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無常の中にある終活
2016年02月21日(日)
終活ってなんだろう?
そんなものしてもしなくても、どうせ死ぬんだから。
そう言われると、ホントそのとうりだと思うわけで・・・
そんなものしてもしなくても、どうせ死ぬんだから。
そう言われると、ホントそのとうりだと思うわけで・・・
「新薬と臨床」という医学雑誌の新年号に
長々と自分の貧弱な死生観を書かせて頂いた。→ こちら
「何を書いてもいい」と言われたから本音を書いただけ。
とんでもない内容であるが、本当なので仕方がない。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
無常の中にある終活 長尾和宏
2000の死からの学び
私は一般財団法人・日本尊厳死協会副理事長、日本ホスピス在宅ケア研究会理事、エンドオブライフ協会理事を拝命していることもあり、尊厳死や平穏死に関する著書が10冊ほどある。また様々なメデイアに終末期医療に関する何百本もの記事を書いている。書店や私のオフィシャルサイトに全てが保存されているので興味のある方はそちらをご覧い頂きたい。今回、「私の死生観」という直球を投げて頂いた。願ってもいない機会を頂いたので、まだどこにも書いていないことを中心に書いてみたい。本稿では美談や綺麗ごとは廃して、極めて個人的な死についての話を書かせて頂く失礼をお許し願いたい。
勤務医時代に1000人以上の病院死を、20年前に開業医になってからは約900人の在宅死を見てきた。あわせて約2000人の最期を見てきたが、どれもひとつひとつが大きな本になるような“物語”であり、千人千様である。とても普遍化できるものではないが、大雑把な話をさせて頂くと、病院での延命死と在宅での平穏死は天国と地獄であった。すなわち在宅での平穏死=自然死=尊厳死であり、端的にいえば枯れて死ぬことだ。一方、病院死とは溺れ死にである。両者の体重差は10kg以上ある、と言った方が分り易いかもしれない。最期の10日間に1日2リットルの点滴をするかしないか、すなわち20リットルの水分を入れるか入れないか、と言ったほうがピンとくるかもしれない。無知だった勤務医時代に溺れさせて管まみれにして苦しませて見送った1000人の患者さんへの懺悔が本を書く動機になっている。枯れたほうが痰や咳で苦しむことや苦痛が圧倒的に少なく、かつ長生きできるのでいいことばかりだ。しかしなぜそのいいことばかりの「枯れて死ぬこと」が約2割の人しかできないのかを一緒に考えてみたい。
父の自死というトラウマ
私は恥ずかしながら17歳まで死を考えたことが無く平凡な高校生だった。しかし高校3年のある日、うつ病で入退院を繰り返していた父親が京都のある神社の裏山で自死した。警察から連絡を頂き、死後数日経ちこれから火葬場に向かうという父の顔を1週間ぶりに見た。遺体は警察署の片隅にある物置のような場所にあった。父の顔を見た“瞬間”から、私のその後の人生の全てが変わった。「死んだら終わり」と心の底から思った。高校に行かなくなり大学受験にも失敗し、フリーター人生となった。母子家庭ということで周囲の勧めもあり自動車会社のラインで働くことになった。死ぬほど酒を飲み(今でもそうだが)、暴走族のようにバイクを飛ばし、いつ死んでもいい、と思いながら20代を生きていた。30歳までに死ぬ予定であった。特に理由も無くそう確信しながら「刹那的」に生きていた。いや、今もそうかもしれない。大学に入ってもほとんど学校に行かず、バイト、無医地区活動、野球、酒の4つの繰り返しの無茶苦茶な6年間を過していた。
医者になったその日がら2年間、新大阪にある小さな救急病院でほとんど毎日当直しながら不眠不休で働き続けた。「いつ死んでもいい、今日なら本望」と思っていた。おかげで卒後2年で自分の臨床能力はピークをほぼピークを迎えたが、死ななかった。常に「死」を意識しながらも、自分で死ぬということだけはしない、と心に誓っていた。
尾崎豊が亡くなった夜のことは一生忘れない。私は立芦屋病院の勤務医だった。「先に野垂れ死にされてしまった」と、やけくそで後輩を引き連れて朝までカラオケを歌っていた。こうした虚無感、厭世感は結婚しても子供が生まれても変わらず、「慢性うつ病」と自己診断しながら生きて40歳を迎えた。しかし40代後半から、「死にたい病」が少しづつ収まってきた。それは親父が亡くなった48歳をもしかしたら超えられるのではないか、と思い始めたからだ。そして見事、48歳を超え、50の大台を迎えた。嬉しくてリッツカールトンホテルで生前葬をした。昨年、開業19周年パーテイを盛大の開催したが、これは「20周年は無いよ」というメッセージであった。しかし今年20周年を迎えてしまい、また20周年パーテイをすることになった。
現在57歳だが、怠惰な大学生のように不摂生そのものを生きている。しかし体が丈夫なのか頑張り屋さんなのか、一度も病気や怪我になることもなく生きている。ここまで来てはじめて「長生きしたい」という願望が芽生えつつある。私という人間は欲深いものだ、とつくづく思う。私の人生は、常に親父のトラウマの中での「あがき」であった。現在もそうである。「なぜ、ここまで死の本ばかり書くのか?」とよく質問されるが理由は実に単純である。トラウマやコンプレックスが自分を動かしてきた。
なぜ医者と坊主は往生際が悪いのか?
