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救急車を呼んだばかりに
2016年12月27日(火)
寒くなり、転倒事故や肺炎などの突発的な出来事に振り増されている。
そのなかには「なんとかして病院から出たい」という依頼が3割位ある。
しかし家族が救急搬送を要請しておいて、それはないだろう・・・
そのなかには「なんとかして病院から出たい」という依頼が3割位ある。
しかし家族が救急搬送を要請しておいて、それはないだろう・・・
毎日、救急車にまつわる相談ばかり
1)在宅患者さんが転倒して、家族が救急搬送したケース。
入院3日目にようやく整形外科の医師が診察してボルトで固定する手術へ。
しかし手術はどうやら失敗したようで、ボルトが皮膚から飛び出てきたケース。
その間、患者さんは抑制帯に縛られて泣き叫んでいると、いう。
腕の骨や手指の骨は入院・手術しなくても自宅で「待て」自然治癒する。
若い人なら機能障害を残さないように固定が必要だが、高齢者は別だ。
放っておいても骨は勝手にくっつくものなのだ。
この患者さんはボルトを外して在宅療養に戻れば、認知症も骨折も改善する。
手術はこの要介護高齢者には過剰手術だったわけだが若い医師は知らない。
2)発熱に慌てた家族が救急搬送を要請した結果、寝たきりになったケース。
肺炎の診断でこれまたベッドにしばりつけられて(家族の同意は得ていると)
奇声を発して、変わりたてた姿になり、家族が泣きながら相談に来られた。
入院した限りは仕方が無い、ことを一生懸命説明するも納得されない。
「そんなことは頼んでいない」と言い張るので、「では入院承諾書にサインした?」
と聞くと、「した」と答えるので、「ヤッパ、そうでしょう」で納得。
発熱→救急搬送→入院→抑制→病気は治りましたが寝たきりでボケボケに。
こんなケースが繰り返されているのだが、私に文句を言われても筋が違う。
「慌てずにまずは私に電話を」と繰り返し言っているのだが、慌てると忘れる。
3)呼吸が怪しい→救急要請→病院で蘇生しても反応せず、のケース。
病院の主治医は「私は死亡診断書を書けないので在宅主治医に
死体安置所にまで来てもらい書いてもらうか、さもなくば警察に連絡」とのこと。
なんでそうなるのだろう?
よく分からないが、そんな間違った「儀式」が若い医師の間で流行っているのか?
「在宅患者なら在宅医が病院まで来て診断書を書け」と、若い医者が言った。
私は「それは君が書いていいんだよ」と説明するも、若い医師は納得しない。
結局、死体のたらいまわしに。
すべては、家族が在宅主治医を飛ばして救急車を呼んだからなのだが・・・・
4)在宅看取りのはずが、119番したばかりに検視・現場検証に・・・
これはもはや古典落語のように繰り返して話したり、劇までして啓発しているのだが。
しかし今夜も、不要な検視や警察の捜査が繰り返されている。
長時間、警察に取り調べられた家族は「どうしてこんなことに」と嘆きまくる。
しかし119番を回したのは家族。
私は「だから言ったじゃないか」と言いたいところだが、ぐっと我慢、我慢。
わずか1時間が待てないばかりに、実に後味の悪い最期になってしまう。
在宅患者さんの救急搬送に関する話題はことつきない。
知らないと大変なことになり得るのが救急搬送である。
119番さえすれば、凄い救急病院に運んでくれて、ドクターXが現れて奇跡を起こす。
なんてことは、テレビドラマだけの世界で現実は甘くないことを知っておくべきである。
そんなこんなで、来夏に在宅医療とj救急隊の連携の会を発足させる方向で動いている。
「それに警察も入れるべきである」と私は主張しているが、通るかどうかは不透明である。
みなさん今後は、119番する時はよく考えてしましょう!!
・具体的に何を望むのか?
・抑制されてもいいのか?
・認知症が悪化してもいいのか?
・寝たきりになってもいいのか?
