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遺品整理
2016年05月23日(月)
母が急死してはや4ケ月が経過した。
昨日は、遺品整理のため誰も居ない実家に居た。
とても辛い作業であることを、今頃になって嘆いている。
昨日は、遺品整理のため誰も居ない実家に居た。
とても辛い作業であることを、今頃になって嘆いている。
捨てようと思っても、捨てられないものばかり。
そもそも、何があるのか、まったく分からない。
泥棒さんのように、あちこち金目のものを探す作業から。
そのうちに、とっても懐かしいものが続々と発掘される。
母子手帳、小学校や中学校の通知表。
古い写真、古い手紙・・・・
結局、なにもできないまま時間だけが過ぎていく。
2回目の遺品整理の日であるが、まったく前に進まない。
弟と幼少時に住んでいた場所に行ってみた。
昔の面影は、今の街並みの中にはまったく残っていない。
母の知り合いだったも私の知り合いだったの家も、まったく変わり果て、「無い」。
50年も時間が経つということは、そういうことなのか。
母親が車に轢かれた現場に行ってみた。
どんな状況だったのか実際に見てみた。
誰かが花を置いてくれていた。
世の中には優しい人がいる。
母親が毎日歩いていた道、50年歩いた大好きな道を何度か歩いてみた。
もう二度と歩かないだろうな、と思うとさすがに胸に迫るものがある。
私が小学校低学年の時、ある交番(駐在所)の中で警官に習字を習っていた。
あるいは、母親が通っていた医院にも(今は代変わりしているが)行ってみた。
結局、母親は自分が一番好きな場所(交番と医院)の真ん前で亡くなっていた。
なんというご縁か。
部屋のカレンダーには、亡くなった後もいろいろと予定が書き込まれている。
まさか今日死ぬとは全く思わないまま死んだので、当然だが、やるせない。
自分は母親が亡くなってもそう悲しまないのではないか、と思っていた。
しかし予想の何倍も辛く悲しいことであることを、恥ずかしながら感じている。
その想いとは、なんなのか。
それはこの世でたった一人の無条件の味方を失うという人生の初体験。
なんともいえない喪失感は、さすがにこたえているし、日々増幅している。
どうしようもない虚無感に襲われている自分自身が自分でも恥ずかしくもある。
いい大人なのにまだ「おかあちゃん」にこんなに頼っている子供の自分が居る。
40年前の父の死で、自分は「死」という異物に目覚めた。
そしてその40年後の母の死は、ただただ虚無感だけだった。
親はいつか死ぬと分かっていても、
やっぱりこんなに辛いものなんだ。
遺品の整理をする気にはとてもなれない。
でも、少しずつでも時間を作り整理していこう。
遺品整理の本をよく読んでから、もう一度出直すことにした。
世の中には、きっとそんな人ばかりなのだろう。
人並みに、一人の女性を、一人の女性の人生として、悼んでいる。
そもそも、何があるのか、まったく分からない。
泥棒さんのように、あちこち金目のものを探す作業から。
そのうちに、とっても懐かしいものが続々と発掘される。
母子手帳、小学校や中学校の通知表。
古い写真、古い手紙・・・・
結局、なにもできないまま時間だけが過ぎていく。
2回目の遺品整理の日であるが、まったく前に進まない。
弟と幼少時に住んでいた場所に行ってみた。
昔の面影は、今の街並みの中にはまったく残っていない。
母の知り合いだったも私の知り合いだったの家も、まったく変わり果て、「無い」。
50年も時間が経つということは、そういうことなのか。
母親が車に轢かれた現場に行ってみた。
どんな状況だったのか実際に見てみた。
誰かが花を置いてくれていた。
世の中には優しい人がいる。
母親が毎日歩いていた道、50年歩いた大好きな道を何度か歩いてみた。
もう二度と歩かないだろうな、と思うとさすがに胸に迫るものがある。
私が小学校低学年の時、ある交番(駐在所)の中で警官に習字を習っていた。
あるいは、母親が通っていた医院にも(今は代変わりしているが)行ってみた。
結局、母親は自分が一番好きな場所(交番と医院)の真ん前で亡くなっていた。
なんというご縁か。
部屋のカレンダーには、亡くなった後もいろいろと予定が書き込まれている。
まさか今日死ぬとは全く思わないまま死んだので、当然だが、やるせない。
自分は母親が亡くなってもそう悲しまないのではないか、と思っていた。
しかし予想の何倍も辛く悲しいことであることを、恥ずかしながら感じている。
