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苦しみをキャッチして返すボール

2016年01月13日(水)

小澤竹俊先生の講演を聴いているとよく「相手の苦しみをキャッチする」
という言葉を使われている。
私はキャッチしたあとどんなボールを投げ返すのかなあと思いながら聴いている。
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地域ケアリング2月号の連載。

第4回「苦しみをキャッチして返すボール」→こちら

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地域ケアリング2月号    苦しみをキャッチして返すボール
 
相手の苦しみを“キャッチ”する

 めぐみ在宅クリニックの小澤竹俊先生は講演のなかでよく「相手の苦しみをキャッチする」という言葉を使われる。この「キャッチ」という言葉の意味はよく考えると難しい。すなわち「もう死んでしまいたい」という心の叫びを、どのように受け止めるのかは想像以上の個人差があるだろう。同じ映画を観て泣く人と泣かない人がいるし、同じ音楽を聞いても感動する人としない人がいる。同じようにがんや難病という「病」に苦しんでいる人を見ても、その苦しみを「キャッチ」する力は百倍単位で異なるものだと思う。

 その「苦しみ」とは、「理想と現実のギャップ」である、と小澤先生は説かれている。「現実」は第三者でもだいたい分かるが、「理想」はその人にしか分からない領域だ。よく理想が高いとか低いというが、かなり主観的なものなので単純に高低を論じられないはず。そんなきわめて主観的なものである「苦しみ」をキャッチするためには、どんな能力が必要なのだろう。もし感受性が低いのであれば、どうすれば高めることができるのだろうか。スポーツや芸術の才能のように、いくら努力しても限界があるのだろうか。
 

どんなボールを返すのか

 仮に、相手の苦しみを上手にキャッチできた、としよう。しかしキャッチしただけでいいのだろうか。「傾聴」という言葉があるように一生懸命聴くだけでもとりあえず意味があるのだろうか。そんな疑問が湧いてくる。願わくばただキャッチするだけではなく、いいボールを返したい。ではどんなボールがいいのか。漫才のボケとツッコミではないが、できるのであれば上手なキャッチボールをしたい。でもどうすれば、いいボールを返せるようになれるのだうろうか。

 苦しみは主観的なものであるが、返す球も主観的なものである。しかしその主観的なもの同志の波長が合った時、共鳴が起こる気がする。それが信頼関係であり、医療の土台となる大切なプロセスではないだろうか。がっちりした土台を築くためには、医学の勉強だけでは無理で、さまざまな人生経験とプロとしての経験の両方が必要になる。一朝一夕にはいいボールを返せない。


 
「もう死にたい」にどう寄り添う

 若い時は「もう死にたい」と思う時があった。歳をとっても思う時がある。患者さんの中にも「もう死にたい」と言う人がいて返す言葉に窮することがある。精神科医の名越康文先生は「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という著書を書かれている。先生は「答えは仏教の中にある」と書かれているが、私も同じ考えである。もちろん仏教だけに限らずキリスト教や他の宗教においても、この根源的な命題にヒントを与えてくれるからこそ宗教の価値がある気がする。

 もちろん「どうせ死ぬのに」とは、「もしかしたらまだ死なないかもしれないし」の裏返しであり、「もう死にたい」は、「もっと生きたい」の裏返しであろう。しかしこうしたふとした時に漏れ出てくる言語の裏に隠れたメッセージを嗅ぎ取る能力は、その人が育ってきた環境や教育によってずいぶん違ったものになるだろう。様々な経験が豊富なことにこしたことはないが、余裕もあることも大切であろう。そして柏木哲夫氏によると「寄り添う」とは、下からではなく横から支えることであるという。
 

言語と非言語的コミュニケーション

 スピリチュアルペイン(霊的痛み)は目に見えないし言葉でも定義しにくい。では「そんなものは無いのか」と問われたら、それは絶対違う、と応えたい。それは私ごとで恐縮であるが、自分自身の中にも常にスピリチュアルペインを感じているからだ。月に何度かはスピリチュアルペインに押しつぶされそうになる弱く情けない人間である。きっとみなさまの心の中にも大なり小なりペインは普段からあるのだろうが、そこそこ幸せだと感じているのであれば、強く意識することは無いということだけなのか。

 スピリチュアルペインは人間だけとは限らない、と思う。犬にも猫にもある、と言えばきっと犬や猫を飼っている人なら同意するだろう。生けとし生きるものには、何らかの痛みがあるのではないかと考える。だから蚊を叩く時でも罪悪感がある。魚や肉を食べる時も同様だ。

