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鎮魂、祈ることしかできない・・・
2016年03月11日(金)
ドキドキしながら、今日を迎えた。
阪神を経験したから知っている。
でも、ただ祈ることしかできない。
阪神を経験したから知っている。
でも、ただ祈ることしかできない。
5年前の3.11の2時46分は今もハッキリ覚えている。
今週は、さまざまなメデイアが5年目の特集をしていた。
それを見ながらいろんなことを考えた。
復興は遅れていて、今も大変なことになっている。
希望もあるが人口減少など将来の不安も大きい。
うつ、孤独死、アルコール依存など、心が痛む。
せっかく助かった命がもったいないという人もいる。
福島の現状には、言葉が無い。
なんともいえない現状こそが、原発の本質を表している。
あれを見ると、脱原発への想いが強くなるばかりだ。
なにはともあれ、世界の方向を変えるのが日本に与えられた使命ではないか。
仮設住宅で頑張っている人に無邪気に「頑張って!」なんて言えない。
ただただ、状況がいい方向に行きますように、と祈ることしかできない。
健康で、食べて、笑って、そして震災前よりも幸せな街を造って欲しい。
なにを言っても、「ひとごと」になるのが心苦しい。
私は寒いのが苦手なので、被災地には寒くない季節ばかり行っている。
元旦に気仙沼に行ったのは、黒田裕子さんに呼び出されたときだけだ。
面瀬中学の仮設の人はどうしているのか。
その周辺で泣いていた人は、どうしているのか。
気仙沼の大島で頑張っているただ一人の訪問看護師さんとは先日話した。
石巻駅前のスナック「くるくる」のママや仮設から出勤しているホステスは元気か。
石巻の長純一先生は元気かな。
開成仮設住宅の人達はどうしている?
相馬市は立谷市長がいるから大丈夫。
南相馬市民病院の横の特養の介護士さんたちは元気かな。
一番先に造った記録映画「無常素描」を、今見直してみたい。
映画の最後に登場する釜石の少女は今、どうしているかなあ・・・
阪神大震災の時の5年目は、私はまだうつ状態だった。
開業医であったが、毎夜、彷徨っていた。
死を考えた夜もあった。
災害は、考えもしない心の傷を残す。
今でも忘れられない傷がある。
もし21年前の仲間が集ったら一緒に泣くだろう。
私でさえそうなのだから、東北の沿岸部の人たちは
どんな気分で今日の午後2時46分を迎えるのだろうか。
鎮魂をお祈り申し上げます。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
以下は、日本医事新報の連載に書いた文章。→ こちら
日本医事新報3月号 東北、阪神、そして台湾
阪神の5年後、東北の5年後
東日本大震災から5年が経過しようとしている。あらためて多数の犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。また震災以降、今日までご尽力されてきたすべての皆様に敬意を表します。さて、被災地における復興の足音は地域によって様々であろう。特に福島県では原発の影響でいまだに震災直後のままになっている地域もある。確実に言えることは東北は阪神淡路大震災後の復興スピードより遅いことだ。阪神の時の5年後といえばマンションの再建計画や街の再開発計画でもめていたりもしたが、総じて着々と復興が進んでいた。その主な理由は隣の大阪という大都市の被害が少なかったからであろう。また被害が阪神間~淡路島という比較的狭い地域に限定していたこともある。一方、東北の被災地はあまりに広大で人口密度が高くはない地域である。
私は2011年7月11日、すなわち東日本大震災から丁度4ケ月目に東北の復興に関する提言を書いた。「共震ドクター、阪神そして東北」(ロハスメデイア)という本である。いわゆる二重ローンの問題、孤立死の問題、そして防災に関する提言等を「無常素描」という記録映画とともに発信した。阪神での教訓を東北の復興になんとか活かして欲しいという一図で、急いで出版にこぎつけた。しかし出版時期があまりに早すぎたのか、残念ながら本書は多くの人の目に触れることなく勇み足に終わっている。そして震災から5年が経過した今、本書を読み返してみて、「これは震災から5年経ったころに出すべきだったな」と少々反省しているところである。