その想いとは、なんなのか。
それはこの世でたった一人の無条件の味方を失うという人生の初体験。
なんともいえない喪失感は、さすがにこたえているし、日々増幅している。
どうしようもない虚無感に襲われている自分自身が自分でも恥ずかしくもある。
いい大人なのにまだ「おかあちゃん」にこんなに頼っている子供の自分が居る。
40年前の父の死で、自分は「死」という異物に目覚めた。
そしてその40年後の母の死は、ただただ虚無感だけだった。
親はいつか死ぬと分かっていても、
やっぱりこんなに辛いものなんだ。
遺品の整理をする気にはとてもなれない。
でも、少しずつでも時間を作り整理していこう。
遺品整理の本をよく読んでから、もう一度出直すことにした。
世の中には、きっとそんな人ばかりなのだろう。
人並みに、一人の女性を、一人の女性の人生として、悼んでいる。
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この記事へのコメント
足跡を辿る=場所を訪れる作業が、癒しをもたらしてくれるのだと思います。
私も母を亡くした直後に、母が晩年に訪れたかったであろう場所(連れて行きたかった場所)を
訪れました。幼い記憶だけれど、強く心に残る場所を私自身が見届けたい衝動にかられたのです。
確かな道順なども知る由もなく、けれども場所に辿り着くことができた不思議には、やはり、
導かれたと感じてしまいました。
つい先日にも、いつもは通過する駅を、ふいに途中下車して..50年ぶり位かも知れませんが、
母に手を引かれて歩いた思い出の道を歩きました。「こんなところだったのか」と改めて眺めました。
時代が変わり様変わりもしているけれど、昔の面影を街角に感じ、どこかに母の面影も見るような
そんな気持ちになりました。
Posted by もも at 2016年05月23日 01:20 | 返信
いつまでも、おかあちゃんで、いいと思います。
きっと、お母さん、喜んでいると思います。 確かに、急なことで、「あれ、しておきたかったわぁ~」があるかもしれませんね。
そのメッセージの依頼は、きっと、届きます。
「これは、頼だわよ!」って。
子供を育て上げた女性は強いですから、きっと、「あの子に、どうやって、届けようかな!?」って笑顔で考えておられますよ。
Posted by よしみ at 2016年05月23日 01:00 | 返信
長尾先生 何と申し上げたらよいか分かりません。私の同級生の男性は、お母様を亡くされて、八十何歳かで、病気によって、亡くされたのですが、こんなことを言っていました。父親の時と違い、はるかにこの上なく、落ち込んだ、こんなに落ち込むとは思わなかったと。男性と言うものは、母親に対して特別な思いがあるのでしょうか。神谷美恵子は、男性はある歳になると、母親に対して保護者のように振る舞うと書いていましたが、とても大切な人なのでしょうね。
遺品整理、私はまだですが、その時が来たら、まず多くを写真にとって、それからフォトブックを作ろうと思います。写真も全部はとても残せないので、一冊のフォトブックにしようと思います。フォトブックはナカバヤシのフエルフォトブックがダントツにきれいです。文字も入れられます。
先生も、いつの日にか、考えてみてくださいね。
Posted by 井上 at 2016年05月23日 08:11 | 返信
どんな言葉も 慰めにはならない…ですよね
本当に なんて声をかけてよいのか…言葉が見つかりません
生老病死…
苦しいです
悩みは消えることはない
それでも それでも
前を向いて …
幸せは〜歩いて来ない だから 歩いて行くんだよ
1日一歩 3日で3歩 3歩進んで2歩下がる
人生は ワンツーパンチ…
泣きたい時には泣こう
先生にも
グリーフケアが必要です
誰か助けて〜
Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2016年05月23日 10:40 | 返信
私も遺品整理ができない、というより掃除のできない人間なんかも。
父も本を(要る本と要らない本に分けて)捨てようとしたら、母に「お父さんが死んだからって、直ぐに何でもかんでもすてるもんじゃない」と言われて、それ以来ゴミの山でした。
遺品整理はなかなか短時間にはできないものです。長尾先生と弟さんが相続人ですから、どちらかが、亡くなった時には、二人で分けると言う遺言書を作成して、ゆっくり整理なさったらどうですか?