簡単に「終末期」や「余命」という文字が躍る時代になったけれど、終末期も余命も分からないと思いながら生きている。講演を依頼され会場に足を運ぶと、「自分らしい最期を考える」とか「終末期医療の現状と課題」といった垂れ幕がかかっている。主催者が気をきかせて私が話をしやすいであろう演題をつけて頂いたのだ。しかし本音を言えば、「自分らしい」って何だろう、終末期に医療を受けるつもりがない人に「終末期医療」の話をして何になるのだろう、なんて考えてしまう。さらによく「穏やかな最期」と言われるが、「穏やか」とはいったい何だろう。自分が穏やかなのか、家族なのか、医療者が穏やかなのか、なんて思ってしまう。
平穏死、尊厳死、安楽死と「死」に勝手に形容詞をつけて話をするが、心の中では「死」は死でしかなく、それ以上でもそれ以下ではないと思っている。まして病院ではQOD(死の質)が議論されているが、ここまで来ると笑いものだと内心思っている。しかし演題にQODを入れて頂いた主催者に失礼にならないようには一応、話す。しかし話しながら、「QODは医療者さえいなければすぐに上がる」という本音を言いそうになる。「あなたさえいなければ・・・」という世界であるが実際に口にしたら大変なことになる。多くの医療者は、自分自身が患者さんの終末期の尊厳を奪っていることに気がついていない。そこで「犯人は私だった」(日本医事新報社)という本を書いた。患者は医者には本音は言わない。お世辞に自己満足しているのが医者である。常に三人称として死を見ているので、二人称(家族)、そして一人称の死の話になると家族以上にパニックになる。それが医者だ。
医者と坊主は往生際が悪い、と思う。それは死を見る機会が圧倒的に多い職種だからだ。
ただし、それらは三人称の死であるので、相対的に一人称の死に弱くなる。近く「なぜ医者と坊主は往生際が悪いのか?」という本が世に出るので興味のある方には、ご笑読頂きたい。
台湾の終末期医療に大いに学ぶべし
日本のすぐ隣にありながら正式な国交が無い台湾の終末期医療についてご紹介したい。ご縁あり2014年に2回、2015年に2回台湾を訪問し、「台湾の終末期医療に大いに学ぶべし」との意を強くしている。
仁徳医専という医療系の専門学校を訪問し「死亡体験カリキュラム」を体験した。ここには死を教えるための独立した建物があり数人の選任スタッフが配置されている。立派な葬儀場や遺言室や納棺体験室や遺体の洗浄訓練室まであり、何日かかけて18歳の医学を志す学生たちに死の教育を行う体制を整えている。子供たちはこれを体験すると、号泣しながら厚いレポートを書くという。その後は、人が変わったように勉学に励むそうだ。つまり台湾の医学・看護教育は死を教えることから始まる。
一方、日本の医学教育は遺体解剖から始まるので、死に至るまでの物語は皆無である。これだけ高齢者が増えても、老年科があるのは全国80ある医学部のうち20と4分の1に過ぎない。この数字を見ただけでも、日本の医学教育の土台が間違っていることが分かるだろう。
医師になってからの研修や生涯教育の中でもほとんど無く、自分自身が一番往生際の悪い死に方で死んでゆくという人が多い。そんな医者が主治医であるなら、QODが低いのは当然である。日本社会のみならず日本の医学界、医療界において「死」はタブーであり続けている。特に病院の世紀となったこの40年間は、死はどこか見えないところに隠されたまま現在に至っている。これだけの多死社会にもかかわらず死を一度も見たことが無い、という50代60代が増えている。彼らに親の在宅看取りを強いられているが受け入れは厳しい。また死を考えたこともない、20代30代の介護職が施設での看取りをしなさい、と国は言っているが教育が無い中での政策誘導は無理があると思う。
病院では、死は常に想定外であり敗北である。だから様々な延命治療を最期の最期まで行い、管だらけにして亡くなっても、それはいいことをしたか、仕方が無い、と考えている。一方、在宅では、死は想定内として食べること、移動すること、そして笑うことを支えることを多職種で行う。両者はまさに対極であるが、哀しいかな両者の交流はあまり無い。私は日本慢性期医療協会という療養病床の理事も拝命しているが、在宅医療と病院の架け橋になれればという想いでやっている。病院も変わって欲しい、と願いるとどんどん変わるのでとても遣り甲斐、感じている。「平穏死」に関する拙書を病院の医療者たちが読んでくれることがなによりも嬉しい。自分の父が受けた病院医療にリベンジするために40年間を費やし、ようやく光明が差してきたような気がする。
自分に「終末期」はあるのか
在宅ホスピス医仲間が集まって飲んでいた時、酔って「自分はどんな病気でどう死にたいか」という話題になった。がんで家で死にたい医者や認知症で施設で死にたい医者など、当然といえば当然だが、在宅医たちの死生観は十人十色であった。
私の順番が来て聞かれたのでこう答えた。「どんな病気でも死期が近いと思ったらインドに行って、ガンジス川の近くで身を投げるか野垂れ死にしたい」と。いい答えだと自分では思ったが、仲間は沈黙してスルーされた。もしかしたら、「好ましくない死に方」「在宅ホスピス医にあるまじき死生観」を口にしたのであろうか。今でもよく分らない。半分冗談でそうは言ったものの本当は「自分には終末期はない」可能性が高いと思っている、つまり何らかの理由で突然死するのではないかと。心筋梗塞、くも膜下出血、事故死、腹上死(これは冗談)など。さすがに「自死」は無い。ご承知のように95%の人は終末期を経て死に至る。しかし残り5%の人には終末期は無い。東北の震災の犠牲者二万人には誰ひとり終末期が無いまま死に至っている。
日本尊厳死協会の役員として国会の議員会館などで終末期医療やリビングウイルについて説いている。拙籍がベストセラーになり全国各地から講演の依頼を受けては「終末期」について語ってはいる。しかし少し悲しい話だが自分自身の終末期は無いだろう、と思いながら話をしている。
あの世はあるのか?
