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動物の死を撮る写真家
2016年01月12日(火)
動物の死を撮る写真家がいるという。
私が1978~1984年、無医地区活動をしていた長野県南部の在住。
彼も、あの九相図に影響を受けているという。
私が1978~1984年、無医地区活動をしていた長野県南部の在住。
彼も、あの九相図に影響を受けているという。
「風知草」 自然に還っていける道=山田孝男
http://mainichi.jp/articles/20160111/ddm/002/070/094000c
毎日新聞2016年1月11日 東京朝刊
生があれば死もある。それが自然界である。
超高齢化社会は死が身近な社会だ。死が遠く、拡大発展が基調
だった社会とは違う。死を忘れて進む時代は去った。死を受け入れて
暮らす時代がきた。
フクロウの生態を活写して土門拳賞を受賞(1990年)した動物写真家
の宮崎学(66)に、「死」という表題の作品集(94年、平凡社刊)がある。
森で見つけたカモシカやシカ、タヌキの死骸にカメラを向け、腐乱、白骨化
の過程を記録。死肉をあさる獣や鳥、虫や微生物の営みを伝えている。
宮崎は伊那谷(長野県南部)で育った。フクロウのほか、ワシやタカの、
知られざる生態を撮って内外に知られた名手であり、「自然の中の死」を
見つめる思索家でもある。
なぜ、死を撮るか。
昨年暮れ、駒ケ根市の仕事場を訪ねて聞くと、写真家はこう答えた。
「お寺さんに九相図(くそうず)ってのがあるんですよ。死人を供養しないと、
犬やカラスに食われてこうなるっていう9段階の紙芝居なんだけど、現代人
こそ見るべきだと思うんですね」
九相図は、腐乱死体や白骨を凝視して肉体への執着を断つ--という
仏教説話とともに発達した。
日本では中世以来、明治初期まで仏教美術の主題だったが、近代絵画
の興隆とともにすたれた。
宮崎は言う。
「今の時代、きれいな面ばっかり見ようとするでしょ? カワイイとか、
きれいとか、そっちの方向しか見ない。でも、世界はきれいなものだけで
できてるわけじゃない、汚いものだってある。だけど、そっちの方は
見ようとしない。世の中、あまりにもヘンな方向へ行ってるんで、
これ(写真集)で見直してほしいと思ったわけです」
世界に冠たる日本の財政赤字の、最大の重荷は社会保障費であり、
医療費はその中核を占める。
もはや治療しても医学的には効果のない、老衰した超高齢者に対する
延命治療、過剰医療への疑問がささやかれて久しい。
人生の終わりのための活動を意味する「終活」が新語・流行語大賞の
トップテンに選ばれたのは2012年だった。
人生最後の医療は選択できる。「本人が判断能力を失っても、とにかく
生命を維持する」道を選ぶかどうかは、病院が決めることではない。
ましてや政府が指導することでもない。
長年、地域で在宅訪問医療に取り組んできた旧知のベテラン開業医に
言わせれば、「結局、市民の意識の問題」なのである。
宮崎は写真集「死」の巻末にこう記している。
「現代において、私たちは、死を単なる物質的な終息として教えられている。
しかし、私が撮影した自然の死は、物質的にも終息することなく、
新たな生命に引き継がれていた」
「(私は)人間が<自然界の一員>として、自然になめらかに還(かえ)って
いける道さがしを動物たちの死体によって探りたかった。生命とはなにか、
人間とはなにか、そして自然とはなんなのかということを、死体の写真を
とおして知りたかったのである……」
年始早々、開幕した国会は社会保障と増税をめぐって紛糾している。
政党は選挙重視だ。延命治療批判で憎まれたくはない。だが、それでは
超高齢化社会は成り立たぬ。財政赤字は、経済対策だけでは埋まらない。
(敬称略)=毎週月曜日に掲載
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
終末期医療は、医療者の問題である前に
市民や家族の問題である。
日本には、自分の終末期に決意を表明した人が12万4千人ほどいる。
ちょうど日本人の0.1%に当たるが、そんな市民が12万人もいるのだ。
日本尊厳死協会は、そんな市民の集まりだ。
そこでは私自身もひとりの市民である。
ひとりでも多くの人がリビングウイルを表明して頂くと、空気は変わる。
0.1%が、5%になった時に、日本人の死生観は確実に成熟して行く。
リビングウイルは、2000円(年会費相当)で表明することができる。→こちら
今日、届いた会報には、ウシオ電気の牛尾会長のインタビューが載っていた。→こちら
昨日も尊厳死。
そして今日も尊厳死。
私には日常の、人生の最期の案内人。
家族も驚くほど静かなのは受け入れているからだ。
http://mainichi.jp/articles/20160111/ddm/002/070/094000c
毎日新聞2016年1月11日 東京朝刊
生があれば死もある。それが自然界である。