たとえば仮設住宅での引きこもりに伴ううつ、肥満や糖尿病、アルコール依存症をはじめ孤独死などの増加が今ごろになって報道されている。私は阪神での経験から早晩必ずこうなると確信していたのだが、仮設住宅に多数の支援者が入っていてもなかなか二次災害を食い止めることはできない厳しい現実が続いている。災害看護の第一人者であった故・黒田裕子看護師がもし生きておられたら、気仙沼市立面瀬中学校の仮設住宅に今も泊まり込んで支援活動を続けていたはずだ。しかしなかなか黒田さんのように頻繁に被災地を訪問することはできない。私も何度か被災地に足を運んだ。しかしたいした力にもなれていない。まして被災地の本当の復興はこれからであると知っているのに、たいした貢献もできてこなかった自分になにができるのか自問自答している日々である。
台湾への恩返し
東日本大震災のあと、台湾から多額の義援金の寄付を頂いたことが報道された。しかし昨年、台湾を訪問したとき台湾のある人にこう言われた。「日本人はあの時の台湾人の援助のことを忘れたのか?」。もちろん忘れてなどいないのだが、単なるお礼だけではそう思われても仕方がないのかと思った。そんな折、先日、台湾南部で大きな地震があった。ただ被害がある一棟のビルに集中したことから人災という側面も指摘されている。今回、早期に台湾への義援金援助を呼びかけた日本人が何人も居て心強い思いをした。ほんの少しだけ台湾にお返しができたかもしれない。
一昨年、昨年と計3回ほど台湾を訪問する機会があった。本コラムでも触れたように台南にある成功大学のひとりの看護師が中心となり台湾のリビングウイルの法的担保が2000年になされた。また台北郊外にある仁徳医専における死亡体験カリキュラムも圧巻であった。我々が台湾の医学・看護教育に学ぶことは沢山ある。台湾でいろんな人と出会い彼らの熱意に圧倒されてきた。今後の日本と中国との関係を考えた時、台湾との民間外交は極めて重要である。昨年10月には台湾の国慶節のセレモニーにも参加した。レセプションパーテイでは世界からの招待客とお話しする機会があった。
なぜ、台湾なのか?とよく聞かれるが、台湾は70年前までは日本だった。特攻隊も飛び立っている。しかし現在は国交が無いので民間外交がとても大切である、という想いがある。その台湾の高齢化は日本のあとを追っている。そんな中、私の本も数冊、翻訳本として多くの台湾の人にも読んで頂いてもいる。そうしたご縁もあるので台湾への恩返しは今回の支援だけに終わらせず長く意識していたい。
復興とは地域包括ケアの構築
鎌田實先生は「陸前高田在宅療養を支える会」の支援を続けておられる。復興を地域包括ケアにつなげようようと何度も陸前高田を訪れ、市民や多職種と笑顔で交流しておられる様子をメデイアで拝見した。しかし岩手、宮城、福島の被災3県では10年前に比べて人口が15万6千人も減少しているという。陸前高田も3500人以上も減少し高齢化率は35%にも達している。しかし「ピンチをチャンスに変える」をスローガンに陸前高田の支援を続けておられる。まだ建物の再建はまばらな陸前高田であるが、目に見えない人と人との関係づくりは着々と進んでいる。そこには震災を契機とした地域包括ケアが芽生えつつある。
一方、東京大学の上昌広特任教授らは福島県相馬市や南相馬市の支援活動を続けておられる。最近、いわき市の医師不足の原因を分析し研修医にとって魅力的な研修システム作りを提言されている。南相馬市民病院や公立相馬病院は、いわき市とは対照的に震災前より大勢の研修医で賑わっているという。アイデア次第で研修医が集まることが証明されている。鎌田先生や上先生だけでなく、たとえ不定期であっても現在も東北の被災地を支援し続けている医師・看護師らは私が知るだけでもたくさんおられ、本当に頭が下がる。
一方、何度も行けていない私などは、5年目以降いったい何ができるのだろうか。「被災地支援フェア」を通りがかると美味しそうなものをついつい買い込んではいる。被災地で採れたものを買って食べること、そこに旅行すること以外にも遠く離れた我々にできることは沢山あるはずだ。今後もなにかと用事を作って東北の地を徘徊したいと考えている。また震災を機に知り合いになった被災地の人達との交流もずっと温めていきたい。慢性期の支援は、継続性が求められる。医療も慢性期の重要性が謳われているが、震災復興も慢性期の関わり方がより大切になる。被災地は全国各地が抱える諸問題を先取りしている。被災地の復興とは地域包括ケアの構築に他ならない事をしっかり意識したい。
平時の机上訓練
当院が従事している在宅医療の現場には、ALSなどのため人工呼吸器を装着した患者さんが常時数名はおられる。しかし海抜ゼロメートル地帯の尼崎に万一津波が押し寄せたら、本当に大変な事態になるだろう。だから普段からの防災訓練や防災意識が大切である。何度もそのような趣旨の講演をしていた。しかし天災は忘れたころにやって来るではないが、5年が経過して少しずつ震災の記憶や防災へのモチベーションが低下している。今回の節目を防災をあらためて意識し直す機会にもしたい。
