っては、看護師が何を言ってきても、タバコをふかせながら「順調・・・」としか言わなかった。点滴をどんどん減らしていた。果たして順調先生の患者さんは、みな管だらけにはならず枯れるように死んでいった。一方、研修医の私は、一秒一刻でも寿命を延ばそうとありとあらゆる延命治療を必死に行っていた。それが患者に無用な苦しみを与えて寿命を縮めていることを悟ったのは、その10年後だったのだが。詳しくは近著「犯人は私だった。医療職のための平穏死読本」(日本医事新報社)をご照覧頂きたい。
私は、その医師に「順調先生」というあだ名をつけ、内心少し軽蔑していた。患者の命をもてあそんでいるように見えた。もっと生きさせることができるのに、と思っていた。しかし30年後、気がついたら自分自身が「順調先生」になっていた。というのも当院に在宅研修に来る研修医たちは、全員といっていいほど30年前の私と同じようなことを言うからだ。私が「平穏死」について時間を割いて説明しても全員、首をかしげる。病院では、バイタルサインに応じた医療を行うのが当たり前だが、在宅看取りの現場では「物語」を重視した医療をしなければいけない。一生懸命そう説明するのだが、到底理解できない。興味が無いのだ。死は想定外で人ごとなのだ。彼らもまた深刻な「バイタルサイン依存症」に陥っているという自覚が全く無い。30年前の私もそうだったので、強く責めることはしないが、「誰か教えてやれよ」という想いが年々強くなるばかりだ。元・大阪大学総長の鷲田清一先生の名著「待つということ」にあるように、「待つ」ことができない時代に我々は生きている。メールにしてもラインにしてもすぐに反応しないと、仲間はずれになる。医療や介護現場でも、「既読無視」は許されないと誰もが考えているので、バイタルサイン依存症を正面切って治そうという人はなかなかいない。
人生の終末期に寄り添うとは
人生の終末期に「寄り添う」とは、バイタルサインを頻回に測定することではない。この世を去ろうとする人の近くに居て、出て来る言葉に耳を傾け、時々でも言葉を交わすことだ。しかし多くの医療・介護現場では、バイタルサインを測定してばかりしている。「他に何をしていいのか分からないので測っているのですよ!」と、ある介護職員が叫んだ。
私は、「だったら触ってあけてください」と言った。「何のために触るのですか?」と返ってきたので、「体中を励ますようにさすってあげて下さい」と言うと、「そんなことをして何になるのですか?」と若い研修医に笑われた。「それより、最期は何で眠らせるのですか?」と聞いてきたので、「そんなもん在宅では必要無いよ」と答えるとその研修医は、初めて驚いてくれた。「君の病院では末期がんのどれくらいに深い鎮静剤を使うの?」と聞いてみると、「そうですね、半分くらいかな」とのことだった。
エンドオブライフケア以前にやるべきことがまだまだある、とオッサンは感じている。
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この記事へのコメント
バイタル計る目的は、記録が必要だからのような事業所もあります。 今日とある施設で、入浴前にパルスオキシメーターが中々反応せず指先を温タオルで温めている場面に遭遇しました。訪問看護に行かせてもらっている方で、「お変わりな~い?」「生きてるわよ~」と会話したところだったし、「冷えるといつも計りにくいし、いつもと同じ意識なんだから、温めてまで計りたいのだったらお風呂に入っていただいた後に計ったら?」とアドバイスしました。「記録しないといけないんでしょ?」「そうなんです。」と利用者もヘルパーさんもニコニコ顔に変わりました。
同じ事業所の利用者、バルンカテーテル交換に2週間目の訪問に伺ったら、おなかがパンパンで、「お通じいつでしたか?」
「ちょっと待ってって下さい。」とバイタルサインのチェック票をめくり、「15日最終です!」と得意げに教えてくれました。
午前中一度だけの排便援助では足らず、午後もう一度訪問したくさんの排便後やっと柔らかおなかになり、何より「お腹すいたわ」と笑って下さいましたが・・・。
ヘルパーさん達は一体何をしたいのでしょう?なぜこんな事になるのでしょう?
