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最高裁判決が浮き彫りにしたもの
2016年03月10日(木)
その意味をみんなで考える時代なのであろう。
そのテーマだけで一晩じゅう議論できるだろう。
認知症患者の鉄道事故裁判、「逆転判決」の理由
最高裁の「家族に責任なし」のポイント
最高裁は、長男はもちろん妻についてもJR東海への損害賠償義務を否定した。最大の争点は、妻が民法第714条1項にいう認知症患者(責任無能力者)に対する法定の監督義務者としての立場にあるか、あるとした場合に監督義務者としての責任を果たしていたかどうか、という点であった。しかし最高裁は、そもそも妻は監督義務者の地位になかったと判断したのである。
高裁では、夫婦の協力扶助義務(民法第752条)や事故当時の精神保健福祉法、成年後見人の身上配慮義務の趣旨(民法858条)などを理由として、同居をしている夫婦の一方が認知症などにより自立した生活ができない場合には、特段の理由がない限りもう一方の配偶者が認知症患者に対する法定の監督義務者に該当すると判断していた。そして、A氏の妻も要介護1の認定を受けていたとはいえ、監督義務者としての地位を否定する特段の理由はないとしていた。
妻は「監督義務者」にあたらず
ところが、最高裁は、本件における妻の監督義務者性を否定した。事故当時の精神保健福祉法や、民法上の成年後見人の身上配慮義務は現実の介護や認知症患者に対する行動監督までは求めていないし、夫婦の協力扶助義務は抽象的な夫婦間の義務であって、第三者との関係で配偶者として何かしなければならないものではないとした。
関係法令にいう「配偶者の義務」は認知症患者(責任無能力者)に代わって第三者に損害賠償すべき「法定の監督義務」には直結しないとしたのである。
ただし、最高裁は、法定の監督義務者に当たらない場合でも、具体的な事情の下で「認知症患者の第三者に対する加害行為の防止に向けた監督を行って、その監督を引き受けた」と認められる者については、法定の監督義務者と同視することができる、という前提のもとに、さらに妻の責任の有無につき検討を加えた。
最高裁は、この点、法定の監督義務者と同視するためには、「認知症患者を実際に監督している」もしくは「監督することが可能かつ容易」であるなど、「公平の観点から認知症患者の行為に対する責任を問うのが相当といえる状況にある」といえることが必要、という基準を示した。
そして、本件では、妻自身も85歳と高齢なうえ要介護1の認定を受けており、長男の補助を受けて介護していた、という事実に照らして、A氏の第三者に対する加害行為防止のための監督は、「現実的には可能な状況にはなかった」として法定の監督義務者と同視できないと判断した。
あわせて、長男についても、A氏と同居しておらず接触も少なかったとしてやはり法定の監督義務者とは同視できないと判断した。
今回の最高裁の判断は、認知症患者が起こした第三者に対する加害行為について監督義務者(と同視できる者)の地位を認めるためには、単に法令上監督義務がうたわれているだけでは足りず、「現実に具体的に加害防止のための監督ができるかどうか」という視点から具体的に判断するということを示した点で重要といえる。無理を強いない、という点では、より現実に即した判断ということもできよう。
今回の判断では、妻を法定の監督義務者(と同視できる者)としたうえで、妻が「監督義務を怠ったとはいえない」として免責する手法もあったと考えられるが、そもそも法定の監督義務者(と同視できる者)の地位を認めなかったという点は注目される。
認知症患者が主体となった事故の責任のあり方、特に介護に関わっていた親族の責任のあり方について、司法として一つの判断を示した重要な事例ということになろう。
また、詳細は割愛するが、裁判官による補足意見や意見が3つ加えられている。いずれも監督義務について示唆に富む意見であり、今後の議論の参考になろう。
もし妻が「監督義務者」だったら?