福島県相馬市長の立谷秀清先生が繰り返し言っていた言葉が忘れられない。「防災とは平時から机上訓練をしっかりやっておくことだ」。机の上でサイコロを降り、ランダムに状況が変化すると仮定する中、臨機応変に対応していく力が災害への初期対応に求められるという。最近、医療安全の分野で耳にする“レジリエンス”という考え方とどこか似た部分があるように思う。我々は複雑系の中で日々、医療に従事しているが、レジリエンスという観点からも個々の行為を見直しておくといい。
しかし震災1~2年目にあれだけ盛んだった防災の啓発も、最近はすっかり影が薄まりつつある。それが人間の常なのだろうが、普段から防災や危機管理を頭の片隅に置いておくのが医療者の宿命であろう。平時にこそ、不測の事態や災害を想定した机上訓練を繰り返すことがどれだけ大切であるかを震災5年目に思い直している。
阪神、東北、そして台湾と、災害を通じて感じた想いを述べた。21年前の阪神の時に世界中から頂いたご支援に対し、今後も少しでも恩返ししていきたい。
今週は、さまざまなメデイアが5年目の特集をしていた。
それを見ながらいろんなことを考えた。
復興は遅れていて、今も大変なことになっている。
希望もあるが人口減少など将来の不安も大きい。
うつ、孤独死、アルコール依存など、心が痛む。
せっかく助かった命がもったいないという人もいる。
福島の現状には、言葉が無い。
なんともいえない現状こそが、原発の本質を表している。
あれを見ると、脱原発への想いが強くなるばかりだ。
なにはともあれ、世界の方向を変えるのが日本に与えられた使命ではないか。
仮設住宅で頑張っている人に無邪気に「頑張って!」なんて言えない。
ただただ、状況がいい方向に行きますように、と祈ることしかできない。
健康で、食べて、笑って、そして震災前よりも幸せな街を造って欲しい。
なにを言っても、「ひとごと」になるのが心苦しい。
私は寒いのが苦手なので、被災地には寒くない季節ばかり行っている。
元旦に気仙沼に行ったのは、黒田裕子さんに呼び出されたときだけだ。
面瀬中学の仮設の人はどうしているのか。
その周辺で泣いていた人は、どうしているのか。
気仙沼の大島で頑張っているただ一人の訪問看護師さんとは先日話した。
石巻駅前のスナック「くるくる」のママや仮設から出勤しているホステスは元気か。
石巻の長純一先生は元気かな。
開成仮設住宅の人達はどうしている?
相馬市は立谷市長がいるから大丈夫。
南相馬市民病院の横の特養の介護士さんたちは元気かな。
一番先に造った記録映画「無常素描」を、今見直してみたい。
映画の最後に登場する釜石の少女は今、どうしているかなあ・・・
阪神大震災の時の5年目は、私はまだうつ状態だった。
開業医であったが、毎夜、彷徨っていた。
死を考えた夜もあった。
災害は、考えもしない心の傷を残す。
今でも忘れられない傷がある。
もし21年前の仲間が集ったら一緒に泣くだろう。
私でさえそうなのだから、東北の沿岸部の人たちは
どんな気分で今日の午後2時46分を迎えるのだろうか。
鎮魂をお祈り申し上げます。
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以下は、日本医事新報の連載に書いた文章。→ こちら
日本医事新報3月号 東北、阪神、そして台湾
阪神の5年後、東北の5年後
東日本大震災から5年が経過しようとしている。あらためて多数の犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。また震災以降、今日までご尽力されてきたすべての皆様に敬意を表します。さて、被災地における復興の足音は地域によって様々であろう。特に福島県では原発の影響でいまだに震災直後のままになっている地域もある。確実に言えることは東北は阪神淡路大震災後の復興スピードより遅いことだ。阪神の時の5年後といえばマンションの再建計画や街の再開発計画でもめていたりもしたが、総じて着々と復興が進んでいた。その主な理由は隣の大阪という大都市の被害が少なかったからであろう。また被害が阪神間~淡路島という比較的狭い地域に限定していたこともある。一方、東北の被災地はあまりに広大で人口密度が高くはない地域である。
