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私の在宅履歴書

2016年08月23日(火)

「在宅診療」という雑誌から「私の在宅履歴書」を求められ本音を書いてみた。
あたり前のことが、制度のせいでなぜこんな複雑なものになったのだろうか?
だから履歴書というより遺言書のようなメッセージかもしれない。
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「縁あってはじめました」
私の在宅履歴書  → こちら

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私の在宅履歴書  縁あって始めました  長尾和宏

 
ザイタク医療とは何か。こちらから出かけて行く医療のこと。どこに?相手の家に


 
幸か不幸か私は生来誰かの家に行くことに抵抗が無い、要は貧乏な家に育ちました。中学校時代は新聞の配達と集金でクラスメイトの家々を回っていました。高校時代は郵便配達など配達のアルバイトに従事。一旦社会人になり入った大学では入学式当日に無医地区研究会に入会し、6年間長野県の山の中にある人口800人の村に通いました。その村には独居の高齢者や認知症の方が多く、野沢菜に醤油をかけていたので著明な高血圧と寄生虫(回虫)という課題がありました。そこで減塩指導と駆虫薬を配りながら一軒一軒「家庭訪問」をしていました。一方東京では、母子家庭で仕送りゼロの身だったので常に数人の家庭教師先を持ち、土曜日なぞは深夜まで4~5件くらいの家々を回っていました。中高そして大学時代もずっと他人の家の訪問ばかりだったので、人の家に行くことに抵抗が無いというか、行くことが当たり前の青春時代を送りました。

一方、医者になってからの勤務医生活では人の家に行くことが無く、とても窮屈に感じました。卒後11年目の勤務医のある日、抗がん剤治療中の患者さんから「抗がん剤をやめて家に帰り、先生に往診して欲しい」と懇願されました。上司に相談しましたが病院から家への往診はできないとのこと。バカ正直にそう告げた夜、その患者さんは病院の屋上から飛び降りました。深夜、さっきまで話していた人を上司の指示で病理解剖しながら、自分がこの患者さんを殺したことを深く悔やみました。そこに阪神大震災が起きて大きなストレスが襲いました。様々な出来事も重なり3ケ月後には病院を去り勤務医生活に終止符をうつことにしました。1995年のことです。

2つ隣の町の商店街の一角にある雑居ビルの2階のとても狭い場所で開業しました。しかし患者さんはほとんど来ませんし、往診依頼もありません。あれほど忙しかった勤務医生活が嘘のように静かで悶々とした日々が待っていました。うつ病になりそうでした。患者さんが居ないため看護師は不要で、私と事務員さんだけの世界。幸い、肝炎と肝臓がんで治療中であったビルの大家さんが毎日、強ミノの注射に来院してくれました。去られたら困るからだったのでしょうか。しかし頼みの綱(?)だったその大家さんもついに腹水と黄疸が強くなり、数百メートルの距離を歩くことができなくなりました。「先生、家に来てくれへんか」。暇だったので、出勤途中にご自宅に立ち寄りアミノレバン200mlを点滴しながらいろんな話をしていました。自宅なので大量の点滴も輸血もせず自然な経過に任せていたら2ケ月後、その人は静かに旅立たれました。何百人も診てきた肝硬変症でしたが一滴も血が出ない旅立ちは初めてでした。そしてその人が10数年後に何冊かの本を書くことになった「平穏死」第一号となりました。勤務医として1000人以上の最期を看取ってきましたが、平穏死の経験は初めてでした。そして自分にとって在宅看取り第一号でもありました。

「往診を受けて自宅で最期を迎えた」。その噂は商店街を駆け巡ったようで、さっそく新たな依頼が舞い込みました。第二号患者さんは胃がんの終末期の80代の男性でした。年末年始を病院から外泊で戻って来たとのこと。大晦日も元旦も往診をする旨を告げると、さっそく退院の手続きをされたので、鼻からの管を抜き口から食べさせました。お屠蘇を美味しそうに飲み、おせち料理を少しつまみました。その患者さんも自然に任せていたら1ケ月後に特に痛みもなく旅立たれました。1995年当時は、訪問診療という言葉はなく「往診」しか使いませんでした。また介護保険もなく訪問看護師も知りませんでした。とにかく暇だったのでたった一人の在宅患者さんをたった一人で毎日往診していました。

それから21年が経過し、気がつけば1000人近い人を自宅で看取り、「平穏死」と題した本を数冊書く身になっていました。現在は6人の常勤医と25人の看護師など100人を超えるスタッフとともに、年中無休の外来診療と400人の在宅患者さんを抱える身になりました。13年前に近距離移転して箱は大きくなりましたが、在宅医療の原型は開業当初となんら変わらないつもりです。今思えば、現在よりのどかな時代に開業して自然と在宅の世界に入っていました。特に研修を受けたわけでもなく、子供の時から気軽に人の家に行く、困った人がいたらこちらから行くという生活が、58歳になっても続いているだけです。

近年、在宅医療がなんだか特殊なものになり、また規則も年々複雑になる一方なのが残念です。また介護保険と医療保険の連携が不充分なことが気になります。ザイタクはもっと自然にやり楽しみたいもの。しかし後進の指導もあるのでもう少し頑張りたいと思います。
 