講演などでよく「死後の世界はあるのか?」というテーマで話される講師がいる。一般の人のアンケートでは7~8割くらいの人は「ある」か「無いかもしれないがあって欲しい」と答える。ちなみに私は「ない」、「あるわけない」派である。
講演では「あの世がある」という話のほうが聴衆が納得し安心される。医者がそんな本を書くとよく売れる。あるいは「無いかもしれないがあるかもしれない、あって欲しい」と言えば多くの患者や市民に希望を与えることができる。だから時として在宅ホスピスの現場では、看取りのプロとしてあまり心にもないことを言わなければならない場面がある。それで相手や家族が喜んでくれればそれでいい、と思っていて「嘘」をついているので、罪悪感は無い。しかし本稿のように正面切って問われれば、本音を話さないといけない。
私の疑問はなぜ多くの人が「あの世はある」と思いたがるのか、という点に集約される。臨床宗教師も有名な在宅ホスピス医もどなたも「あの世はある」、「お迎え現象はある」という話をされ聴衆の喝采を受ける。私は父のトラウマから40年経ってもあまり抜けだせていないようで、「あの世は無い」派で一点の疑問もなかった。そう言い切るとよく「あなたは冷たい人だ」とか「それはあなたは強い人だから。普通の人は弱いのであの世があると思わないと生きていけないのだ」と言われる。
でも果たしてそうなのだろうか。自分はとても弱い人間だと思っているのでそうした指摘は腑に落ちない。そもそも仏陀が説いた原始仏教では「あの世は無い」ではなかったのか。なのになぜ「あの世はある」と言ったほうが受けがいいのだろうか。あの世が無いからこの世でしっかり生きよう、ではなぜいけないのか。果たして私がおかしいのだろうか。もしかしたら17歳のトラウマからまだ抜け出せていないだけなのだろうか。
川島なお美さんはなぜ死んだ
川島なお美さんが2015年9月の胆管がんのため54歳で亡くなられた。彼女の死後、彼女の2年間の闘病生活を振り返った。彼女は毎年PET-CTでがん検診を受けていた。2013年の夏、肝臓に1.7cmの腫瘍が指摘された手術を勧められたが良悪性が確定していなかったのと舞台を優先したこともあり、2014年の1月に腹腔鏡手術を受けたれた。しかし果たしてその後再発して術後1年半後のこの世を去った。毎年PETを含むがん検診を受けて最高技術の手術で完治せしめたかと思いきや亡くなられたのだ。医療、医学の限界を感じる経過であった。
彼女が素晴らしいのは、手術前に死を覚悟して遺書を書かれたことだ。手術が成功した後も一切それを公表ぜず舞台に立ち続け、再発して死が確実になってからもそれを通したことだ。亡くなる3週間前のパーテイでも痩せた姿ではあるが笑顔を振りまいたことには恐れ入った。そして亡くなる1週間前まで舞台に立ち続けたのだ。あっぱれ、川島なお美ではあるが私には到底真似のできない生き方、逝き方であると思った。彼女は終末期を自分で悟り、まさに自分らしく生き抜いた。優しい夫の献身的な介護があったからではあろうが、考えさされる。
川島なお美さんのセレブな生活を見ながら同じ時代を生きた人間として彼女のことを「得な人」だと思っていた。 しかし彼女の死後、病状経過の詳細を知るにつけ「損な人」だと思った。私が損か得か、と思う理由は極めて単純。「今、生きているかどうか」だけである。「今生きているだけで絶対的に得である」と信じている。しかし損ではあるが、死の瞬間から消えるので絶対的存在として、その人を知る人の頭の中で時には半永久的に生き続けるものになる。だから死ぬその人には死後の世界は無いが、他者にはある、ということになる。
57歳を生きる自分にとって毎夜考えることは「明日、自分は生きているのだろうか」である。「もし死んでいたらどうなるのだろう」と考えながら眠りにつく。間違っても明るい未来を考えることはない。山田風太郎先生(東京医大の先輩)の「あと千回の晩飯」の気分である。親父が早世した子供は、終生自分もそうなるのでは、という潜在的恐怖からなかなか抜け出せないのであろう。
無常と終活
医療者からは終末期医療で、市民から終活に関するイベントや講演に呼んで頂き、平穏死の話をしまくったこの3年間だった。また朝日新聞電子版アピタルには2000日連続で平穏死や在宅医療についての記事を書いた。単純計算すれば分かるように5年以上かかった。実は、産経新聞・兵庫版にも生と死について連載して6年が経過した。医療系としては日本医事新報や医療タイムスにも5年間、さらに介護系の雑誌にも数冊、連載で、沢山の終末期について書きつづってきた。そんな私が思うことは、いまさら言うのもなんだが、「終活はどこまで役にたつのか」という疑問である。
人生も病気も医療も終末期もすべて予測できないと認識している。万物は流転し、不確実性こそが人生の本質ではないかと。そんなことで思い悩んだりノイローゼになる人を見るたびに思うのは「今を楽しむこと」に専念したほうが「得」ではないかと。精神科医の名越先生が「どうせ生きるのになぜ生きるのか」という本で述べられているように、結局は仏教的な教えに辿りつくような気がする。あるいは瞑想や古武道という行為に還元されるのではないだろうか。