私は2011年7月11日、すなわち東日本大震災から丁度4ケ月目に東北の復興に関する提言を書いた。「共震ドクター、阪神そして東北」(ロハスメデイア)という本である。いわゆる二重ローンの問題、孤立死の問題、そして防災に関する提言等を「無常素描」という記録映画とともに発信した。阪神での教訓を東北の復興になんとか活かして欲しいという一図で、急いで出版にこぎつけた。しかし出版時期があまりに早すぎたのか、残念ながら本書は多くの人の目に触れることなく勇み足に終わっている。そして震災から5年が経過した今、本書を読み返してみて、「これは震災から5年経ったころに出すべきだったな」と少々反省しているところである。
たとえば仮設住宅での引きこもりに伴ううつ、肥満や糖尿病、アルコール依存症をはじめ孤独死などの増加が今ごろになって報道されている。私は阪神での経験から早晩必ずこうなると確信していたのだが、仮設住宅に多数の支援者が入っていてもなかなか二次災害を食い止めることはできない厳しい現実が続いている。災害看護の第一人者であった故・黒田裕子看護師がもし生きておられたら、気仙沼市立面瀬中学校の仮設住宅に今も泊まり込んで支援活動を続けていたはずだ。しかしなかなか黒田さんのように頻繁に被災地を訪問することはできない。私も何度か被災地に足を運んだ。しかしたいした力にもなれていない。まして被災地の本当の復興はこれからであると知っているのに、たいした貢献もできてこなかった自分になにができるのか自問自答している日々である。
台湾への恩返し
東日本大震災のあと、台湾から多額の義援金の寄付を頂いたことが報道された。しかし昨年、台湾を訪問したとき台湾のある人にこう言われた。「日本人はあの時の台湾人の援助のことを忘れたのか?」。もちろん忘れてなどいないのだが、単なるお礼だけではそう思われても仕方がないのかと思った。そんな折、先日、台湾南部で大きな地震があった。ただ被害がある一棟のビルに集中したことから人災という側面も指摘されている。今回、早期に台湾への義援金援助を呼びかけた日本人が何人も居て心強い思いをした。ほんの少しだけ台湾にお返しができたかもしれない。
一昨年、昨年と計3回ほど台湾を訪問する機会があった。本コラムでも触れたように台南にある成功大学のひとりの看護師が中心となり台湾のリビングウイルの法的担保が2000年になされた。また台北郊外にある仁徳医専における死亡体験カリキュラムも圧巻であった。我々が台湾の医学・看護教育に学ぶことは沢山ある。台湾でいろんな人と出会い彼らの熱意に圧倒されてきた。今後の日本と中国との関係を考えた時、台湾との民間外交は極めて重要である。昨年10月には台湾の国慶節のセレモニーにも参加した。レセプションパーテイでは世界からの招待客とお話しする機会があった。
なぜ、台湾なのか?とよく聞かれるが、台湾は70年前までは日本だった。特攻隊も飛び立っている。しかし現在は国交が無いので民間外交がとても大切である、という想いがある。その台湾の高齢化は日本のあとを追っている。そんな中、私の本も数冊、翻訳本として多くの台湾の人にも読んで頂いてもいる。そうしたご縁もあるので台湾への恩返しは今回の支援だけに終わらせず長く意識していたい。
復興とは地域包括ケアの構築
鎌田實先生は「陸前高田在宅療養を支える会」の支援を続けておられる。復興を地域包括ケアにつなげようようと何度も陸前高田を訪れ、市民や多職種と笑顔で交流しておられる様子をメデイアで拝見した。しかし岩手、宮城、福島の被災3県では10年前に比べて人口が15万6千人も減少しているという。陸前高田も3500人以上も減少し高齢化率は35%にも達している。しかし「ピンチをチャンスに変える」をスローガンに陸前高田の支援を続けておられる。まだ建物の再建はまばらな陸前高田であるが、目に見えない人と人との関係づくりは着々と進んでいる。そこには震災を契機とした地域包括ケアが芽生えつつある。
一方、東京大学の上昌広特任教授らは福島県相馬市や南相馬市の支援活動を続けておられる。最近、いわき市の医師不足の原因を分析し研修医にとって魅力的な研修システム作りを提言されている。南相馬市民病院や公立相馬病院は、いわき市とは対照的に震災前より大勢の研修医で賑わっているという。アイデア次第で研修医が集まることが証明されている。鎌田先生や上先生だけでなく、たとえ不定期であっても現在も東北の被災地を支援し続けている医師・看護師らは私が知るだけでもたくさんおられ、本当に頭が下がる。
一方、何度も行けていない私などは、5年目以降いったい何ができるのだろうか。「被災地支援フェア」を通りがかると美味しそうなものをついつい買い込んではいる。被災地で採れたものを買って食べること、そこに旅行すること以外にも遠く離れた我々にできることは沢山あるはずだ。今後もなにかと用事を作って東北の地を徘徊したいと考えている。また震災を機に知り合いになった被災地の人達との交流もずっと温めていきたい。慢性期の支援は、継続性が求められる。医療も慢性期の重要性が謳われているが、震災復興も慢性期の関わり方がより大切になる。被災地は全国各地が抱える諸問題を先取りしている。被災地の復興とは地域包括ケアの構築に他ならない事をしっかり意識したい。