お墓参りより、思い出があると思います。お母様は、お二人とも自慢のご子息だったでしょう。
私は父が書いた日記を読んで面白かったです。私も悪口も書いてありました。
私自身は相続手続きが終わりしだい公証役場で公証人に遺言書を作成してもらおうと思っています。
Posted by 匿名 at 2016年05月23日 11:39 | 返信
戦後の暑い暑い八月、実母の棺をリヤカーに乗せ、遠い山腹にある火葬場まで、黙々と押して歩きしました。
突然死した養父の遺品整理をしているとピンポンが鳴り、善通寺のお寺から分厚い封筒が届きました。
「善通寺」といえば、長尾先生ゆかりの街ですね。ご縁を感じます。ご迷惑かも?
「訪問看護師の宮ちゃん」さん。
「生老病死・・・苦しい」とは限らないのではないでしょうか。
漢訳の「苦」は誤訳で、原語では、「くるしい」ではなく、「避けがたい」、
「いかんともしがたい」という意味だと、中村先生にお教えいただいて、
永年の悩みが氷解し、妙に納得して受け容れられたものでした。
加齢とともに、本や紙資料、写真や食器類は大胆に処分し、草花の受け皿はゴミ出し、ガスコンロは使用禁止。
敷き布団や枕も捨て、夏も冬も、アイスノン2袋をタオルに巻いて、枕替わりに、夜は「冬眠」。
後は野となれ山となれ、という心境に近づいてきました。
カルガモの引越しシーズン。早朝、近くの公園の池から、10羽ばかりのヒナ鳥を連れた歩道横断の場面に遭遇。
おりから、3羽のカラスが急降下。母鳥が体当たり。側溝にヒナ鳥を隠し、覆いかぶさる。
さらに、4,5羽のカラスが上空を舞う。近くに、引越しできるような場所はありません。
ヒナ鳥10羽の生死は、いかに?
Posted by 鍵山いさお at 2016年05月24日 01:23 | 返信
先生のお気持ちお察しします。
お父様を亡くされてから女手一人で息子さんを立派に育てられた、お母さま素晴らしいです。
私も中学1年生の時に父を病気で亡くしました。母は3人の子供を残され泣くに泣けなかったそうです。
昭和36年では健康保険も年金制度も無く母子家庭は大変な状況だったそうです。
その母が昨年末長男(息子)を癌でなくしました。90歳になる母にとって大変悲しい出来事でした。
弟の闘病中から長女の私が引き取り今日に至ります。最近ではかなり認知症状が進みかかりつけ医に
相談したところ、アリセプトを処方されました。かねてから長尾先生の書物からアリセプトの事認識していた為
日常の母の症状を観察していましたところ、表情が厳しくなり攻撃的になったり食欲不振で虚ろになってきました。そこで私は医師に相談せずアリセプトを徐々に減量し今は服薬無にしました。その旨かかりつけ医にも正直に伝え先生も了解していただきました。服薬なしになり食欲も戻り年相応の物忘れはありますが、以前の母の笑顔が見れる様になりました。いつまで一緒に過ごせるか分かりませんが、女学生時代から趣味で描いた絵の作品をまとめ写真集にし孫子に残してあげたいと思います。出屋敷でタイのお坊様一行をお迎えしました。三谷です。
Posted by 三谷 美沙子 at 2016年05月24日 10:09 | 返信
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