しかし死生観を持つな、平穏死なんて考えなくていい、と言っているのではない。もしもの時を考え、備えておくにこしたことが無いのは「防災」とよく似ている。しかし自然は残酷で、人間の企みとは無関係に、時には容赦なく裏切っていく。つまり医療に限らずこの世は、“無常”である、としか言えない。死を全く考えないのは良くない、しかし考えすぎるのも良くない。現代日本人は多死社会なのに死を見たことが無い人たちで溢れているがこれは異常だと思う。こうした偏りに一石を投ずるべく、活動しているだけであり、それ以上でもそれ以下でも無いと思っている。
以上、本稿は「私の死生観」ということなので自由きままに書かせて頂いた。誰かの参考になれば幸いである。
長々と自分の貧弱な死生観を書かせて頂いた。→ こちら
「何を書いてもいい」と言われたから本音を書いただけ。
とんでもない内容であるが、本当なので仕方がない。
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無常の中にある終活 長尾和宏
2000の死からの学び
私は一般財団法人・日本尊厳死協会副理事長、日本ホスピス在宅ケア研究会理事、エンドオブライフ協会理事を拝命していることもあり、尊厳死や平穏死に関する著書が10冊ほどある。また様々なメデイアに終末期医療に関する何百本もの記事を書いている。書店や私のオフィシャルサイトに全てが保存されているので興味のある方はそちらをご覧い頂きたい。今回、「私の死生観」という直球を投げて頂いた。願ってもいない機会を頂いたので、まだどこにも書いていないことを中心に書いてみたい。本稿では美談や綺麗ごとは廃して、極めて個人的な死についての話を書かせて頂く失礼をお許し願いたい。
勤務医時代に1000人以上の病院死を、20年前に開業医になってからは約900人の在宅死を見てきた。あわせて約2000人の最期を見てきたが、どれもひとつひとつが大きな本になるような“物語”であり、千人千様である。とても普遍化できるものではないが、大雑把な話をさせて頂くと、病院での延命死と在宅での平穏死は天国と地獄であった。すなわち在宅での平穏死=自然死=尊厳死であり、端的にいえば枯れて死ぬことだ。一方、病院死とは溺れ死にである。両者の体重差は10kg以上ある、と言った方が分り易いかもしれない。最期の10日間に1日2リットルの点滴をするかしないか、すなわち20リットルの水分を入れるか入れないか、と言ったほうがピンとくるかもしれない。無知だった勤務医時代に溺れさせて管まみれにして苦しませて見送った1000人の患者さんへの懺悔が本を書く動機になっている。枯れたほうが痰や咳で苦しむことや苦痛が圧倒的に少なく、かつ長生きできるのでいいことばかりだ。しかしなぜそのいいことばかりの「枯れて死ぬこと」が約2割の人しかできないのかを一緒に考えてみたい。
父の自死というトラウマ
私は恥ずかしながら17歳まで死を考えたことが無く平凡な高校生だった。しかし高校3年のある日、うつ病で入退院を繰り返していた父親が京都のある神社の裏山で自死した。警察から連絡を頂き、死後数日経ちこれから火葬場に向かうという父の顔を1週間ぶりに見た。遺体は警察署の片隅にある物置のような場所にあった。父の顔を見た“瞬間”から、私のその後の人生の全てが変わった。「死んだら終わり」と心の底から思った。高校に行かなくなり大学受験にも失敗し、フリーター人生となった。母子家庭ということで周囲の勧めもあり自動車会社のラインで働くことになった。死ぬほど酒を飲み(今でもそうだが)、暴走族のようにバイクを飛ばし、いつ死んでもいい、と思いながら20代を生きていた。30歳までに死ぬ予定であった。特に理由も無くそう確信しながら「刹那的」に生きていた。いや、今もそうかもしれない。大学に入ってもほとんど学校に行かず、バイト、無医地区活動、野球、酒の4つの繰り返しの無茶苦茶な6年間を過していた。
医者になったその日がら2年間、新大阪にある小さな救急病院でほとんど毎日当直しながら不眠不休で働き続けた。「いつ死んでもいい、今日なら本望」と思っていた。おかげで卒後2年で自分の臨床能力はピークをほぼピークを迎えたが、死ななかった。常に「死」を意識しながらも、自分で死ぬということだけはしない、と心に誓っていた。
尾崎豊が亡くなった夜のことは一生忘れない。私は立芦屋病院の勤務医だった。「先に野垂れ死にされてしまった」と、やけくそで後輩を引き連れて朝までカラオケを歌っていた。こうした虚無感、厭世感は結婚しても子供が生まれても変わらず、「慢性うつ病」と自己診断しながら生きて40歳を迎えた。しかし40代後半から、「死にたい病」が少しづつ収まってきた。それは親父が亡くなった48歳をもしかしたら超えられるのではないか、と思い始めたからだ。そして見事、48歳を超え、50の大台を迎えた。嬉しくてリッツカールトンホテルで生前葬をした。昨年、開業19周年パーテイを盛大の開催したが、これは「20周年は無いよ」というメッセージであった。しかし今年20周年を迎えてしまい、また20周年パーテイをすることになった。
現在57歳だが、怠惰な大学生のように不摂生そのものを生きている。しかし体が丈夫なのか頑張り屋さんなのか、一度も病気や怪我になることもなく生きている。ここまで来てはじめて「長生きしたい」という願望が芽生えつつある。私という人間は欲深いものだ、とつくづく思う。私の人生は、常に親父のトラウマの中での「あがき」であった。現在もそうである。「なぜ、ここまで死の本ばかり書くのか?」とよく質問されるが理由は実に単純である。トラウマやコンプレックスが自分を動かしてきた。
なぜ医者と坊主は往生際が悪いのか?
