がん大国白書:第2部 検証・基本法10年/4 議員の告白、議論加速
昨年6月、山本ゆきさん(65)は東京・永田町の衆院第2議員会館で開かれた会議に呼ばれた。「当時を知る議員が減っている。がん対策基本法ができた経緯を話してほしい」と頼まれた。ゆきさんは、2006年の基本法成立に尽力した故・山本孝史参院議員の妻だ。
山本議員は05年12月、検査で進行性の胸腺がんが見つかった。検査日は、同年5月に開かれた初の「がん患者大集会」で実行委員会代表を務めた医師、故・三浦捷一(しょういち)さんが亡くなった日だった。ゆきさんは「夫婦で『三浦医師からバトンを渡された』という使命を感じた」と振り返る。
当時、国会では、日本のがん医療を変えることを訴えた三浦さんらの活動を受け、日本初のがん対策の法案作りが進んでいた。山本議員が所属する民主党案、与党案(自公案)があり、一本化は難航していた。06年5月、山本議員が参院本会議の代表質問に立つことになった。その頃、山本議員は抗がん剤の副作用で髪が抜け、かつらをかぶっていた。治療は思うように進まず、「これが最後の代表質問になる」と病を告白することを決めた。
「私はがん患者として質問に立たせてもらっている」。公の場で、がんであることを初めて明らかにした。そして、がん医療の地域格差や治療してくれる医療機関を求めてさまよう「がん難民」の解消を訴え、議員たちにがん対策基本法成立への協力を求めた。質問を終えると、議場は拍手で包まれた。
異例の演説をきっかけに、超党派の法案がまとまり、翌月の国会閉会日に基本法が成立した。当時、厚生労働省のがん対策担当として法案への問い合わせなどに対応した職員は「遅々として進まなかった法案の議論が、山本さんの告白をきっかけに一気に加速した。患者からのうねりが国会を動かし、患者中心の政策が作られた」と話す。
基本法は、国の具体的ながん対策を検討する「がん対策推進協議会」に患者が委員として参加する仕組みを盛り込み、「患者主体のがん医療」という姿勢を明確にした。また、全国どこでも一定レベルの医療体制を確保するがん医療の「均てん化」のため、医療機関の整備や医療者教育が進み、海外で使える薬が国内で使えない「ドラッグラグ」も減少した。基本法以前のがん医療からは、変貌を遂げつつある。
山本議員はがん告知から2年後の07年12月、58歳で亡くなった。昨年開かれた国会議員の会議で、ゆきさんは議員らに訴えた。「原点に立ち返り、一人一人の命を見つめた基本法にしてほしい。それが基本法の制定に命を削った先人たちへの何よりの報告になる」
ゆきさんは最近、「基本法ができたがゆえに、がん難民が増えることになってはならない」という山本議員の言葉を思い出す。「法律があるから十分だ、と満足してはいけない。法律が成立して10年たつ今も、進行性のがんをはじめ、まだ治らないがんに苦しむ患者は多くいる。そのような人々を見捨てず対策を充実させてほしい」=つづく、次回は26日
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この記事へのコメント
なかには、それなりの仕事、された人いらしゃる、、、?、、!
Posted by おこ at 2016年07月28日 08:28 | 返信
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