平時の机上訓練
当院が従事している在宅医療の現場には、ALSなどのため人工呼吸器を装着した患者さんが常時数名はおられる。しかし海抜ゼロメートル地帯の尼崎に万一津波が押し寄せたら、本当に大変な事態になるだろう。だから普段からの防災訓練や防災意識が大切である。何度もそのような趣旨の講演をしていた。しかし天災は忘れたころにやって来るではないが、5年が経過して少しずつ震災の記憶や防災へのモチベーションが低下している。今回の節目を防災をあらためて意識し直す機会にもしたい。
福島県相馬市長の立谷秀清先生が繰り返し言っていた言葉が忘れられない。「防災とは平時から机上訓練をしっかりやっておくことだ」。机の上でサイコロを降り、ランダムに状況が変化すると仮定する中、臨機応変に対応していく力が災害への初期対応に求められるという。最近、医療安全の分野で耳にする“レジリエンス”という考え方とどこか似た部分があるように思う。我々は複雑系の中で日々、医療に従事しているが、レジリエンスという観点からも個々の行為を見直しておくといい。
しかし震災1~2年目にあれだけ盛んだった防災の啓発も、最近はすっかり影が薄まりつつある。それが人間の常なのだろうが、普段から防災や危機管理を頭の片隅に置いておくのが医療者の宿命であろう。平時にこそ、不測の事態や災害を想定した机上訓練を繰り返すことがどれだけ大切であるかを震災5年目に思い直している。
阪神、東北、そして台湾と、災害を通じて感じた想いを述べた。21年前の阪神の時に世界中から頂いたご支援に対し、今後も少しでも恩返ししていきたい。
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この記事へのコメント
今日は黒田さんを思い、日ホスの皆さんに感謝しながら静かにすごします。
Posted by 気仙沼のブログママ at 2016年03月11日 08:44 | 返信
あれから5年。たくさんの報道映像を見て、どんな言葉を申し上げればよいのだろうか..と悩む
心境です。本当に言葉がありません。「祈るしかない」という気持ちです。
今なお厳しい境遇の被災地の様子と、5年という月日が経過したからこそ、敢えて報道される津波の
恐ろしさを解説する生々しい映像を茫然と見ていました。
苦しくなってしまい、少し寝込みました。当事者の皆様、関係者の皆様は、どんなにお辛い日で
あろうかと、お見舞い申し上げます。
Newsで見たA首相の演説、これからの5年で真の復興を目指す、という言葉を信じたいものです。
Posted by もも at 2016年03月11日 11:16 | 返信
ブログ拝見いたしました。
震災よりあっという間に5年がたちました。
毎年この時期になると思う事、ボランティアをしてそこに住んでいる方々の生活を理解し、
少しでもその方々のお役に立ち、寄り添ってあげれたら・・・と思っていますが
何もせず行動もおこせない自分に腹立ちを感じます。
何か今年は自分なりにアクションが出来たらと思います。
仕事をしているのでいつも母とメールで連絡をとりあっていますが、
認知症の母より本日メールが同じ内容で5通も届きました。
次のような内容でした。
東日本大震災の発生から11日で、5年を迎えるそうです!
静かに手を合わせました。
「祈りの朝」でした。とのことでした。
直接喋れず、夕方 母へ連絡をしたら、
地震や災害など世の中、いろんな体験をして今なお苦しみ不自由な生活をしている方々が
たくさんいてる中、自分は記憶が日々衰えているものの幸せに生かせてもらっている事に
感謝をして生きなければ・・・と言っていました。
何気ない母の一言でしたがとても心にしみました。
人間はついつい自分の地位や欲望・お金など物質的な物に目がいきますが、
なにげない83歳の母の独り言でしたが、その一言には人間の欲望や野望
などない、人としての純粋な気持ちが感じられ、
いつまでたっても母から学ぶ物は大きい事に気づかされました。
毎日、少しでも人を幸せな気持ちに出来るような人になれればと思う今日この頃です。
Posted by 匿名希望 at 2016年03月12日 04:41 | 返信
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