簡単に「終末期」や「余命」という文字が躍る時代になったけれど、終末期も余命も分からないと思いながら生きている。講演を依頼され会場に足を運ぶと、「自分らしい最期を考える」とか「終末期医療の現状と課題」といった垂れ幕がかかっている。主催者が気をきかせて私が話をしやすいであろう演題をつけて頂いたのだ。しかし本音を言えば、「自分らしい」って何だろう、終末期に医療を受けるつもりがない人に「終末期医療」の話をして何になるのだろう、なんて考えてしまう。さらによく「穏やかな最期」と言われるが、「穏やか」とはいったい何だろう。自分が穏やかなのか、家族なのか、医療者が穏やかなのか、なんて思ってしまう。
平穏死、尊厳死、安楽死と「死」に勝手に形容詞をつけて話をするが、心の中では「死」は死でしかなく、それ以上でもそれ以下ではないと思っている。まして病院ではQOD(死の質)が議論されているが、ここまで来ると笑いものだと内心思っている。しかし演題にQODを入れて頂いた主催者に失礼にならないようには一応、話す。しかし話しながら、「QODは医療者さえいなければすぐに上がる」という本音を言いそうになる。「あなたさえいなければ・・・」という世界であるが実際に口にしたら大変なことになる。多くの医療者は、自分自身が患者さんの終末期の尊厳を奪っていることに気がついていない。そこで「犯人は私だった」(日本医事新報社)という本を書いた。患者は医者には本音は言わない。お世辞に自己満足しているのが医者である。常に三人称として死を見ているので、二人称(家族)、そして一人称の死の話になると家族以上にパニックになる。それが医者だ。
医者と坊主は往生際が悪い、と思う。それは死を見る機会が圧倒的に多い職種だからだ。
ただし、それらは三人称の死であるので、相対的に一人称の死に弱くなる。近く「なぜ医者と坊主は往生際が悪いのか?」という本が世に出るので興味のある方には、ご笑読頂きたい。
台湾の終末期医療に大いに学ぶべし
日本のすぐ隣にありながら正式な国交が無い台湾の終末期医療についてご紹介したい。ご縁あり2014年に2回、2015年に2回台湾を訪問し、「台湾の終末期医療に大いに学ぶべし」との意を強くしている。
仁徳医専という医療系の専門学校を訪問し「死亡体験カリキュラム」を体験した。ここには死を教えるための独立した建物があり数人の選任スタッフが配置されている。立派な葬儀場や遺言室や納棺体験室や遺体の洗浄訓練室まであり、何日かかけて18歳の医学を志す学生たちに死の教育を行う体制を整えている。子供たちはこれを体験すると、号泣しながら厚いレポートを書くという。その後は、人が変わったように勉学に励むそうだ。つまり台湾の医学・看護教育は死を教えることから始まる。
一方、日本の医学教育は遺体解剖から始まるので、死に至るまでの物語は皆無である。これだけ高齢者が増えても、老年科があるのは全国80ある医学部のうち20と4分の1に過ぎない。この数字を見ただけでも、日本の医学教育の土台が間違っていることが分かるだろう。
医師になってからの研修や生涯教育の中でもほとんど無く、自分自身が一番往生際の悪い死に方で死んでゆくという人が多い。そんな医者が主治医であるなら、QODが低いのは当然である。日本社会のみならず日本の医学界、医療界において「死」はタブーであり続けている。特に病院の世紀となったこの40年間は、死はどこか見えないところに隠されたまま現在に至っている。これだけの多死社会にもかかわらず死を一度も見たことが無い、という50代60代が増えている。彼らに親の在宅看取りを強いられているが受け入れは厳しい。また死を考えたこともない、20代30代の介護職が施設での看取りをしなさい、と国は言っているが教育が無い中での政策誘導は無理があると思う。
病院では、死は常に想定外であり敗北である。だから様々な延命治療を最期の最期まで行い、管だらけにして亡くなっても、それはいいことをしたか、仕方が無い、と考えている。一方、在宅では、死は想定内として食べること、移動すること、そして笑うことを支えることを多職種で行う。両者はまさに対極であるが、哀しいかな両者の交流はあまり無い。私は日本慢性期医療協会という療養病床の理事も拝命しているが、在宅医療と病院の架け橋になれればという想いでやっている。病院も変わって欲しい、と願いるとどんどん変わるのでとても遣り甲斐、感じている。「平穏死」に関する拙書を病院の医療者たちが読んでくれることがなによりも嬉しい。自分の父が受けた病院医療にリベンジするために40年間を費やし、ようやく光明が差してきたような気がする。
自分に「終末期」はあるのか
在宅ホスピス医仲間が集まって飲んでいた時、酔って「自分はどんな病気でどう死にたいか」という話題になった。がんで家で死にたい医者や認知症で施設で死にたい医者など、当然といえば当然だが、在宅医たちの死生観は十人十色であった。
私の順番が来て聞かれたのでこう答えた。「どんな病気でも死期が近いと思ったらインドに行って、ガンジス川の近くで身を投げるか野垂れ死にしたい」と。いい答えだと自分では思ったが、仲間は沈黙してスルーされた。もしかしたら、「好ましくない死に方」「在宅ホスピス医にあるまじき死生観」を口にしたのであろうか。今でもよく分らない。半分冗談でそうは言ったものの本当は「自分には終末期はない」可能性が高いと思っている、つまり何らかの理由で突然死するのではないかと。心筋梗塞、くも膜下出血、事故死、腹上死(これは冗談)など。さすがに「自死」は無い。ご承知のように95%の人は終末期を経て死に至る。しかし残り5%の人には終末期は無い。東北の震災の犠牲者二万人には誰ひとり終末期が無いまま死に至っている。
日本尊厳死協会の役員として国会の議員会館などで終末期医療やリビングウイルについて説いている。拙籍がベストセラーになり全国各地から講演の依頼を受けては「終末期」について語ってはいる。しかし少し悲しい話だが自分自身の終末期は無いだろう、と思いながら話をしている。
あの世はあるのか?
