医療法人社団ささえる医療研究所(北海道岩見沢市)理事長を務めていた村上智彦先生が2017年5月11日午前4時8分、北海道大学病院にて、白血病で闘病の末、享年56歳で逝去しました。私は、同研究所「ささえるクリニック岩見沢」院長を務めており、当研究所の運営にご協力、ご支援をいただいている全国の医療関係者の皆様に、御礼を兼ね、ご報告をさせていただきます。
村上先生は、2015年12月に急性骨髄性白血球を発症、兄の骨髄移植(『医師が急性白血病になって考えたこと - 村上智彦・ささえる医療研究所理事長に聞く◆Vol.1』などを参照)。幸い寛解をするも再発、今度は弟の骨髄をハプロ移植、完全寛解に向けてリハビリを続け、講演などの活動を再開した矢先の4月末に再再発、治療・寛解を目指しましたが、かないませんでした。最後は、「家に帰りたい……」と言われていましたが、無菌管理の故、かないませんでした。
村上先生はこの3月、『最強の地域医療』(ベスト新書)を上梓されました。本書には闘病生活を通じて見えてきた医療の問題点に加え、今後の超高齢社会を見据えた医療、ひいては地域社会の有り様を描いています。最後には、村上先生の20年以上にわたる地域医療の経験を踏まえ、こう結んでいます。
「『最強の地域医療』とはまさに地域住民の愛着、覚悟、物語で支えられる医療やケアのことであり、専門家や行政が与えてくれるものではありません」
ささえる医療研究所は、この考えを実践する途上にあり、多くの方が見学に訪れ、また村上先生が各地で講演をされ、ご自身の思いを説いておられました。私自身、そして村上先生の思いに共感された方々とともに、「最強の地域医療」を全国各地で展開できたら……。これが初七日を過ぎた今の思いです。
村上先生の名前が全国的に知られるようになったのは、2006年6月に財政破綻した北海道夕張市の夕張市立病院の経営、運営を託されることになったからでしょう。ただ、それ以前も、北海道瀬棚町で肺炎球菌ワクチンの公費助成を全国で初めて導入するなど、「治す」ではなく「ささえる」、「キュア」ではなく「ケア」主体の医療に取り組んでいました。夕張では、2007年に医療法人財団「夕張希望の杜」を設立、有床診療所と介護老人保健施設という体制に変更、地域包括ケアシステムを構築し、病院主体から地域主体の医療介護モデルの作りに取り組みました。
その後、夕張を離れ、北海道の岩見沢、旭川で地域住民でもあるスタッフが主役となり、ささえる医療、介護などを手段として、まちの一部を担う活動を行っていました。その活動では、下記の3つを大事にしています。
『ささえる流ハッピーコミュニティの必要条件』
⑴ ささえる医療と介護を手段として
⑵ みんなと楽しく学び続ける場所があり
⑶ 笑顔で楽しく働ける場がある
地域住民であるスタッフ主体の『医療介護を使ったまちづくり』が最強の地域医療でもあると思っていますし、実際に、リーダーである村上先生が1年半にわたる闘病中でも、ささえる医療研究所という組織は大きくなっていきました。『最強の地域医療』にも書いた通り、地元の人が主体で医療、介護などで働けば、地方の消滅問題の解決になると取り組み、成果を上げ始めていました。これらを、日本中に広げていくことが彼の夢でした。
村上先生の息子さんである村上浩明・当法人運営副本部長からは、下記の言葉を預かっています。
「故 村上智彦の通夜、葬儀(親族のみ)が無事終了しましたことを皆様にご報告させていただきます。さまざまな医療者の素晴らしい“つながり”を作ったことが、父の成した最大の功績だと私は思っております。こうした方々に、生前の父が強く言っていたことがあります。そんな父の言葉を持ちまして、ご挨拶とさせていただきます。皆様本当にありがとうございました」
「あなたは間違っていない。
だから、このまま続けてください。
黙っていても何も変わらない。
誰かがやらなきゃいけないんだから」
最後に『最強の地域医療』から、改めて村上先生の言葉を紹介します。
地域のおばちゃんたちがいきいきと働き、彼女たちの息子や娘たちが都会から帰ってきて働けるようなコミュニティが増えると良いですね!
「最強の地域医療」とはまさに地域住民の愛着、覚悟、物語で支えられる医療やケアのことであり、専門家や行政が与えてくれるものではありません。
医療やケアを守ることがコミュニティを守るためにも必要であり、それは決して専門的な仕事ではないように思えます。それが20年以上、地域医療に取り組んできた私の結論です。
夢なき者に理想なし
理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし
実行なきものに成功なし
故に 夢なき者に成功なし 吉田松陰
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