今後、高齢者の増加に比例して搬送患者さんは年々増えるだろう。
しかし救急搬送=最善の選択ではない、ことも本ブログのみなさんは知っておいてね。
救急搬送を要請したことを後悔している家族が少なくない。
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この記事へのコメント
父が40℃の高熱を出して苦しんでいる時、在宅医が突然居なくなったので、在宅医のお母さん看護婦が「病院に行け」と指示されて、入院したら院内感染MRSAに感染して苦しんで死にました。
母は絶対に入院させないと思っていたのですけど、買い物から帰って来ると、ベッドに端坐位で座って動かない。頸動脈も触れないので、主治医に相談して救急車を呼んで救急病院に、搬送して「心肺停止」と診断され「警察で検視するぞ」と言われて「何故死んだのか、こちらが知りたいから警察で検視してください」とお願いしたら、CTスキャンで「胸部大動脈解離による心タンポナーデ」と診断されました。
近所の不動産屋が「事故物件や!」と言いました。
先日自治会館で「町つくり委員会」が、開催されました。高齢のお年寄りが「私も高齢者です。年寄りを巡る環境が、どうなっているのか?少しでも年寄りに納得できる医療介護のシステムを構築して欲しい」と訴えました。私も「厚生労働省が在宅介護を推進している。私も母を介護して最近看取りをした。近所の高齢女性も老健のケアマネジャーを呼んでいたが、心臓発作を起こして倒れたので、自治会長が救急車を呼んで緊急入院したが「心肺停止」となった。どちらも「救急病院で死んだ」と死亡診断書が出ているのに、近所の不動産屋が「事故物件」と言っている。何とか不動産屋を指導して「自殺他殺、腐乱死体、死後硬直の出ていた死体だけを事故物件としてほしい。家族が安心して在宅介護を持続できるようにしてほしい」と要望しました。兵庫県と宝塚市の役人は黙っていたけれど、自治会の町つくり委員会長会長が「事故物件なんて言う言葉は、初めて聞きました。町つくり委員会で良い方向にいくよう検討します」と仰って下さいました。
キャブレインCBニュースでは「療養病床が厳格になって患者数が減っているので病院経営が、苦しい」というニュースがありました。
そんな背景もあって「入院したら、絶対に退院できないお年寄り」が出てくるのかもしれません。
いつまで中世の暗黒時代みたいな医療問題が続くのでしょうね。
Posted by 匿名 at 2016年12月27日 06:43 | 返信
>放っておいても骨は勝手にくっつくものなのだ。
先日、TV番組で体操競技・オリンピックメダリスト内村選手の母上が同じ事を仰っていました。
体操競技会に出場なさった母上が、競技中に、どうやら手の指をポキッと骨折した自覚があった
そうです。湿布を巻いた指を見ながら「気にしても、何も変わらないでしょ?くっつきますから
大丈夫。」と言っていらしたのを思い出しました。
それにしてもボルト固定とは、大変な処置ですね。
認知症患者さんが "奇声を発して、変わりたてた姿" このような状態を唯一、介護実習で訪れた
老健内 "無断立ち入り禁止部屋" で見たことがあります。やはり、人工的に作られてしまった姿
だろうなと思いました。"苦痛と痛み" "逃げ出したい・出してくれ!" が見てとれました。
幸いにも、その後の日常では、ボケが進行している方に遭遇したとしても、子供返り的な認知症を
見掛けるばかりで、先の激しく・悲しい患者さんを見たのは、その時だけでした。
運命の分かれ道が、どこかに存在するのは確かであり、それは自身や家族が道を誤ったのでしょう。
以前に書き込みしたのですが、医師が勧める転院を断り、在宅介護を選択してくれた親子さんの
ケースが、穏やかに上手に事が運んだようです。契機は「このまま入院生活を続けさせていても
大丈夫だろうか。病気の回復(治療)よりも、お母さん、ボケ始めたような気がする。」と何気なく
話してくれた会話からでした。在宅を選択してくれて、訪問リハビリや機能回復訓練のためのデイ
サービスなどをこなし、始めはトイレ介助やら、家族がコツを得るまでが大変だったようですが、
今では家の中を歩いて過ごしているようです。御家庭内も、平穏な日常を取り戻したそうです。
資料を差し上げたり、アドバイスさせて頂いた接点から、お蔭様で信頼関係を構築できました。
Posted by 匿名 at 2016年12月27日 03:34 | 返信
救急車を呼んだばかりに ・・・・・・ を読んで
長尾先生曰く・・・・・、救急搬送要請〔=緊急事態に
遭遇して119番通報をして、”救急車” をよんで〕
をしておきながら、その結果として搬送された病院
での緊急措置の結果、自分たちの望まない結果が出
現した時でも、一度乗ったエスカレーターから下り
ることは出来ない! なんて、それこそ 『それは
ないよ~~!』と言いたいと思います。
自分の連れ合いが、または家族が、急に目の前で
白眼をむいたり、痙攣を始めたとしたら ・・・・・
それが “死の壁” を乗り越える一通過点なのか?
それとも、一時的な急変で、その危機を乗り越え
たら、また長い長い人生が続いて行くのか? 私たち
素人に瞬時に判断せよ! と言われても、なかなか
難しいものと思います。
長尾先生は本ブログで ・・・・・・
『みなさん今後は、119番する時はよく考えて
しましょう!!