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この記事へのコメント

在宅医 医療
幼い
頃 は
➖ 往診 ー

あたりまえ
でした。
(^o^)(^o^)
しかし
医療 が
進む

無い の が、
当たり前

なって きました。

看取り
と 往診
がひとつに
なりました。
これから
どうなるかは
医師会
意思
ひとつ

おぎようこおこらんど
墨あそび詩あそび土あそび

Posted by おこ at 2016年08月23日 02:30 | 返信

「縁あって」→ 良い大家さんとの出会いが始まりだったのですね。
店子は子ども同然、と古い格言にありました。「人との出会い」が人生を左右することもある。
昭和の時代には確かに、それがありました。それでも「縁」も御自身が引き寄せていらっしゃる
のではないでしょうか。現在の名声に到達されるまでの速さが、並大抵ではないスピードです。
小説のプロローグのような、今回のコラムでした。お話の続きが、町医者日記に書かれているのを
私も知っています。そのいちページに偶然に出会って以来、やはり小説のページを繰るように、
深く引き込まれて読者となっていった、その頃の感覚を思い出しました。

Posted by もも at 2016年08月23日 06:47 | 返信

人づてに頼まれ、縁あって所属する今の法人ですが、何十年も前、法人設立初期から携わっている
方に話を聞くと、様々な人間ドラマを抱えた人を預かる、ということの重みと、特別な経験談を知る
事になります。中には、関わった(預かった)人の自死という結末もあります。
以前、カウンセリング講習の際に、印象に残る題材がありました。ノアの箱舟のような場面設定上で、
乗り合わせた人間の中で誰が善人で、誰が悪人か、を話し合うグループワークでした。
人の良心とか優しさとは、単純に割り切れるものではなく、一本の線ではなく複雑に絡みあったもの。
物事の全てに表裏一体があり、無常がつきまとう、文章にすると、そんな心得を習得しました。
大学病院の屋上から飛び降りた、過去の患者さんとの経緯は、殊更、長尾先生の心の傷になって
しまったかも知れませんが、長尾先生がお身内の自死を経験なさっておられるという、
人生の再びの始点に思いを寄せた時に、自ら人生の幕を閉じられた患者さんの存在にも、縁を感じ
ました。以降の長尾先生の道程を読ませて頂きますと、その方の存在に大きな意味があった、と
数十年が経過した今では、そう思えるのではないでしょうか。

Posted by もも at 2016年08月23日 08:32 | 返信


 おはようございます。
 読んでいて、涙が出来ました。
 若いころ、本当に苦労されたのですね。
 いろんな問題にぶつかりながら、良く前向きな姿勢を維持され
 続けられたと、畏敬の念を抱かずにおられません。

 以前、千代の富士のドーピングのような下世話な話を出してし
まいまして、反省しております。
 私もあることがきっかけで、処方箋薬のパッケージ化という大
命題に立ち向かって、医療改革を進めておりますが、いつもこの
ブログで勇気をいただいています。

あなたの生きざまで、患者さんだけでなく、多くの人が勇気や希
望をいただいていると思います。いつも、応援しております。

Posted by 廣田 祐次 at 2016年08月23日 10:04 | 返信

壮絶なご苦労をなさっているのですね。ワタクシの苦労など屁のツッパリにもなりません(×_×)

Posted by 谷 利文 at 2016年08月23日 07:38 | 返信

心を病んでいた時期を経験した人と接し、これまでには知らなかった世間を知る由となりました。
例えとして、毎日通勤に勤しむ一般を "表" とするならば、そこには居合わせない立ち位置を
"裏" と表現すると、その裏からの方が案外、冷静に社会の縮図が見えてきたりするものです。
人生の半分を超えた今、半ば開き直った心境も持ち合わせている自分としては、これまでの経験も
踏まえた上で、彼らに「何事も "無常" なのだから、厳しく身に付けられた、それは、さて置き、
自由な心を取り戻して闊歩して欲しい。」と言葉を贈りたくなります。
諸行無常なのです。常に変化するのが世の中なのです。縛られた心を開放し、自由な気持ちになって、
生きることを満喫して欲しい、と思います。長尾先生の人生を読む度に、そんな気持ちを理解して
下さる方だと確信してしまうのです。

Posted by もも at 2016年08月23日 09:24 | 返信

こんばんは。
とてもいいお話ですね。
在宅の患者さん達が先生が来られるのを
心待ちにしている理由がわかった気がします。

でもあまり頑張り過ぎません様に。

Posted by 匿名 at 2016年08月23日 09:41 | 返信

頭が下がります❗
同じ医師免許をもつ者として。
頑張って下さい。

Posted by 尾崎 友宏 at 2016年08月24日 03:33 | 返信

 医師であるという生き方を選び、医師であり続けるという生き方を選び続ける医師の方々の、心の原動力の一端を垣間見させて頂いた気がします。人と係わる仕事は、辛い場面も多いもの。東北の震災で最後の最後まで患者の皆さんを助けるべく奮闘されていた医療者の方々の記録を読んだ時のことを思い出しました。最後の時を考えつつ、日々過ごしている患者には、神より仏より(神仏は勿論大切です)医療者の穏やかな眼差しや言葉が何より薬となると思います。私は多分長尾先生と同じ学年ですが、関西の田舎では、代々続いた個人病院では、往診して下さるところもそれなりにありました。人口が増えたり、医学部進学が恐ろしく難しくなったり、その他の事情もあったりで、代が変わると医院が閉められ、いつしか往診して下さる医院は減少しました。自宅で死ぬこともままならず、本人が希望していなくとも最後が近くなると病院に運ぶという状況になっていきました。(親族が絡むとさらに複雑に)厚生省は救急医療がパンク寸前なので、ある一定以上の年齢なら自宅で最期を迎えて欲しいといっているのかなと考える時がありますが、長尾先生のような医師の方々の声をよく聞いて欲しいものです。

Posted by 樫の木 at 2016年08月24日 11:14 | 返信

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