 こうした痛みに応える手段として我々人類は「言語」を有している。だから一番便利な言葉という道具を用いて痛みを緩和したり慰めたりしている。しかし言語を持たない場合、あるのは「行動」のみである。触る、動く、祈るなど体で表現するという方法、言葉以外の方法で痛みを和らげることができる。そして心を通じ合わせることも可能だ。名作映画「ダンス・ウイズ・ウルブズ」に描かれていたのは、まさに非言語的コミュニケーションであった。もし言語的と非言語的の両面から痛みを緩和できれば素晴らしい。それが、「痛みに寄り添う」という意味だと理解しているが、いかがだろうか。
 
 
 


PS)
寒い夜ですね。

今日の診察は忙しかった。

風邪も多いけど、インフルエンザも毎日出ている。
A型もいればB型もいる。

私はワクチンしない主義なので気合い、気合い。

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この記事へのコメント

苦しみをキャッチして返すボール ・・・・・・ を読んで


長尾先生が本ブログで、『相手の苦しみを“キャッチ”して、
その上で、なるべくなら “いいボール” を返したい。
“いいボール”を返すスキルをどうしたら磨けるのだろう?』
と書かれているのを読んで、そのような気持で患者と接して
くれる町医者さんが居る尼崎は、なんて恵まれた地域なんだろ
うと羨ましく思っています。


私の住む神戸にも、そのようなお医者さんが居てくれればいい
のに! と思いながら、その一方において、長尾先生も本ブログ
に書かれているように、苦しみの捉え方や訴え方が主観的なも
のであり、支える側の理解や対応も主観的なものであること。

元気な時と、病に苦しんで心が弱くなっている時とでは、同じ
人でも考え方も変わるのでは? と考えると、長尾先生の仰っ
ている “いいボール” を返すスキルというものものが実際に
あるのだろうか? という疑問が頭をもたげてきます。


同じことを言われても、元気な時と元気を失っている時と
では感じ方も反応も違うような気がします。


であるならば、積極的に“いいボール”を返すスキルを磨く
ことよりも、“どんなボール”が投げかけられても、いつでも
きちんと受けとめること ・・・・・・ で充分なような気もします。


長尾先生の言われている“いいボール”を返すスキルが、時
折講演会などで耳にする“ユマニチュード”であり“バリデ
ーション”であり、上智大学を中心として活動している“グ
リーフケア”と言うことになるのでしょうが、人によっては
積極的な働き掛けが逆効果になることを考えると、ブログに
ある“ 傾聴:すぐそばにいて、思いを聴き共感を示す ” と
いうことが、ぎりぎり万人に受け容れられるスキルというこ
となのかもしれません。


今回のブログで、とても大切な気づきを頂戴しましたので、
デーケンさんやシスター高木先生の広められている“グリーフ
ケア”や“バリデーション”について、今一度考えてみたいと
思います。 ありがとうございます。

Posted by 小林 文夫 at 2016年01月13日 08:23 | 返信

感受性とは、少なくとも "頭デッカチ" では無いということだと思う。
心を打たれた時には、自ずと言葉を飲み込む心境になる。
オーケストラの演奏の後に、必ずや壁に反響する微かな音の余韻に耳を澄ますかのような
間合いが生ずる。もしかしたら、その余韻の音は室内に反響する実際の「音」ではなくて
自身の心の奥に留まった音を、自分が本当に、しかと受け止める事ができたのか否かを
確認するかのような作業の時間、そんな空白の間合いがある。
オーケストラ鑑賞の機会に、否、ジャンルを問わずとも、感動を共有しようと思う時に
必ずや、美学が生じると思う。

Posted by もも at 2016年01月13日 06:37 | 返信

本当に寄り添う気持ちを抱いた時には、言葉は陳腐でしかないかも知れない、と時に思います。
人の「苦しみをキャッチ」したつもりではいても、それが合致する事は不可能だと思っていた方が
自然に近いような気がします。けれども苦しみの渦中にある人のセンサーに、いくらかの温かみが
捉えられた時に、たとえ僅かながらであったとしても、頑な心に緩みをもたらす事ができたので
あれば、それが意思疎通のための "プレイボール"の合図なのでしょうか、漠然とした感覚ですが
そのように思っています。

Posted by もも at 2016年01月14日 12:52 | 返信

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