講演などでよく「死後の世界はあるのか?」というテーマで話される講師がいる。一般の人のアンケートでは7~8割くらいの人は「ある」か「無いかもしれないがあって欲しい」と答える。ちなみに私は「ない」、「あるわけない」派である。
講演では「あの世がある」という話のほうが聴衆が納得し安心される。医者がそんな本を書くとよく売れる。あるいは「無いかもしれないがあるかもしれない、あって欲しい」と言えば多くの患者や市民に希望を与えることができる。だから時として在宅ホスピスの現場では、看取りのプロとしてあまり心にもないことを言わなければならない場面がある。それで相手や家族が喜んでくれればそれでいい、と思っていて「嘘」をついているので、罪悪感は無い。しかし本稿のように正面切って問われれば、本音を話さないといけない。
私の疑問はなぜ多くの人が「あの世はある」と思いたがるのか、という点に集約される。臨床宗教師も有名な在宅ホスピス医もどなたも「あの世はある」、「お迎え現象はある」という話をされ聴衆の喝采を受ける。私は父のトラウマから40年経ってもあまり抜けだせていないようで、「あの世は無い」派で一点の疑問もなかった。そう言い切るとよく「あなたは冷たい人だ」とか「それはあなたは強い人だから。普通の人は弱いのであの世があると思わないと生きていけないのだ」と言われる。
でも果たしてそうなのだろうか。自分はとても弱い人間だと思っているのでそうした指摘は腑に落ちない。そもそも仏陀が説いた原始仏教では「あの世は無い」ではなかったのか。なのになぜ「あの世はある」と言ったほうが受けがいいのだろうか。あの世が無いからこの世でしっかり生きよう、ではなぜいけないのか。果たして私がおかしいのだろうか。もしかしたら17歳のトラウマからまだ抜け出せていないだけなのだろうか。
川島なお美さんはなぜ死んだ
川島なお美さんが2015年9月の胆管がんのため54歳で亡くなられた。彼女の死後、彼女の2年間の闘病生活を振り返った。彼女は毎年PET-CTでがん検診を受けていた。2013年の夏、肝臓に1.7cmの腫瘍が指摘された手術を勧められたが良悪性が確定していなかったのと舞台を優先したこともあり、2014年の1月に腹腔鏡手術を受けたれた。しかし果たしてその後再発して術後1年半後のこの世を去った。毎年PETを含むがん検診を受けて最高技術の手術で完治せしめたかと思いきや亡くなられたのだ。医療、医学の限界を感じる経過であった。
彼女が素晴らしいのは、手術前に死を覚悟して遺書を書かれたことだ。手術が成功した後も一切それを公表ぜず舞台に立ち続け、再発して死が確実になってからもそれを通したことだ。亡くなる3週間前のパーテイでも痩せた姿ではあるが笑顔を振りまいたことには恐れ入った。そして亡くなる1週間前まで舞台に立ち続けたのだ。あっぱれ、川島なお美ではあるが私には到底真似のできない生き方、逝き方であると思った。彼女は終末期を自分で悟り、まさに自分らしく生き抜いた。優しい夫の献身的な介護があったからではあろうが、考えさされる。
川島なお美さんのセレブな生活を見ながら同じ時代を生きた人間として彼女のことを「得な人」だと思っていた。 しかし彼女の死後、病状経過の詳細を知るにつけ「損な人」だと思った。私が損か得か、と思う理由は極めて単純。「今、生きているかどうか」だけである。「今生きているだけで絶対的に得である」と信じている。しかし損ではあるが、死の瞬間から消えるので絶対的存在として、その人を知る人の頭の中で時には半永久的に生き続けるものになる。だから死ぬその人には死後の世界は無いが、他者にはある、ということになる。
57歳を生きる自分にとって毎夜考えることは「明日、自分は生きているのだろうか」である。「もし死んでいたらどうなるのだろう」と考えながら眠りにつく。間違っても明るい未来を考えることはない。山田風太郎先生(東京医大の先輩)の「あと千回の晩飯」の気分である。親父が早世した子供は、終生自分もそうなるのでは、という潜在的恐怖からなかなか抜け出せないのであろう。
無常と終活