超高齢化社会は死が身近な社会だ。死が遠く、拡大発展が基調
だった社会とは違う。死を忘れて進む時代は去った。死を受け入れて
暮らす時代がきた。
フクロウの生態を活写して土門拳賞を受賞(1990年)した動物写真家
の宮崎学(66)に、「死」という表題の作品集(94年、平凡社刊)がある。
森で見つけたカモシカやシカ、タヌキの死骸にカメラを向け、腐乱、白骨化
の過程を記録。死肉をあさる獣や鳥、虫や微生物の営みを伝えている。
宮崎は伊那谷(長野県南部)で育った。フクロウのほか、ワシやタカの、
知られざる生態を撮って内外に知られた名手であり、「自然の中の死」を
見つめる思索家でもある。
なぜ、死を撮るか。
昨年暮れ、駒ケ根市の仕事場を訪ねて聞くと、写真家はこう答えた。
「お寺さんに九相図(くそうず)ってのがあるんですよ。死人を供養しないと、
犬やカラスに食われてこうなるっていう9段階の紙芝居なんだけど、現代人
こそ見るべきだと思うんですね」
九相図は、腐乱死体や白骨を凝視して肉体への執着を断つ--という
仏教説話とともに発達した。
日本では中世以来、明治初期まで仏教美術の主題だったが、近代絵画
の興隆とともにすたれた。
宮崎は言う。
「今の時代、きれいな面ばっかり見ようとするでしょ? カワイイとか、
きれいとか、そっちの方向しか見ない。でも、世界はきれいなものだけで
できてるわけじゃない、汚いものだってある。だけど、そっちの方は
見ようとしない。世の中、あまりにもヘンな方向へ行ってるんで、
これ(写真集)で見直してほしいと思ったわけです」
世界に冠たる日本の財政赤字の、最大の重荷は社会保障費であり、
医療費はその中核を占める。
もはや治療しても医学的には効果のない、老衰した超高齢者に対する
延命治療、過剰医療への疑問がささやかれて久しい。
人生の終わりのための活動を意味する「終活」が新語・流行語大賞の
トップテンに選ばれたのは2012年だった。
人生最後の医療は選択できる。「本人が判断能力を失っても、とにかく
生命を維持する」道を選ぶかどうかは、病院が決めることではない。
ましてや政府が指導することでもない。
長年、地域で在宅訪問医療に取り組んできた旧知のベテラン開業医に
言わせれば、「結局、市民の意識の問題」なのである。
宮崎は写真集「死」の巻末にこう記している。
「現代において、私たちは、死を単なる物質的な終息として教えられている。
しかし、私が撮影した自然の死は、物質的にも終息することなく、
新たな生命に引き継がれていた」
「(私は)人間が<自然界の一員>として、自然になめらかに還(かえ)って
いける道さがしを動物たちの死体によって探りたかった。生命とはなにか、
人間とはなにか、そして自然とはなんなのかということを、死体の写真を
とおして知りたかったのである……」
年始早々、開幕した国会は社会保障と増税をめぐって紛糾している。
政党は選挙重視だ。延命治療批判で憎まれたくはない。だが、それでは
超高齢化社会は成り立たぬ。財政赤字は、経済対策だけでは埋まらない。
(敬称略)=毎週月曜日に掲載
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終末期医療は、医療者の問題である前に
市民や家族の問題である。
日本には、自分の終末期に決意を表明した人が12万4千人ほどいる。
ちょうど日本人の0.1%に当たるが、そんな市民が12万人もいるのだ。
日本尊厳死協会は、そんな市民の集まりだ。
そこでは私自身もひとりの市民である。
ひとりでも多くの人がリビングウイルを表明して頂くと、空気は変わる。
0.1%が、5%になった時に、日本人の死生観は確実に成熟して行く。
リビングウイルは、2000円(年会費相当)で表明することができる。→こちら
今日、届いた会報には、ウシオ電気の牛尾会長のインタビューが載っていた。→こちら
昨日も尊厳死。
そして今日も尊厳死。
私には日常の、人生の最期の案内人。
家族も驚くほど静かなのは受け入れているからだ。
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この記事へのコメント
自分自身の年齢層にしては、同年代よりも「死」を多く見てきたのではないかと思う。
その詳細を語る気持ちになれば、各々に何かしらのドラマがあったような気がする。
死を見る度に、冷めた心境を獲得する自分を発見しているようにも思える。
と同時に深い面持ちの何か、ふっくらとした心境を獲得しているのも事実だと思う。
「死」を他人が、どうのこうのと操作しようと思うのは不遜なのではないか。
死はおろか、生きている時でもそうだ。兎角、現代は人が自由ではいられない。
「人」を操作しよう、思い通りに操ろう、という意図が垣間見える現代なのではないか?
Posted by もも at 2016年01月12日 11:34 | 返信
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