行政の実地指導は介護や看護の中身を記録だけで判断し、記録の不備を厳しく指摘して終わります。そんなことも関係あるような気がします。だから、虐待も見抜けないし、きっと便秘で苦しむ方がいても記録さえしっかりしていれば、いい事業所と判断されるのでしょう。一人一人はとても親切で明るい素敵なヘルパーさん達ばかりの事業所で遭遇したことです。
Posted by ルナース at 2015年12月24日 04:47 | 返信
バイタルサイン依存症 ・・・・・・ を読んで
最終末期にある人を前にして、『他に何をしていいか
分らないので ・・・・・ バイタルサインを測定しているの
ですよ!!』と叫ぶ介護職員さんの気持ちが分るよう
な気がします。
確かに『何もしないで!待つ!』ということは、辛い
ことだと思います。
最終末期の実態と、医療・看護・介護・心理的ケア&看取り
のそれぞれの役割と限界を、地道に情報発信をして相互の
共通認識を作り上げるしか現実を改善して行く方法はない
ように思います。
看取りの現場の広がりを考えると、一個人やエンドオブ
ライフ・ケア協会の頑張りだけでどうなるものでもない
と思います。
大学の医学部、看護・介護等の専門学校の段階で、終末期
の医療・看護・介護についても学ぶ機会があるといいんで
しょうね。
長尾先生が、一般社団法人エンドライフ・ケア協会の理事
さんも務められていることを始めて知りました。
すごいですね。
Posted by 小林 文夫 at 2015年12月24日 09:06 | 返信
老健施設、ホームと至るところで、バイタル依存症は深刻でした。医者を疲弊させるものです。
変な方向にまじめなのが日本人の欠点。なぜ高齢者全員に毎日2回以上バイタル測定する必要あるの?
バイタル測定などICU患者だけで十分です。不必要な仕事はやめさせましょう。
Posted by ある実践医 at 2015年12月24日 07:01 | 返信
母が臨終の床についていた時、バイタルを取ろうとしたヘルパーに、「もう、うっとうしいだけだと思うからそっとしておいてあげて」と言いました。母の死の前日でした。計ったところで助かるわけではありません。それより平和な時間を持たせてやりたいと思いました。
以前、家庭用血圧計の購入をリクウェストされた時にも、「血圧はちょっとしたことで変動があるもの。それをきちんと解釈できずに計っても混乱するだけなので止めましょう。」と言いました(その後、チェックしたいと感じたことがあり購入してしまったのですが・・・)。
数値はそれをきちんと解釈する知識がなければ、単に動揺の原因になるだけです。バイタルを計るとプロになった気がしているのではないでしょうか。おかしな傾向だと思います。
Posted by 母を看取った一人娘 at 2015年12月25日 12:57 | 返信
長尾先生、皆様、
おっしゃる事、まことに同感です。病棟では医療記録として残しておかないと何もしていない、と後日判断される恐れもあり、近頃の病棟ではバイタルを含めて、モニターへの入力が強迫観念になっているようです。一方で、老健施設やホームは検査や治療を目的とした施設ではありません。本来の目的から逸脱して強迫的になるのが日本人の特性なのでしょうか? 呼吸不全となる可能性があるからパルスオキシメーターを使用するのであって、呼吸器疾患の無い人にそんなものを測定などしませんね。測定したところで、施設では酸素流量を変更したり治療を変更したりする可能性も無いわけですから。いつもと比べて顔色や息づかいがどうかをじっくり見てくれれば充分だと思います。
Posted by 呼吸器科医 at 2015年12月25日 05:36 | 返信
バイタルサインって
誰が知りたいん〜?って思っちゃいます
先日 ショートステイにお出かけになった91歳のおばあちゃま
Spo2が80%だから帰されて 訪問看護のわたしが ご自宅に 急いで行きました
???お顔の色 口唇の色は とっても良くて…いいんじゃないのって感じで
ただ手が冷たかった ちゃんと Spo2が測れなかったんかしら〜?
呼吸も普通にしてますし …ご家族とも なんで帰ってきちゃったんでしょうねってな具合です
特に お看取りの場面で…測定すれば 異常値に決まっています
デジタル社会になっちゃって もっとアナログでいいですよね
ほら〜っ おかあさんのおでこと 子どもちゃんのおでこをくっつけて お熱あるかしら〜って感じで
見て 聞いて 触って…五感が大事です
Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2015年12月26日 12:07 | 返信
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