そうはいっても、もちろん、すべての認知症患者を主体とする事故に今回の最高裁の判断が直ちに当てはまるわけではない。仮に本件で、妻が要介護認定を受けておらず、相当濃密にA氏の介護を行っていた場合、法定の監督義務者と同視されていた可能性もある。
高齢の妻でなく、若年の子どもが介護を引き受けて毎日面倒を見ていたような場合も監督義務者と同視される可能性もあろう。
このように親族等の誰かが監督義務者と同視された場合、どこまで具体的に監督していれば監督責任を免れることになったのかという点については今回の最高裁判決の射程外である。
また、認知症患者を主体とする事故の損害をどのように分担するかの判断要素も最高裁としては示されなかった。妻が監督義務者と同視できず、そもそも損害賠償責任を負わないとされる以上、そこまでの判断に至らないのは当然であるが、これは今後の課題であろう。
今後の課題といっても、本件のような不幸な事故が再び起きて司法の場に持ち込まれる前に、重度の認知症患者の介護の在り方、特に第三者に対する加害行為防止のあり方を議論する必要がある。
2025(平成37)年には認知症患者が700万人にも達するという推計もある中、そして、厚労省が「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」のもと、認知症患者が可能な限り住み慣れた地域で生活を続けていくための整備をするとしている中、特に症状の進んでしまった認知症患者の介護の在り方、社会内における対応の在り方を、行政も立法も社会も真剣に考えることがより一層望まれるところである。
鉄道の安全対策も課題に
最後に、鉄道事業者からの視点についても述べておきたい。
事故が起きている以上、責任や過失の所在はさておき、認知症患者の行動によって事故が惹起され、鉄道事業者が損害を受けたという事実は動かない。事故態様によっては、逆に安全確保が不十分であったという理由で、認知症患者の遺族から鉄道事業者が賠償請求を受けるという事態もあり得る。
危険を内包する高速度交通機関の事業主として、一層の安全確保に努めることが鉄道事業者の社会的責務であることは理念や目的として理解できる。しかし、走行している列車と人の接触を100%隔絶することは不可能に等しい。それでも、事故による損害を事業者自身が負担しなければならない可能性があるとしたら、費用対効果の問題はあるものの、鉄道事業者としてはより100%隔絶する方向で対応せざるを得なくなる可能性もある。
乗降客数の多寡にかかわらず全駅にホームドアを設置し、線路も全て連続立体交差にすれば本件のような不幸な事故はなくせるかもしれない。しかし、線路敷地内外を遮る遮蔽物がなく簡単に認知症患者が線路敷地内に立ち入ることができる箇所は全国津々浦々多数存在する。既存の鉄道すべてに対策しようとすると巨額の投資が必要であるし、特に経営基盤の弱い鉄道では無理な話であろう。
利用者に投資分を転嫁したり、税金を投入したりするといっても限度がある。経営基盤が脆弱で余力が少ない鉄道事業者における安全対策強化をどのように進めていくかということもあわせて、今後議論が必要であろう。
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JR認知症事故判決が浮き彫りにしたもの
日経メディカル 2014年5月26日 色平哲郎
http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/201405/536566.html
先月、超高齢社会の現実と司法のズレを感じる判決が出た。
2007年12月、愛知県大府市で徘徊症状のある認知症の91歳男性が、JR東海の電車には
ねられて死亡した。この事故を巡って、JR東海は遺族に振替輸送代などを求めた訴訟を
起こす。昨年8月、一審の名古屋地裁は男性の妻(91歳)と長男(63歳)に「見守りを
怠った」としてJR東海側の請求通り約720万円の支払いを命じた。この裁判の控訴審で
、4月24日、名古屋高裁は妻だけの責任を認定し、約360万円の支払いを命じた。
認知症で「要介護4」の認定を受けていた男性は、同居していた妻が目を離した間に
外出し、電車にはねられた。名古屋高裁の長門栄吉裁判長は判決理由で、妻を「男性の
監督義務者の地位にあり、行動把握の必要があった」と認定し、「男性が普段使ってい
た出入り口のセンサーを作動させる措置をとらず、監督不十分な点があった」とした。
長男については20年以上も別居しているので監督者に当らないとしている。
一審、二審の判決は介護関係者にショックを与えている。まず家族介護の視点からは
、遺族側代理人が次のようなコメントを出した。「高齢ながら、できる限り介護をして
いた妻に責任があるとされたのは残念。不備があれば責任を問われることはあり得るの
だろうが、家族が常に責任と隣り合わせになれば在宅介護は立ちゆかなくなってしまう
……」
認知症の人の介護については、事故のリスクを鑑みてなんらかの「保険制度」が必要
だとする意見もあるが、こうした判決が続くようだと介護現場では認知症高齢者の「閉
じ込め」や「拘束」が横行すると懸念される。
認知症の人の多くが、特別養護老人ホームなどの介護施設やサービス付き高齢者向け
住宅などでケアされている。その数は、今後ますます増える。
もしも認知症の人が徘徊して介護施設から出て、電車が止まるような事故に遭遇した
場合、世論は施設の監督不行き届きを責めるだろう。とすると、施設は認知症の人を部
屋に閉じ込め、ベッドに縛りつける。それを非人間的だと指弾できるだろうか。
問われているのは、認知症の人がどのような環境でケアされればいいか、という本質
的な問題だ。自由に出入りできる人間的な環境を求めるのか、見守りや安全を重視して
鍵をかける環境を求めるか。根本には、認知症の人の「人格権」をどうとらえるかがあ
る。
終戦直後、滋賀県で戦災孤児や障害者のための施設「近江学園」を創設した糸賀一雄
は、「この子らを、世の光に」という言葉を残した。「この子らに、世の光を」ではな
い。障害を背負って生きる子どもたちを、世のなかを照らす光に、と訴えた。
そんな視点が、認知症ケアにおいても必要なのではあるまいか。
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