医療者からは終末期医療で、市民から終活に関するイベントや講演に呼んで頂き、平穏死の話をしまくったこの3年間だった。また朝日新聞電子版アピタルには2000日連続で平穏死や在宅医療についての記事を書いた。単純計算すれば分かるように5年以上かかった。実は、産経新聞・兵庫版にも生と死について連載して6年が経過した。医療系としては日本医事新報や医療タイムスにも5年間、さらに介護系の雑誌にも数冊、連載で、沢山の終末期について書きつづってきた。そんな私が思うことは、いまさら言うのもなんだが、「終活はどこまで役にたつのか」という疑問である。
人生も病気も医療も終末期もすべて予測できないと認識している。万物は流転し、不確実性こそが人生の本質ではないかと。そんなことで思い悩んだりノイローゼになる人を見るたびに思うのは「今を楽しむこと」に専念したほうが「得」ではないかと。精神科医の名越先生が「どうせ生きるのになぜ生きるのか」という本で述べられているように、結局は仏教的な教えに辿りつくような気がする。あるいは瞑想や古武道という行為に還元されるのではないだろうか。
しかし死生観を持つな、平穏死なんて考えなくていい、と言っているのではない。もしもの時を考え、備えておくにこしたことが無いのは「防災」とよく似ている。しかし自然は残酷で、人間の企みとは無関係に、時には容赦なく裏切っていく。つまり医療に限らずこの世は、“無常”である、としか言えない。死を全く考えないのは良くない、しかし考えすぎるのも良くない。現代日本人は多死社会なのに死を見たことが無い人たちで溢れているがこれは異常だと思う。こうした偏りに一石を投ずるべく、活動しているだけであり、それ以上でもそれ以下でも無いと思っている。
以上、本稿は「私の死生観」ということなので自由きままに書かせて頂いた。誰かの参考になれば幸いである。
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この記事へのコメント
長尾和宏様へ
魂からの文面に接し、心が痛いような、なんとも表現しきれない深い心の "ひだ" を感じ得て
苦しいような心境に陥ります。心の底からのカミングアウトとも読めるようでもあり、静かに
読み込むには切ない心境に陥ってしまいそうで、一字一字を読むことは辛くなりそうな気もして
流して読むしかできませんでした。
時に、沢山の聴衆を前にして、歓迎の喝采を浴びたとしても、どこか居心地の悪そうな、照れとも
違う面持ちを見て感じたこともありました。
人は "ある時のリベンジ"を試みて生きるのだと、同感です。
人の心の傷は、概して、覆い隠すことができたように思えたとしても、
けして埋めることは叶わない、と、傷を負った本人が百も承知しているのが人生であると思います。
そんな心境を公然と吐露してしまう長尾先生が偉大なのです。
様々な苦悩の末に、医師という社会的に絶対的な立場に至ったからなのでしょうか。
無垢な心境を手に入れられた長尾和宏様に、憧れます。
Posted by もも at 2016年01月12日 11:07 | 返信
身内の自殺を、おおやけに語れる人って、幸せな人だなぁと、思う。
Posted by 匿名 at 2016年01月13日 12:01 | 返信
無常の中にある終活 ・・・・・・ を読んで
長尾先生の終活論を興味深く読ませて戴きました。
大部分のところには共感を覚えるものの、ブログの
枕のところで『終活ってなんだろう ? そんなもの
していなくても、どうせ死ぬんだから ・・・・ 』という
部分には、多少の違和感を感じました。
その部分について私は、『人間必ず(例外なく)死ぬの
だから、どのように死んで行くかについて考えておく
ことは大切なこと = 終活は重要! 』と考えています。
あの世があるのか? ないのか? どう考えるかはそれ
ぞれの人の考えとして、もしあの世があるとしても、この
世に居る限りあの世のことは感知出来ず、あの世に行った
らこの世から切り離されるとしたら、連続したものとし
て考えること自体が無意味なこと思います。
だとしたら、この世のことはこの世限りで完結すると
考え、長尾先生の言う『 死んだら終わり! 』という考
えが妥当なのではないか? と私も考えています。
大学の公開講座や市民講座など、いろいろな機会を
捉えてここ3年間 “死生学”の勉強をさせて貰って
いますが、私の最後に行き着いた結論は、“メメント・
モリ(memento mori)! 死を想え、今を楽しめ!”