・具体的に何を望むのか?
・抑制されてもいいのか?
・認知症が悪化してもいいのか?
・寝たきりになってもいいのか?』
と記述されていますが・・・・・・
長尾先生の本だったでしょうか? それともご講演
でだったでしょうか? はっきりとは覚えていない
のですが、人間の最終末期〔本当の余命〕を判断する
ことは本当に難しい! あるおばあちゃんが容体が
急変して “いよいよ峠が近づいて来ています!”
との宣言から、3度も生還して、今も元気にして
いる例がある! とのお話を聞いたように記憶して
います。
基本的に私は、高齢化〔老化〕や死に対して、医療
は無力! 何もすることがない! と思っています。
そして更につけ加えて言えば、医療措置の結果は
やってみないと分からない! というのが本当のとこ
ろでは? と思っています。
似たような症状・似たような年恰好の人でも、緊急
措置の結果は、いろいろ(千差万別)と思っています。
そのまま死に到る人・ベッドで寝たきりとなる人・
見事に蘇り日常生活に戻って行く人、それはその人
の生命力であったり、偶然の積み重ねの “運” であっ
たりするのかも知れません。
なので、緊急措置の結果が自分たちの望んだもので
ないと分かった時点で、何故? 前言を撤回して、
緊急医療の枠から退出することが出来ないのでしょうか?
それこそ “それはないでしょう!” の世界と思います。
武士に二言はない! という言葉がありますが、武士で
あれば信義を重んじ、一度口にした言葉の撤回はなし!
かもしれませんが、私たちは “町民” であり “商人” です。
何故、“町民” や “商人” である私たちに、前言を撤回
することが何故できないのでしょうか?!
私たちが医療に望んでいるものは、“悪い状態を少しでも
改善して、なるべくその人らしい生活を継続できる手助け
をして欲しい!” と言うことであり、 “全人格を医療に
任せる!” というものではけっしてありません。
緊急の事態にあたり、医療措置を施した結果が医療者が、
そして本人が家族が望んだものと違っていたら、方針を
転換することが当たり前と思います。
なのに、何故 “一度始めてしまった緊急医療” は、本人や
家族がどんなに希望しても、中断や撤退が許されないんで
しょうか?! 何故、この期に及んで、医療〔医師〕は、
“神” の如く振舞うのでしょうか ???
今回のブログで紹介された2例、もしその緊急措置を施した
医師の近しい人であったら、そのまま放置しておくことは
ないと思います。 何故、日本の医療は自分の親や伴侶、
家族だったらやらない医療を、それが “標準治療” という
ことだけで、他者には実施するのでしょうか ???
今回のブログの最期を長尾先生は “救急搬送を要請した
ことを後悔している家族が少なくない” ・・・・・ と結んで
おられますが、人生とは後悔の連続、状況に応じて中止や
撤回できない “常にファイナルアンサー” ・・・・・、ってど
こかおかしいことありませんか???!!!
変えるべきは、私たち市民の側の意識ではなく、硬直化した、
医療〔医師〕の立ち振る舞いが先ではない!か? と、緊急
時に “救急車” を呼ぶ意味についての話が出るたびに、違和
感を感じてしまう私です。 が ・・・・・・・、どこが間違っている
んでしょうか ???
Posted by 小林 文夫 at 2016年12月27日 08:55 | 返信
人間て、弱いもの。ついつい救急車を呼んでしまう家族の気持ちも分かります。
Posted by 社会福祉士河本健二 at 2016年12月27日 09:53 | 返信
昔、介護実習に於いて、閑静な住宅地への訪問介護に行きました。就業しませんか? と
スカウトまでして下さり、居心地の良さそうなステーションでした。
ある朝、慌ただしい雰囲気の事務所でした。現役スタッフが早朝訪問に訪れた時に、独居老人が
倒れていたそうで、ステーションの責任者が怒っているのは、伺ったスタッフが慌てて 119番
通報してしまった事でした。在宅医・主治医が決まっている御利用者さんであったらしく、
ステーション管理者が在宅医に、電話し、スタッフのミス(119番通報)を平謝りしている最中
でした。その時には、話を聞きながら「何かの時には 119番 するかも? Why?」と当時は、
半信半疑でしたが、今となって、事の顛末(理由)が理解できました。
リビングウィルの意志表明を、玄関あたりに張り出している、という御婦人(尊厳死協会会員様)が
紹介された映像を見た記憶がありますが、同様に主治医への連絡先(電話番号)を大きく張り出して
おくことが Best かも知れません。自分が承知しておくだけでなく、不測の事態に備える事が
大事なようです。
Posted by もも at 2016年12月28日 12:06 | 返信
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