であり、長尾先生の結論である“あの世が無いから
この世でしっかりと生きよう!”と期せずして一致
していることを知り嬉しく思っています。
長尾先生の今回のブログで一番気になるのは、“病院
での延命死と在宅での平穏死は天国と地獄であった。”
という部分です。
このところで、“延命死(病院)vs 平穏死(在宅看取り)”
と表現するから、必要以上に軋轢を産んでいるのではな
いか? と危惧しています。
それよりも“病院での看取り”と“在宅(施設)での
看取り”のそれぞれの様相を客観的事実として経過を
記録して、双方を比較検討して、その違いを評価すれ
ば、死んで逝く人にとってどちらがより望ましい状態
か? は、自ずと明白になってくると思っています。
人間が“生・老・病・死”の4相を呈して人生を全うする
ことを考えれば、医療者は“病”だけではなく“老・死”
も併せて診る必要があると私は考えています。
台湾の医療教育では、“病”だけではなく“死”も教え
ているそうですが、“老”も“死”も併せて診れるお医者
さんを望みたいと思います。
今回の長尾先生のブログに触発されて、今回“終末期
の医療”と“身仕舞い”について、あれこれと考えさ
せて戴きました。この件については、継続して考えて
行きたいと思います。 よい機会を与えて戴き有り難
うございました。
Posted by 小林 文夫 at 2016年01月13日 01:54 | 返信
長尾先生。おはようございます。
先生の精力的な活動の意味がわかった気がしました。
私の先生がよく悲嘆力という言葉を使われていますが
その悲嘆力という言葉を先生の死生観を読ませて頂いて思い出しました。
先生でもあんまり無理されないで下さいね。
寒い中夜中の呼び出し大変だと思いますが、お体ご自愛下さいね。
Posted by 匿名 at 2016年01月13日 07:17 | 返信
何かコメントしたいのに、コメントが薄っぺらくなりそうで
うまく書けないですが、何かお伝えしたいという気持ちです…。
でも、ものすごく伝わりました。
身内が40代前半で旅立ち、私の場合は「死」より先に「仏」に考えが
飛んでしまい(苦笑)、当初数年は寺巡りばかりして自分に折り合いをつけ
ようとしていました。やっと「死」に戻ってきて、偶然長尾先生のブログを
数年前に目にしたときから自分の考えの中に、大きなウェーブが生じた感じです。
おこがましいですが、私も先生の死生観に非常に近いです。
でも、周りの人たちは全然理解されないどころか、縁起悪いとかそんなこと
考えんでも…とか言われます。自分はおかしいのか、、、と思うこともあり
ますが、先生の言葉や活動に本当に励まされます。
願わくば先生には私より長生きしてほしいです(^_^;)。(先生より数年年下です)
Posted by 匿名 at 2016年01月13日 07:55 | 返信
無常の中にある終活 ・・・・・・ を読んで
長尾先生のブログは、きれいごと中心ではなく、
今医療の現場で何が起こっているのか? 医療界
にどのような不都合が起こっているのか? を赤
裸々に述べられていることから、毎回楽しみに
拝読しています。
今回、自由に『長尾先生の死生観』を書くように要請
されて、その意を汲んで本音を書かれたということで、
興味深く読ませて戴きました。
大学の授業で“死生学”を学ぶ時代に入っています。
私は甲南大学(神戸)で行われている“死生学”で
いろいろと学ばせて戴き、本当に人によって様々な
信条:“死生観”があるものと驚かされています。
長尾先生の今回吐露された“死生観”は、決して特異
なものではなく、一般にある類型の1つであり、正に
本音で書かれていると思い敬意を表したいと思います。
誰がどのような“死生観”を持とうと他の人がとやか
く言うことは望ましくはないと思いますが・・・・・・・
長尾先生の今回の“死生観”を拝読していくつか違和感
を感じました。
まず第1点は、「穏やかな最期」・・・・・って何?
という部分。
この世に生を受けた以上、いつかは必ず死ぬことは避け
られません。
避けることの出来ない死という壁を越える時、苦悶に
満ちた時間〔苦悶に満ちた終末期〕を過ごすことだけ
は何とか避けたい! と言うのが私の願いです。
出来ることであれば、私は齢を重ねて、最後は
枯れるように、そしてその時耐えられない程の
痛みや恐怖があれば、緩和ケア:疼痛コントロ
ールを受けて、“穏やかな”内にこの世を辞し
たいと念願しています。
多くの人が願う「穏やかな最期」とは、そのよう
な、痛みや恐怖にさらされることの少ない最期で
あることは、ある程度の共通認識だと思っていま
したが、そうではないのでしょうか?
少なくとも私にとっての「穏やかな最期」とは、
そのような“一人称〔私〕の苦痛のない死”で
あることは明白です。
第2点は、このブログを書かれている長尾先生が
お医者さんというとことが気になります。
私はこのブログを愛読していて、長尾先生のような
町医者〔終末期に往診をしてくれるホームドクター〕
がご近所に居ればいいのに! と常々思っています。
終末期のQoLを大切に考えながら、私の生き方、考
え方を尊重してくれるお医者さんがいないか? と
探しています。
その自分の終末期:最期に向って一緒に力を合わせ
て歩んで行くお医者さんが、「死んだら終わり」・・・・・
と考えられているのはちょっと受け容れることが難
しいと考えてしまいます。
長尾先生は本ブログの最後の方で、“人は死の瞬間か
ら消えるので絶対的存在として、その人を知る人の
頭の中で時には半永久的に生き続けるものになる。”
とまで喝破されているのですから、『死んだら終わり!』
というような極論を前面に出すことを避けて、もう少し
穏やかな論調にすれば、先生の真意がより多くの人の
心に届くのではないか? と感じてしまいました。
“死生観”について、どのように考えるかは全く自由
ではありますが、“町医者さん”を標榜されている
長尾先生が「死んだら終わり」と断言されることは
如何なものか? とちょっと心配しています。
Posted by 小林 文夫 at 2016年02月21日 09:33 | 返信
本当に…
善くも悪くも…
びっくりポンな毎日です
結局 人生 誰に縁をするかで決まっていくのかもしれません
わからないことだらけ…
でも 自分にとって いい縁に出逢えば 良い方向に向かっていきますよね
その逆もあるかもしれません
その連続の中で
最期があるんでしょう
感謝の毎日でありますように…
Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2016年02月22日 12:03 | 返信
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